都市で働く人が、離れて暮らす家族へお金を送る。
そのお金が、食料や日用品、明日の暮らしへと変わっていく。
この当たり前にも見える営みを、携帯電話と地域の店舗で支えてきたのが、ケニアのモバイルマネー「M-PESA(エムペサ)」だ。
日本でキャッシュレス決済を考えるとき、私たちはレジでの速さやポイント還元を思い浮かべることがある。しかし決済には、便利さだけでなく、離れた人をつなぎ、取引に参加できる条件を整える役割もある。
ケニアと日本を比較すると、マーケティングの視野が商品や広告の外側へ広がる。
価値を伝える前に、その価値を使える環境はあるだろうか。
※本稿はM-PESAと日本の決済サービスの事例を比較するもので、両国の市場全体や国民性を一括りにするものではありません。実務への示唆はNEOTERRAINの考察です。
1.「高度な金融技術」を、生活の言葉に変える
M-PESAは2007年3月、ケニアでサービスを開始した。初期の訴求として使われたのが「Send Money Home」——家族のいる故郷へお金を送る、というメッセージだった。
出典:Safaricom、世界銀行掲載資料「Mobile Payments go Viral: M-PESA in Kenya」
ここに、広告や企画に携わる人が持ち帰れる知的トリビアがある。
新しい技術を普及させる言葉は、必ずしも新しい言葉である必要はない。
モバイル金融、電子的な価値の移転、決済プラットフォーム。
どれも仕組みの説明には役立つ。しかし、利用者が知りたいのは、その技術が自分の暮らしで何を可能にするかだ。
「家族へお金を送れる」なら、使う場面が浮かぶ。
送り手がいて、受け手がいて、届けたい理由がある。
機能を説明する言葉から、生活の目的を示す言葉へ。
これは、表現を柔らかくするだけの話ではない。サービスの中心価値を、利用者の視点から選び直す仕事だ。
ただしM-PESAの成長は、広告の言葉だけでは説明できない。利用の仕組みや接点が伴ってこそ、その約束が現実になる。
2.デジタルを支える、街の店
M-PESAでは、代理店を通じて現金の入金や引き出しができる。携帯電話の中の残高と、手元の現金をつなぐ場所が、サービスの重要な一部になっている。
出典:Safaricom「M-PESA Transactions」
デジタルサービスの話なのに、現実の店が重要になる。
ここが、この事例の面白いところだ。
携帯電話で送金できても、受け取った人が必要な形で使えなければ、暮らしへの価値は届かない。入金する場所、引き出す場所、支払える相手までつながって、取引の道筋になる。
この構造から考えると、サービスの使いやすさは画面だけでは決まらない。
接点までの距離、営業時間、手続き、困ったときの対応も含めて、利用体験はできている。
代理店の現金や電子残高が不足すれば、望んだ取引を実行できない場合もある。
デジタルの便利さを続けるには、現場の運営が欠かせない。
3.日本にもある、現金とデジタルの橋
日本の事例として、PayPayを見てみよう。
PayPayは、セブン銀行ATMやローソン銀行ATMから現金で残高にチャージできる。チャージに、それらの銀行の口座は必要ない。
出典:PayPay公式ヘルプ「現金でチャージがしたい」
M-PESAの代理店と日本のATMは、制度も運営も同じではない。
しかし、どちらにも「手元の現金を、デジタルサービスで使える形へ変える接点」という共通項がある。
新しいサービスに参加するために、利用者が越える手間は何か。
その手間を、どこで減らすか。
比較の焦点は、どちらの国が進んでいるかではない。
利用者の出発点に合わせて、入口をつくっているかである。
| 比較の視点 | ケニアのM-PESA | 日本のPayPay |
|---|---|---|
| 本稿で注目する入口 | 初期の「家族へお金を送る」という訴求 | 現金から残高へチャージする導線 |
| 現実の接点 | 現金の入出金を扱う代理店 | 現金チャージに対応するATM |
| 共通する構造 | 現金とデジタルの価値をつなぐ | 現金とデジタルの価値をつなぐ |
| 実務への問い | 受け手まで使える道筋があるか | 初めての人が利用を始められるか |
この表は両国の決済市場全体ではなく、二つのサービスの特定の側面を比較したものだ。
4.「欲しい」と「使える」の間に、市場がある
商品に関心があるのに、利用へ進めない人がいる。
支払い方法が合わない。申し込みが難しい。受け取りの時間が合わない。使い方を聞ける相手がいない。
こうした障壁は、商品の魅力を増やすだけでは解消しない。
広告に反応があっても成約しないとき、「訴求が弱い」と考える前に、利用へ至る道筋を見る必要がある。
マーケティングは、欲しくなる理由をつくる仕事であると同時に、選び、買い、使える条件を整える仕事でもある。
たとえば地域の専門店なら、遠方の顧客向けの配送や相談方法。教育サービスなら、申し込み前に授業を体験できる機会。通販なら、顧客に合った注文・支払い・受け取りの方法。
これらは新しい市場を開く仮説になる。
実際にどこで利用が止まっているかを調べ、改善後の利用状況まで確かめることが大切だ。
需要がないことと、需要に届いていないことは、分けて考えたい。
5.便利さの先にある、信頼の設計
お金を扱うサービスでは、使いやすさと同時に、安心して操作できることが重要になる。
送る相手は正しいか。いくら手数料がかかるか。処理は終わったか。間違えたときは、どこへ相談するか。
これは決済サービスに限らない。
初めての通販、初めての相談、初めての契約にも、似た不安がある。
価値を強く訴えるだけでなく、次の行動が分かり、その結果を確かめられるようにする。
その積み重ねが、利用を続ける土台になる。
「簡単です」と言うなら、どこで迷うかを見る。
「安心です」と言うなら、何が不安なのかを聞く。
ブランドの約束は、手続きの細部でも試されている。
6.PSELで読む、暮らしをつなぐ仕組み
Product|何ができるようになるか
目に見えるのは送金や決済の機能。
その先にあるのは、離れた家族へお金を届けることや、必要な取引を実行できることだ。
機能の一覧に加えて、利用者が達成したい目的を見る。
Story|どんな言葉で価値を伝えるか
「家族へお金を送る」という初期の訴求は、技術を生活の場面へ翻訳している。
ストーリーは飾りではなく、何のために使うサービスなのかを伝える役割を持つ。
Energy|誰が仕組みを動かすか
代理店の運営、現金の管理、システムの維持、問い合わせへの対応。
画面の裏側には、人の仕事がある。
使いやすいサービスを続けるには、提供する側も運営を続けられる設計が必要だ。
Land|どんな暮らしの中で使われるか
都市と地方の距離、身近な店舗、通信環境、移動にかかる時間。
サービスは、その土地の条件の中で使われる。
同じ技術を導入しても、入口や届け方まで同じでよいとは限らない。
7.日本の企業が持ち帰れる問い
M-PESAの事例から、単に決済手段を増やそうと結論づけるのは早い。
まず、自分たちの顧客が越えにくいものを見つけたい。
関心を持った人は、どこで止まっているのか。
利用に必要な手間は、誰にとって大きいのか。
最初の一回を支える接点はあるのか。
提供側が想定する使い方と、顧客が求める使い方は一致しているのか。
商品の改良や広告の改善と同じように、使い始める道筋も検討する。
そこには、これまで顧客になれなかった人へ届く可能性がある。
EDITOR’S NOTE — NEOTERRAIN
携帯電話の中を移動するお金の、その先には人の暮らしがある。
食卓があり、離れて暮らす家族がいて、明日の予定がある。
テクノロジーを語るとき、私たちは速さや性能を数えやすい。
けれど、その技術によって誰が何をできるようになったかは、生活の側から見なければ分からない。
ケニアと日本の比較から考えたいのは、価値へたどり着く道のつくり方だ。
魅力的な商品でも、入口が遠ければ届かない。
使い方が分からなければ、その良さを体験できない。
あなたの商品に関心を持ちながら、まだ使えずにいる人は、どこにいるだろうか。
参考資料
- Safaricom「M-PESA Journey」 https://www.safaricom.co.ke/personal/m-pesa/m-pesa-journey
- 世界銀行掲載資料「Mobile Payments go Viral: M-PESA in Kenya」 https://documents1.worldbank.org/curated/en/638851468048259219/pdf/543380WP0M1PES1BOX0349405B01PUBLIC1.pdf
- Safaricom「M-PESA Transactions」 https://www.safaricom.co.ke/main-m-pesa/m-pesa-services/transactions
- PayPay公式ヘルプ https://paypay.ne.jp/help/c0087/
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