滋賀・琵琶湖の「深呼吸」から考える、見えない自然環境問題
湖岸に立つと、水の広さに目を奪われる。
対岸の山はかすみ、空の色が湖面にほどけている。風が吹けば波が立ち、やめば光が戻る。
琵琶湖という風景を、私たちはまず、横に広がるものとして眺める。
けれど、この湖の命を支えているのは、その奥行きでもある。
光の届きにくい深い場所。
岸辺からは見えない生きもの。
そして、冬になると湖底へ届けられる酸素。
琵琶湖には、「深呼吸」と呼ばれる水の循環がある。
いま滋賀県の自然環境を考えるうえで、この見えない呼吸を知ることが、一つの入口になる。
夏の湖には、見えない境目ができる
夏、湖面に近い水は日差しで温められる。
一方、深い場所の水は冷たいまま残る。琵琶湖北湖では、その間に、水温が急に変わる「水温躍層」が形成される。
温かく軽い上の水と、冷たく重い下の水。その違いによって上下の水が混ざりにくくなり、深い場所へ酸素が届きにくくなる。湖底ではその間も、生きものの呼吸や、沈んだ有機物の分解によって酸素が使われていく。滋賀県琵琶湖環境科学研究センター
湖面を渡る風を見ても、湖の底まで水が動いているとは限らない。
同じ湖の中にありながら、上と下では、異なる時間が流れている。
その隔たりをほどいてきたのが、冬の冷たさだった。
冷たい季節が、湖底へ酸素を届ける
秋から冬にかけて湖面が冷えると、上下の水温差が小さくなり、風の働きも受けながら水の混合が深い場所へ進んでいく。
湖底まで混ざり、表層から底層まで水温や溶存酸素濃度などがほぼ一様になる現象を「全層循環」という。これが、琵琶湖の「深呼吸」と呼ばれるものだ。滋賀県琵琶湖環境科学研究センター
人にとって、冬の寒さは、ときに暮らしの負担になる。
けれど、湖の底で生きるものにとっては、酸素が再び届く季節でもある。
暖かい冬を喜ぶ感覚と、冷える冬を必要とする生態系。その二つが、同じ土地に重なっている。
私たちの快適さだけでは、季節の価値を測り切れないことを、湖は教えている。
「深呼吸」が届かなかった冬
2018年度、暖冬の影響も大きく、今津沖の水深約90メートルの一部水域で、湖水の混合が十分に進まなかった。観測史上初めて、全層循環の未完了が確認された。
翌2019年度も、同じ水域で全層循環が確認されなかった。滋賀県琵琶湖環境科学研究センター
ここで、琵琶湖全体の水が動かなくなったと捉えるのは正確ではない。問題になったのは、深い一部水域まで混合が届かなかったことだ。
それでも、季節が巡れば起きると思われていた現象が、必ずしも完了しない。その事実は重い。
一方で、全層循環が失われたままになっているわけでもない。
2026年2月10日の調査では、北湖の第一湖盆で全層循環が確認され、底層の溶存酸素量は10mg/L前後まで回復した。滋賀県は、1月から2月上旬の冷え込みと強風によって混合が進んだと考えている。pref.shiga.lg.jp
「湖の呼吸が止まった」という一言では、この変化は語れない。
届かなかった冬もあれば、届いた冬もある。その違いを、毎年確かめ続ける必要がある。
冬に回復しても、秋には酸素が少なくなる
全層循環が確認されたからといって、その年の湖底環境がずっと安定するわけではない。
2026年9月28日、北湖第一湖盆の水深約90メートルで行われた調査では、7地点のうち1地点で、底層の溶存酸素量が2mg/Lを下回った。これは、底生生物への影響が見られる目安とされる値だ。調査地点の測定値は1.9〜4.3mg/Lだった。pref.shiga.lg.jp
冬に酸素が届き、春から秋にかけて消費される。こうした季節変化の中で、どこまで減るのか、低い状態がどれだけ続くのかが問題になる。
県は今回、植物プランクトンの一部が沈んで分解されることによる酸素消費や、強風の影響が比較的少なく、水の混合が弱かったことなどを要因として挙げている。pref.shiga.lg.jp
湖底の酸素は、届けられる量と、使われる量の両方で変わる。
温暖化の影響を見つめながら、その年の風やプランクトンの動きも確かめる。一つの原因に急いで結びつけない姿勢が、この湖を理解するためには欠かせない。
湖底の小さな生きものを、なぜ気にかけるのか
深い湖底のヨコエビを、日常の中で思い浮かべる人は多くないだろう。
食卓に並ぶ魚や、湖岸で出会う水鳥に比べれば、その存在は遠い。
しかし、国立環境研究所によれば、琵琶湖では貧酸素化に起因すると推定されるヨコエビ類などの減少が報告されている。こうした底生動物は湖底の物質循環を促すと考えられており、その役割の解明が進められている。琵琶湖の底層環境評価に関する研究
その働きには、まだ十分に分かっていない部分もある。
だからこそ、小さな生きものの減少を、単なる個体数の変化として片づけることはできない。
湖は、水をためる器ではない。
水の中で生き、食べ、分解し、次へ渡す、無数の営みが重なる場所だ。
その一部が弱ったとき、ほかのつながりに何が起きるのか。
湖面の美しさだけでは答えられない問いが、深い場所に残っている。
台所から湖を変えた土地で、次に何を見るのか
滋賀には、暮らしの中から湖を守ろうとしてきた歴史がある。
1977年、琵琶湖で大規模な淡水赤潮が発生した。その原因の一つとして合成洗剤に含まれるりんが問題になり、住民による「石けん運動」が広がった。
こうした動きを背景に、1980年7月1日、窒素やりんの排出規制などを定めた琵琶湖条例が施行された。滋賀県
洗濯に何を使うか。
台所から何を流すか。
家の中の選択が、遠くに見えていた湖と結びついた。
この経験は、自然環境の問題を「自分には関係のないもの」にしない、滋賀の大切な蓄積だと思う。
ただ、現在の課題には、日々の排水対策に加えて、気候や水の循環まで考える広さが必要になっている。
暮らしから出る負荷を減らすこと。
温室効果ガスの排出を減らすこと。
湖底の酸素や生きものを観測し、変化に応じて対策を考えること。
一人ひとりの選択と、行政・研究機関・事業者による取り組みを、つないでいく必要がある。
かつて台所から湖へ伸びた想像力を、いまは湖底と、その上にある大気にまで伸ばす。そんな時代に入っている。
湖面の向こうではなく、その下へ
琵琶湖を訪れれば、私たちは対岸を見る。
山の稜線を探し、空の広さを感じ、水辺に暮らす時間を想像する。
そこへ、もう一つの視線を加えたい。
足元から続く水の、その下を見る視線だ。
今年の冬、水はどこまで混ざったのか。
秋の湖底には、どれだけ酸素が残っているのか。
小さな生きものは、そこで暮らし続けられるのか。
その答えは、一枚の風景写真には写らない。
採水を続ける人、観測機器を下ろす人、データを積み重ねる人の仕事を通して、少しずつ見えてくる。
琵琶湖を未来へ渡すためには、美しい湖面を愛する気持ちとともに、その下で起きていることを知ろうとする関心が必要なのだと思う。
EDITOR’S NOTE — NEOTERRAIN
「湖にも、冬が必要だった。」
全層循環の仕組みを知ると、寒い季節の見え方が少し変わる。
湖岸で襟を立てたくなる風が、水を混ぜる。
手を入れるのをためらう冷たさが、深い場所へ酸素を届ける条件になる。
人の身体には厳しい季節が、別の命を支えている。
自然環境を考えるとは、こうした、自分とは異なる都合に気づくことでもあるのだろう。
湖底のヨコエビにも、冷たい水にも、それぞれの時間がある。それを、私たちの便利さや、目に見える美しさだけで測り切ることはできない。
琵琶湖の深呼吸は、毎年同じように保証されたものではない。
だからこそ、今年の冬を確かめ、今年の秋を見届ける。その積み重ねに、湖と暮らすということの、静かな責任がある。
参考資料
- 滋賀県琵琶湖環境科学研究センター「全層循環の概要・仕組み」
- 滋賀県「琵琶湖北湖において全層循環の完了を確認」(2026年2月13日発表)
- 滋賀県「琵琶湖北湖第一湖盆(水深約90m)において貧酸素状態が確認されました」(2026年10月6日発表)
- 滋賀県「琵琶湖の水質(速報)について」
- 国立環境研究所 琵琶湖分室「琵琶湖の底層環境評価に関する研究」
- 滋賀県「『びわ湖の日』とは?」
※公開資料に基づく記事です。水質の数値は記載した調査日・地点のもので、琵琶湖全域の状態を示すものではありません。

