「90%縮小」の数字だけでは見えない、変動する湖と人々の暮らし
アフリカ大陸の中央部、サハラ砂漠の南縁に位置するチャド湖。
チャド、ナイジェリア、ニジェール、カメルーンにまたがるこの湖は、しばしば「気候変動によって面積の90%を失った湖」として紹介される。かつて広大だった水面が小さくなっていく衛星画像は、地球環境問題を象徴する風景として世界中に広まった。
しかし、チャド湖で起きていることは、湖が一方向に縮小し、やがて消滅するという単純な物語ではない。
この湖の本当の危機は、水が減っていることだけではない。
水面が大きく動き、そのたびに農地、漁場、放牧地、集落の境界が変わってしまうことにある。
海へ流れ出さない、浅い湖
チャド湖は、海へつながる出口を持たない内陸湖である。
湖へ入った水は、川として海へ流れ出るのではなく、主に蒸発や地下への浸透によって失われる。そのため、流入する水量と降水量の変化が、そのまま湖面の広さに表れやすい。
さらにチャド湖は、平均水深が数メートルほどしかない非常に浅い湖である。
深い器に水を入れた場合、水量が多少変わっても水面の面積はそれほど変わらない。しかし、底の浅い皿では、わずかな水量の変化によって水際が大きく移動する。
チャド湖は、巨大な水槽というより、平坦な土地に広がる湿地に近い。
水が増えれば広大な土地が冠水し、減れば湖底から草地や農地が現れる。湖と陸の境界は、地図に一本の線として固定できるものではない。
「90%縮小」は、間違いではない
1960年代、チャド湖の水面はおよそ2万5,000平方キロメートルに達していたとされる。
ところが1970年代から1980年代にかけて、サヘル地域を深刻な干ばつが襢った。湖への主要な水源であるシャリ川・ロゴーヌ川水系の流量が減少し、湖は北部と南部に分断された。
農業用水の取水、人口増加に伴う水需要、土地利用の変化も重なり、開水面だけを見ると、湖の面積は最盛期のごく一部まで縮小した。
したがって、「チャド湖が1960年代と比べて約90%縮小した」という説明には根拠がある。
ただし、ここには注意が必要である。
1960年代は、もともと湖の水位が高かった時期だった。また、衛星画像で見える青い開水面だけを測るのか、水生植物に覆われた冠水域まで含めるのかによって、湖の面積は大きく変わる。
「かつての湖」と「現在の湖」が、同じ方法で比較されているとは限らない。
近年は、単純に縮小し続けているわけではない
衛星データなどを分析した2020年の研究では、チャド湖は2000年代以降、一方向に縮小し続けているわけではなく、季節ごとに水面と水量を回復していることが示された。
南部の水域は比較的安定しており、北部では年による変動が大きい。開水面の周囲には、水生植物に覆われた広い湿地も存在する。
つまりチャド湖は、「消滅に向かう湖」というより、過去の大きな縮小を経て、現在は激しく変動する小規模な湖・湿地システムになったと考えた方が実態に近い。
これは、環境問題が解決したという意味ではない。
むしろ問題は、湖の大きさそのものから、湖の変動に人間社会が対応できるかという段階へ移っている。
水が引くと、土地が現れる
湖面が後退すると、そこには新しい土地が現れる。
水分と養分を含んだ湖底は、農地として利用できる。湖岸では、水が引いた後の土地に作物を植える「洪水退避農業」が営まれてきた。
漁業者が農業へ移り、牧畜民が新しく現れた草地へ家畜を連れてくることもある。
一見すると、湖の縮小によって利用できる土地が増えたように見える。
しかし、その土地は完全な陸地になったわけではない。翌年の雨量が増えれば、再び水に覆われる可能性がある。
昨日まで畑だった場所が湖になり、漁場だった場所が草地になる。
チャド湖では、水と土地の変化に合わせて、人間の仕事と生活も移動を続けなければならない。
水が戻ることも、災害になる
湖の危機というと、多くの人は水が減ることだけを想像する。
だが、長い間干上がっていた土地に水が戻れば、そこで暮らしていた人々にとっては洪水になる。
耕作地が水没し、家畜の移動経路が失われる。漁業者、農業者、牧畜民が利用する場所が重なり、土地や水をめぐる摩擦が生まれる。
気候変動は、必ずしもチャド湖を一方向に乾燥させるだけではない。気温上昇によって蒸発量が増える一方、年によっては強い降雨や洪水も発生する。
重要なのは、平均的な水量だけではない。
干ばつと洪水の振れ幅が大きくなり、季節や年ごとの予測が難しくなることである。
湖の変動が、国境を越えて広がる
チャド湖流域では、農業、漁業、牧畜、交易によって4,500万人を超える人々の暮らしが支えられている。
だが、水の流れは国境に従わない。
湖への流入の90%以上を担うシャリ川・ロゴーヌ川水系は、湖の南側から流れてくる。上流での水利用や土地利用の変化は、離れた場所にある湖岸の水位や漁業にも影響を与える。
ある国が農業用水を増やせば、別の国へ届く水が減る可能性がある。上流の土壌が劣化すれば、河川へ流れ込む土砂が増え、水路や湿地の形も変わる。
一つの国だけで湖を守ることはできない。
チャド湖の環境問題は、そのまま越境水資源の問題でもある。
環境悪化だけで紛争を説明してはいけない
チャド湖流域は、武装勢力の活動、貧困、食料不安、住民の避難など、複数の危機を抱えている。
そのため、「湖が縮小したから紛争が起きた」と説明されることもある。
しかし、環境変化が自動的に紛争を生むわけではない。
行政サービスの不足、雇用機会の少なさ、歴史的な対立、国境管理、治安の悪化など、多くの社会的・政治的要因が重なっている。
水や土地の不足は、それ単独で紛争を起こす原因というより、もともと存在していた社会の脆弱性を増幅させる。
環境問題を安全保障の言葉だけで捉えると、実際に湖岸で暮らす人々の農業、漁業、交易、移動の歴史が見えなくなってしまう。
必要なのは「湖を元の大きさに戻すこと」だけではない
チャド湖を再生するため、他の流域から大規模に水を引く構想も長年議論されてきた。
だが、巨大な水路を建設して湖面を広げれば、すべてが解決するわけではない。
水が増えれば、現在利用されている農地や集落が水没する可能性がある。水路の建設は、別の河川流域の生態系や住民にも影響を与える。
必要なのは、湖の水位を一つの状態に固定することではなく、変動する湖と共に暮らせる仕組みをつくることである。
具体的には、衛星観測と現地観測を組み合わせた水位予測、洪水時の早期警戒、節水型農業、漁獲資源の管理、家畜の移動経路の確保、湿地の保全、国境を越えた水利用ルールの整備が求められる。
2026年にはチャド湖流域委員会とアフリカ開発銀行が、生態系と地域経済の機能回復を目指す新たな事業を開始した。そこでも重視されているのは、水面だけを広げることではなく、監視能力、地域連携、気候への適応力を高めることである。
湖の危機とは、未来を読めなくなることである
チャド湖は、単純に消えているわけではない。
過去に大きく縮小し、その後も季節や降雨によって姿を変え続けている。
だからこそ、この湖の問題を「水があるか、ないか」だけで捉えることはできない。
人が暮らすために必要なのは、水の量だけではなく、いつ、どこに、どれだけ水が来るのかを予測できることである。
湖岸の位置が変われば、仕事の場所が変わる。
水が戻れば、土地の権利も変わる。
川の使い方が変われば、国境の向こう側の暮らしも変わる。
チャド湖が私たちに伝えているのは、湖の環境問題とは、水面積の減少だけではないということだ。
本当の危機は、自然の変動が、人間社会の適応できる速度を超えていくことなのである。

