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海がなくても、世界へつながる—栃木県の地政学を読み解く

日光・那須の山々と関東平野、都市、農地、道路を水墨画風に描き、「海はない。だが、道は世界へ続いている。」と記した栃木県の地政学イメージ

栃木県には海がない。

大規模な港湾も国際空港もなく、日本列島の内陸部に位置している。地図だけを見れば、海外との接点が少ない「閉じた県」に見えるかもしれない。

しかし、栃木県の歴史と産業をたどると、まったく異なる姿が浮かび上がる。

古代の東山道、江戸時代の日光街道と奥州街道、現代の東北自動車道と東北新幹線。栃木県は一貫して、東京と東北を結ぶ南北軸の途中に位置してきた。

さらに、北関東自動車道の開通によって、群馬県、新潟港、茨城県の常陸那珂港へとつながる東西軸も強化された。

栃木県は、海を持たない代わりに「道によって海とつながる県」なのである。

今回は、山、川、街道、信仰、鉱山、農業、工業という視点から、栃木県の地政学を読み解いていきたい。

Contents

三方を山に囲まれた、関東平野の北の入口

栃木県の地形は、北西部の山岳地帯と、中央部から南部へ広がる平野部によって構成されている。

北西部には日光連山、北部には那須連山、西部には足尾山地、東部には八溝山地が連なる。県土の約55%を森林が占め、北部の山々は太平洋側と日本海側を分ける分水嶺にもなっている。

そこから流れ出すのが、鬼怒川、那珂川、渡良瀬川という三つの大きな河川だ。

これらの川は山岳地帯の水を南へ運び、農業用水、生活用水、工業用水を供給してきた。一方で、大雨の際には洪水を引き起こし、流域の都市や農地に被害をもたらすこともある。

つまり栃木県にとって山と川は、単なる自然景観ではない。

水、食料、産業、災害を左右する、県土の基本構造なのである。

北部の山地は人の移動を制限する「壁」でありながら、豊かな水や森林、鉱物、温泉を生み出す「資源地帯」でもあった。そして南部の平野は、その資源を受け止め、人々が暮らし、産業を発展させる場所となった。

栃木県の地政学は、この「北の山」と「南の平野」の関係から始まっている。

宇都宮は、なぜ交通の要衝になったのか

栃木県の中心都市・宇都宮は、県のほぼ中央に位置している。

古代には、都と東北地方を結ぶ東山道が下野国を通った。江戸時代になると、宇都宮は日光街道と奥州街道が分岐する重要な地点となる。

日光街道は江戸から徳川家康を祀る日光東照宮へ向かい、奥州街道は宇都宮からさらに北へ延び、東北地方へとつながっていた。

宇都宮は、単なる宿場町ではなかった。

江戸と日光、関東と東北、政治と信仰を結ぶ結節点だったのである。

日光街道を通ったのは、参詣者や旅人だけではない。幕府の役人、諸大名、商人、職人、物流を担う人々も往来した。街道沿いでは宿場や商業が発達し、外部の情報や文化が地域に流れ込んだ。

この南北方向の地理的優位性は、近代以降も変わっていない。

現在では東北新幹線、JR宇都宮線、東北自動車道、国道4号が県内を南北に貫いている。古代の東山道、江戸時代の街道、現代の鉄道と高速道路は、形を変えながら同じ地理的役割を引き継いでいる。

栃木県は、時代が変わっても「東京と東北の間」にある。

この位置こそが、宇都宮を県都として成長させ、栃木県に交通と産業の集積をもたらした大きな要因である。

日光は、徳川政権がつくった「北の聖地」

栃木県の地政学を語るうえで、日光は欠かせない。

徳川家康が日光に祀られたことで、この山岳地帯は江戸幕府にとって特別な意味を持つ場所になった。

日光は江戸から見て、ほぼ真北に位置する。北極星を中心とした北方信仰との関係など、日光の位置についてはさまざまな解釈があるが、少なくとも徳川政権が日光を重要な宗教的・政治的空間として整備したことは確かである。

幕府は日光東照宮を造営し、参詣のための街道を整えた。日光街道、例幣使街道、会津西街道などが日光へ集まり、山中の聖地と各地域を結んでいった。

現在の「日光の社寺」は、二荒山神社、東照宮、輪王寺に属する103棟の宗教建築群と周囲の自然環境から構成され、ユネスコ世界文化遺産に登録されている。

ここで重要なのは、日光が孤立した山岳信仰の地ではなかったということだ。

江戸幕府の権威、交通網、建築技術、職人文化、森林資源が集まる、国家的なプロジェクトの舞台だった。

今日の日光は世界的な観光地だが、その基盤には、信仰と政治を結びつけた徳川政権の空間戦略がある。

足尾銅山が示した、近代化と環境破壊

日光市の西部、足尾地域には、かつて日本を代表する銅山が存在した。

足尾銅山は江戸時代から採掘が行われ、明治期に入ると最新の採鉱・製錬技術が導入された。生産量は急速に拡大し、日本の近代工業化を支える重要な銅の供給地となった。

銅は、電線、機械、兵器、建築などに欠かせない資源である。

足尾で生産された銅は、近代国家を建設するためのインフラと産業を支えた。山中にある足尾は、鉄道や道路によって首都圏や港湾と結ばれ、日本の産業化、さらには海外市場とも接続していった。

しかし、その発展は深刻な公害を引き起こした。

製錬時に発生する煙害や鉱山廃水によって周囲の森林が失われ、渡良瀬川流域の農地や生活環境にも大きな被害が広がった。足尾銅山鉱毒事件は、日本で公害が社会問題化した初期の象徴的な出来事となった。

ここには栃木県の地形が強く関係している。

山中で発生した汚染は川を通じて下流へ運ばれ、県境を越えて群馬、埼玉、茨城方面へ影響を及ぼした。行政区域が分かれていても、水は県境で止まらない。

足尾銅山は、資源開発による利益を誰が得て、環境被害を誰が引き受けるのかという、現代にも続く問題を突きつけている。

日光が「信仰と権力の山」なら、足尾は「産業と環境問題の山」だった。

同じ県西部の山岳地帯に、日本の前近代と近代を象徴する二つの場所が存在しているのである。

北関東自動車道がつくった「海への出口」

栃木県の交通は、長い間、東京と東北を結ぶ南北方向が中心だった。

そこに新たな地政学的変化をもたらしたのが、北関東自動車道である。

北関東自動車道は、群馬県、栃木県、茨城県を東西に結び、東北自動車道、関越自動車道、常磐自動車道などと接続している。これによって栃木県は、茨城県の常陸那珂港方面や、群馬県を経由した新潟方面へのアクセスを得た。

海のない栃木県にとって、これは「道路による港湾の獲得」ともいえる。

原材料を港から工場へ運び、完成した製品を国内外へ出荷する。沿岸部に工場を置かなくても、高速道路網によって港湾と結ばれれば、内陸部でも大規模な製造業を展開できる。

さらに、内陸部には津波や高潮の直接被害を受けにくいという特徴もある。広い工業用地、水資源、首都圏への近さ、高速道路網が組み合わさることで、栃木県は製造・物流拠点としての競争力を高めてきた。

かつての街道が人と文化を運んだとすれば、現代の高速道路は部品、製品、食料を運んでいる。

栃木県の強さは、海を持つことではなく、複数の海へ向かう道を持つことにある。

「ものづくり県」は地理から生まれた

栃木県は、全国有数の工業県である。

栃木県が2026年に公表した産業戦略によると、2023年の製造品出荷額等は約9兆8,895億円。輸送用機械、飲料・たばこ、電気機械、生産用機械、食料品、化学、プラスチックなど、多様な産業が集積している。

特定の一業種だけに依存せず、複数の製造業が県内経済を支えている点も特徴だ。

宇都宮市東部の清原工業団地、芳賀町や真岡市周辺、県南部の小山市、栃木市、佐野市など、それぞれの地域に工業拠点が形成されている。

背景には、いくつもの地理的条件がある。

東京という巨大市場に近いこと。東北方面への物流に適していること。東北自動車道と北関東自動車道が交差していること。河川から工業用水を確保できること。そして、首都圏沿岸部と比較して工業用地を確保しやすいことだ。

つまり栃木県の工業は、単に企業誘致が成功した結果ではない。

山から供給される水、関東平野の土地、東京との距離、南北と東西の交通網という地理的条件が組み合わさって形成された産業構造なのである。

首都圏の食を支える農業県

栃木県は工業県であると同時に、農業県でもある。

2023年の農業産出額は2,959億円で、全国10位。いちご、米、麦、野菜、畜産、酪農など、多様な農業が行われている。

特に栃木県は「いちご王国」として知られ、長年にわたり全国有数のいちご産地として地位を築いてきた。

農業の発展にも地理が関係している。

北部の那須野が原では、冷涼な気候と広い土地を生かした酪農や畜産が行われる。中央部から南部の平野では、鬼怒川、那珂川、渡良瀬川水系の水を利用し、米、麦、野菜などが生産される。

そして、東京という巨大消費地に近い。

農産物は鮮度が価値を左右する。高速道路や鉄道によって首都圏へ短時間で輸送できる栃木県は、生鮮食品の供給基地として有利な位置にある。

「東京に近すぎず、遠すぎない」という距離が、栃木県の農業と工業の双方を支えている。

一つの県に存在する、三つの異なる地域圏

栃木県は一枚岩ではない。

県北、県央、県南では、地形だけでなく、周囲とのつながり方も異なっている。

県北の日光、那須、塩原地域は、福島県や会津地方との関係が深い。山岳信仰、温泉、観光、酪農、森林資源が地域の特徴を形成している。

県央の宇都宮、芳賀、真岡地域は、県庁所在地としての行政機能と、製造業、研究開発、交通結節機能が集中する栃木県の中枢である。

県南の小山、栃木、佐野、足利地域は、東京方面との結びつきに加えて、群馬県や茨城県、埼玉県との交流が強い。特に足利・佐野周辺は、群馬県東部とともに「両毛地域」と呼ばれる県境を越えた経済・文化圏を形成してきた。

行政上は一つの栃木県であっても、実際の人流、物流、商圏は県境を越えている。

この地域差を理解しなければ、栃木県の全体像は見えてこない。

栃木県が抱える地政学的な課題

交通と産業に恵まれた栃木県だが、課題もある。

第一は、東京への依存である。

首都圏に近いことは大きな利点だが、若者や高度人材が東京へ流出しやすいという側面もある。東京へ商品や人材を送り出すだけでは、地域に知識、資本、文化を蓄積することが難しくなる。

第二は、自動車を前提とした地域構造だ。

工業団地、住宅地、商業施設が広い範囲に分散する栃木県では、自家用車への依存度が高い。人口減少と高齢化が進めば、公共交通の維持や移動手段の確保が重要になる。

第三は、山間部と平野部の格差である。

宇都宮や県南部では都市・産業機能が集積する一方、山間地域では人口減少、林業の衰退、空き家、地域交通の縮小が進む。水や森林を供給する上流地域が衰退すれば、下流の都市や産業にも影響が及ぶ。

そして第四は、自然災害と環境問題への対応である。

海がないため津波の直接被害は受けないが、河川氾濫、土砂災害、猛暑、豪雨などのリスクは存在する。足尾銅山の歴史が示したように、上流部の開発や環境変化は、広い流域へ影響を与える。

内陸県であることは、安全を保証するものではない。

栃木県は「通過点」から「結節点」になれるか

栃木県は、古代から現代まで、多くの人や物が通過する場所だった。

東山道、日光街道、奥州街道、鉄道、新幹線、高速道路。交通網が発達するたびに、栃木県は東京、東北、北関東、港湾とのつながりを強めてきた。

しかし、交通が便利であるだけでは、地域は豊かにならない。

人や物が通り過ぎるだけなら、栃木県は巨大都市と港湾の間にある中継地点にとどまってしまう。

重要なのは、交通によって運ばれてくる人、情報、技術、資本を、地域の中で新しい価値へ変えることだ。

日光の歴史と文化、足尾の産業・環境史、那須の自然と農業、宇都宮・芳賀の製造業、足利・佐野のものづくり文化。これらを個別の観光地や産業として扱うのではなく、一つの地域物語として結び直す必要がある。

栃木県は「海のない県」ではない。

東京と東北を結び、太平洋側と日本海側をつなぎ、山の資源を都市へ送り出してきた、内陸の結節点である。

道は、栃木県の弱点を補うために存在するのではない。

道そのものが、栃木県最大の地政学的資源なのである。


※この記事が、栃木県の風景や産業を別の角度から見るきっかけになりましたら、ぜひブックマークして、また読み返してみてください。

参考資料

栃木県「統計からみたとちぎ」

栃木県「とちぎ産業成長戦略2026-2030」

栃木県「日光街道・奥州街道を歩く」

栃木県「日光・会津・上州歴史街道対流圏の強化プロジェクト」

国土交通省「重要物流道路 供用区間・関東」

文化庁「足尾銅山―日本の近代化・産業化と公害対策の起点―」

UNESCO World Heritage Centre「Shrines and Temples of Nikko」

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