海を見ていると、すべてがそこにあるように感じる。
波がある。
光がある。
潮の匂いがある。
遠くに船が見える。
夏になれば人が集まり、夕暮れには海面が静かに光る。
けれど、私たちが海岸から見ている海は、海の表面にすぎない。
その下には、もうひとつの森がある。
海藻が揺れ、魚が隠れ、貝や甲殻類が暮らし、幼い命が育つ場所。
それが、藻場である。
藻場は、海の森とも呼ばれる。
陸の森が鳥や昆虫、動物を育てるように、海の森は魚や貝、さまざまな生き物を育ててきた。
水を浄化し、海の生態系を支え、近年では二酸化炭素を吸収・貯留するブルーカーボン生態系としても注目されている。
しかし、その海の森が、各地で失われつつある。
海藻が消え、岩肌が白くなり、魚のすみかが減っていく。
この現象は、磯焼けと呼ばれる。
美しい海の下で、静かに森が消えている。
それは、海だけの問題ではない。
漁業の問題であり、地域の暮らしの問題であり、気候変動の問題であり、私たちが海とどう関わってきたのかという問いでもある。
藻場とは何か
藻場とは、海藻や海草がまとまって生育している場所のことである。
アラメ、カジメ、ホンダワラ類、アマモなど、地域によってさまざまな種類がある。
岩場に生える海藻もあれば、砂泥地に根を張る海草もある。
そこは、単なる海藻の集まりではない。
水産庁は、藻場について、水産生物の産卵場、幼稚仔魚の生息場、餌場などを提供し、水産生物の生活に大きな役割を果たしていると説明している。
つまり藻場は、海の中の保育園であり、隠れ家であり、食堂でもある。
アワビやサザエが海藻を食べる。
小さな魚が藻の間に隠れる。
イカが産卵する。
幼い魚が外敵から身を守りながら成長する。
藻場があることで、海の生き物は命をつなぐことができる。
そして、その命のつながりが、漁業を支え、食卓を支え、地域の文化を支えてきた。
磯焼けとは何か
磯焼けとは、海藻が大きく減少し、岩場が裸地化してしまう現象である。
本来なら海藻が茂っているはずの場所から海藻が消え、白っぽい岩肌が広がる。
そこには、かつてのような魚の気配や生き物の豊かさが失われていく。
磯焼けの原因は、ひとつではない。
海水温の上昇。
ウニや植食性魚類による食害。
沿岸開発。
海流や栄養塩の変化。
台風や大雨による濁りや堆積物の影響。
漁業や地域管理の変化。
こうした要因が重なり合い、藻場が回復しにくい状態になる。
水産庁は、高水温などにより海藻が枯れることで藻場の大幅な衰退が報告されていること、また洪水などによる懸濁物質や堆積物の増加が海藻の生育阻害や藻体の埋没を引き起こす懸念があると説明している。
磯焼けは、単純に「海藻がなくなる」という現象ではない。
海藻がなくなることで、魚が減る。
魚が減ることで、漁業が変わる。
漁業が変わることで、地域の海との関係が変わる。
海の森が消えることは、海辺の暮らし全体を変えてしまう可能性がある。
海の森が消えると、魚も減る
藻場が失われると、まず影響を受けるのは、そこに依存している生き物である。
アワビやサザエのように海藻を餌にする生き物。
藻場をすみかにする小魚。
産卵場所として利用する生き物。
幼い時期を藻場で過ごす水産資源。
水産庁は、藻場の衰退によって、イセエビやアワビ類など、藻場を生息場や餌場として活用する水産生物の漁獲量の減少が報告されていると説明している。
これは、漁業者にとっては深刻な問題である。
海があっても、魚が育つ場所がなければ、漁業は成り立ちにくくなる。
海岸から見れば同じ海に見えても、海中の構造が変われば、そこに暮らす生き物も変わる。
観光客は、海の色を見る。
漁師は、海の中を見る。
同じ海を見ていても、見えているものが違う。
海岸から見える美しさと、海の中で起きている変化のあいだには、大きな距離がある。
磯焼けは、気候変動の問題でもある
磯焼けは、地域の海だけで完結する問題ではない。
近年、海水温の上昇が藻場に影響を与えている。
高水温によって海藻が弱り、枯れやすくなる。
また、温暖な海を好む植食性魚類の活動が活発になり、海藻を食べる圧力が高まる場合もある。
水産庁の資料でも、植食性魚類による藻場の衰退が顕在化してきた原因は、沿岸水温の上昇に求められることが多いと説明されている。
海は、気候変動の影響を静かに受け止めている。
私たちは、猛暑や豪雨のように陸上で起きる変化には気づきやすい。
しかし、海水温の変化や海中の生態系の変化は、見えにくい。
見えにくいから、問題として認識されにくい。
けれど、海の中の変化は確実に地域へ戻ってくる。
魚種が変わる。
漁獲量が変わる。
海藻が採れなくなる。
海辺の産業が変わる。
食文化が変わる。
気候変動は、遠い北極や南極だけの話ではない。
目の前の海の森にも、すでに影響を与えている。
ブルーカーボンとは何か
近年、藻場や干潟はブルーカーボン生態系としても注目されている。
ブルーカーボンとは、海洋生態系によって吸収・貯留される炭素のことを指す。
海草藻場、海藻藻場、干潟、塩性湿地、マングローブ林などが、その代表的な生態系とされる。
環境省は、ブルーカーボン生態系について、CO₂吸収源としての機能だけでなく、水質浄化、水産資源の活性化、教育やレジャーの場の提供など、多面的な価値を持つと説明している。
つまり、藻場を守ることは、気候変動対策だけではない。
魚を守ること。
海の水質を守ること。
生物多様性を守ること。
地域の漁業を守ること。
子どもたちが海と触れ合う場所を守ること。
それらが重なった取り組みである。
ブルーカーボンという言葉は、少し専門的に聞こえる。
しかし、その本質はとても身近だ。
海の森を育てること。
海の生き物が暮らせる場所を守ること。
海辺の地域が、海ともう一度関係を結び直すこと。
それが、ブルーカーボンの土台にある。
藻場は“炭素”だけでは語れない
ブルーカーボンが注目されることで、藻場の価値は新しく見直されている。
企業がカーボンニュートラルの文脈で藻場再生に関心を持つ。
自治体が地域の海を自然資本として捉える。
漁業者と企業が連携する。
藻場再生の取り組みがクレジット化される。
実際に、ジャパンブルーエコノミー技術研究組合は、ブルーカーボン生態系が吸収・貯留するCO₂を対象に、Jブルークレジットを認証・発行している。
これは、海の森に経済的な価値を与える仕組みでもある。
ただし、注意も必要である。
藻場を「CO₂を吸収する場所」としてだけ見ると、海の森の本質を見失う可能性がある。
藻場は、炭素の貯蔵庫である前に、生き物の暮らす場所である。
魚のゆりかごであり、地域の漁業の基盤であり、海辺の文化を支える場所である。
ブルーカーボンは重要だ。
しかし、炭素だけで海を測ることはできない。
本当に大切なのは、藻場が持つ複数の価値を見つめることである。
気候変動対策。
生物多様性。
漁業。
教育。
観光。
地域の誇り。
それらが重なった場所として、海の森を考える必要がある。
藻場再生は、誰が担うのか
藻場を守る取り組みは、各地で行われている。
ウニの除去。
植食性魚類への対策。
海藻の種苗投入。
母藻の設置。
海底環境の改善。
モニタリング。
漁業者、研究者、自治体、企業、市民団体の連携。
しかし、藻場再生は簡単ではない。
海の中は見えにくい。
成果が出るまで時間がかかる。
地域によって原因も条件も違う。
一度海藻を植えれば終わり、というものではない。
水産庁は、藻場・干潟の保全活動に取り組む漁業者等の高齢化や担い手不足、ブルーカーボン生態系としての重要性や社会的関心の高まりを踏まえ、2023年12月に「藻場・干潟ビジョン」を改訂している。
ここにも、地域社会の課題がある。
海を守る人が減っている。
漁業者が高齢化している。
海の中を日常的に観察してきた人の知識が失われつつある。
一方で、企業や自治体、市民団体が新しく関わる余地も生まれている。
藻場再生は、自然保護であると同時に、地域の担い手をどう作るかという問題でもある。
海の森を守るには、海の中だけを見ていては足りない。
海に関わる人間の仕組みを作り直す必要がある。
海の森は、地域の記憶でもある
藻場は、地域の記憶でもある。
昔はこのあたりに海藻が多かった。
アワビがよく採れた。
サザエがいた。
魚が集まっていた。
子どもの頃、磯で遊んだ。
ワカメやヒジキを干す風景があった。
そうした記憶は、海の生態系と人間の暮らしが重なっていた証拠である。
海の変化は、数字だけでは見えない。
漁獲量の推移や水温データも大切だが、地域の人が覚えている海の姿もまた、貴重な記録である。
「昔の海はこうだった」
その言葉には、科学データとは違う重みがある。
NEOTERRAIN Journalが見つめたいのは、そこにある。
自然環境問題は、データだけでは伝わらない。
現場の声、土地の記憶、暮らしの手触りと結びついたとき、初めて自分ごとになる。
藻場が消えるということは、海藻が消えるだけではない。
魚の記憶が消える。
漁の記憶が消える。
磯遊びの記憶が消える。
地域が海と結んできた関係が、少しずつ薄れていく。
見えない危機を、どう見えるようにするか
磯焼けの難しさは、見えにくさにある。
海岸から見れば、海は今日も美しい。
波は光り、夕日は沈み、観光客は写真を撮る。
しかし、その海の下で藻場が消えていても、気づく人は限られている。
見えない危機は、社会の関心を集めにくい。
だからこそ、見えるようにする必要がある。
水中写真。
ドローン。
漁師の証言。
研究者のデータ。
地域の記憶。
子どもたちの観察会。
企業や市民が参加する保全活動。
ブルーカーボンの可視化。
海の森の変化を、社会が共有できる言葉と映像に変えていくこと。
それもまた、環境問題への関わり方である。
技術や資金を持つ人だけが、海を守るわけではない。
海の変化を伝える人も必要である。
見えない問題を、見える物語にする人も必要である。
海を美しい風景で終わらせない
海は、美しい。
その美しさに惹かれて、人は海へ向かう。
写真を撮り、散歩をし、旅をし、海辺に暮らしたいと思う。
けれど、美しい風景として海を見るだけでは、海の変化には気づけない。
海の中に森があること。
その森が魚を育てていること。
その森が消えつつあること。
その森が気候変動や地域社会とつながっていること。
それを知ったとき、海の見え方は変わる。
波の下に、もうひとつの風景がある。
その風景は、私たちの暮らしとつながっている。
海の森が消える日。
それは、魚が減る日であり、漁業が変わる日であり、地域の海の記憶が薄れていく日でもある。
そして、ブルーカーボンという言葉が示すように、海の森は地球の気候ともつながっている。
海を守るとは、海岸をきれいにすることだけではない。
海の中にある森を、もう一度見つめ直すことでもある。
美しい海の下で、何が起きているのか。
その問いから、海との新しい関係は始まる。
海の森は、まだ完全に失われたわけではない。
だからこそ、今、見つめる必要がある。
波の下にある森を。
魚たちのすみかを。
地域の記憶を。
そして、私たちがこれからも海と共に生きていくための、見えない基盤を。
引用・参考
水産庁「藻場の保全・創造、磯焼け対策」
https://www.jfa.maff.go.jp/j/gyoko_gyozyo/g_zyoho_bako/mobahozen_sozo_isoyaketaisaku.html
水産庁「藻場等への影響」
https://www.jfa.maff.go.jp/j/kikaku/wpaper/r06_h/trend/1/t1_f_2_4.html
水産庁「磯焼けとは」
https://www.jfa.maff.go.jp/j/gyoko_gyozyo/g_gideline/attach/pdf/index-36.pdf
水産庁「藻場・干潟ビジョンの改訂について」
https://www.jfa.maff.go.jp/j/press/keikaku/231208.html
環境省「ブルーカーボンとは」
https://www.env.go.jp/earth/ondanka/blue-carbon-jp/about.html
環境省「ブルーカーボンに関する重要なお知らせ」
https://www.env.go.jp/earth/ondanka/blue-carbon-jp.html
国土交通省 港湾局「ブルーカーボン」
https://www.mlit.go.jp/kowan/kowan_tk6_000069.html
ジャパンブルーエコノミー技術研究組合「Jブルークレジット」
https://www.blueeconomy.jp/credit/
海の森が消えることは、海藻だけの問題ではありません。
魚、漁業、地域の記憶、そして気候変動までつながる、見えにくい自然環境問題です。
これからも、美しい風景の裏側にある構造を掘り下げていきます。
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