1972年生まれの僕と、70年代・80年代・90年代の日本
僕は1972年に生まれた。
僕たちの世代は、やがて「新人類」と呼ばれ、「マニュアル世代」とも呼ばれた。上の世代から見れば、何を考えているのかわからない。根性がない。指示されなければ動かない。組織への忠誠心が薄い。そんな若者像のなかに、僕たちは一括りにされた。
しかし、当然ながら、同じ年に生まれた人間が同じ価値観を持っていたわけではない。
僕は僕という、たった一つの個体だった。
両親は離婚し、学校でもどこか浮いていた。大きな問題を起こすわけではない。ただ、周囲の空気に完全には溶け込めない。皆と同じように振る舞っているつもりでも、なぜか少し距離が生まれる。
それは性格だったのか。
家庭環境だったのか。
言葉になる前の、空気感やオーラのようなものだったのか。
今でも、よくわからない。
中学校の規則にも嫌気が差していた。
なぜ、この髪型でなければならないのか。
なぜ、皆と同じでなければならないのか。
なぜ、理由を説明できない大人の命令に従わなければならないのか。
高校へ進んでも、周囲とうまくなじむことはできなかった。
ただ、今になって振り返ると、その「なじめなさ」があったからこそ、僕は70年代から80年代、そして90年代へと変化していく日本の空気を、意外なほど違和感なく生きられたのではないかと思う。
正確にいえば、時代に違和感がなかったのではない。
違和感を抱えながら生きることに、僕は早くから慣れていた。
焼け野原を知らない世代に残っていた、焼け野原の精神
1972年に生まれた僕は、もちろん戦後の焼け野原を知らない。
それでも、僕が子どもだった70年代には、焼け野原から立ち上がった世代の精神が、家庭や学校や会社の至るところに残っていた。
働けば、昨日より今日がよくなる。
我慢すれば、子どもたちは豊かになる。
個人よりも、家族や会社を優先する。
苦労は人間を強くする。
弱音を吐かず、とにかく前へ進む。
戦後日本は、何もないところから家を建て、道路をつくり、工場を動かし、商品を生産し、社会を再建した。
そこには、強烈な集団的意志があった。
豊かになることは、単なる個人の欲望ではなかった。家族を守ることであり、国を立て直すことであり、次の世代によりよい暮らしを渡すことだった。
父親は会社へ行き、母親は家庭を守り、子どもは勉強して、いい学校からいい会社へ入る。郊外には住宅が建ち、家にはテレビ、冷蔵庫、洗濯機が入り、やがて車やエアコンも加わっていく。
その標準的な家族像は、戦後日本がようやく手にした幸福の形だった。
核家族化と単身世帯の増加によって、日本の平均世帯人員は1970年には3.41人まで減少している。家族の単位は小さくなりながら、「会社員の父、家庭を守る母、二人ほどの子ども」というモデルが、戦後の豊かさを象徴するようになった。
しかし、その幸福の形から外れた人間にとって、「普通の家族」は最初から少し遠い場所にあった。
両親の離婚を経験した僕は、家族というものが決して永遠でも、絶対でもないことを、子どもの頃から知っていた。
社会が「これが普通です」と差し出してくるものを、自分だけは少し離れた場所から見ている。
それは寂しさだったかもしれない。
同時に、社会を観察する視点の始まりだったのかもしれない。
70年代——「皆で豊かになる社会」と、その外側に生まれた反骨
70年代の日本には、まだ成長への期待があった。
その一方で、高度経済成長が生み出した公害、都市への人口集中、過密、受験競争、企業戦士の疲弊が、社会のひずみとして表面化していた。
オイルショックは、「成長は永遠に続くわけではない」と日本人に突きつけた。
それでも、多くの人はまだ前を向いていた。
なぜなら、その頃の大人たちには、立ち止まるという選択肢がなかったからだ。焼け野原から立ち上がった世代にとって、前進は思想ではなく、生存そのものだった。
その価値観は、学校教育にも持ち込まれた。
集団行動。
校則。
制服。
上下関係。
努力と忍耐。
皆と同じように振る舞うこと。
社会全体が一つの方向へ進んでいるとき、学校もまた、同じ方向へ進める人間をつくろうとする。
しかし、皆が同じ方向へ歩けば歩くほど、その列から外れる人間も現れる。
長髪、ベルボトム、ジーンズ、革ジャン、フォーク、ロック、漫画、アングラ演劇、暴走族。表現の形は違っても、その根底には「大人たちが決めた正しさに従いたくない」という感情があった。
70年代の反骨心は、まだ社会そのものを相手にしていた。
この社会は間違っている。
だから、自分たちで別の社会をつくる。
そこには青臭さもあったが、社会を本気で変えようとする強さがあった。
僕はその時代にはまだ子どもだった。しかし、大人の命令に対する違和感、皆と同じであることへの息苦しさ、理由のない規則への反発は、自分のなかにも確実に芽生えていた。
80年代——努力が欲望へ変換された
80年代に入ると、戦後の「生きるために働く」という倫理は、少しずつ「もっと豊かに、もっと格好よく生きる」という欲望へ変わっていった。
70年代までは、「皆で豊かになる」ことが社会の目標だった。
80年代になると、それは、
人より先に、格好よく豊かになる
という個人の欲望へ変換されていく。
家、車、家電、ブランド、海外旅行、ディスコ、レストラン、リゾート。物を持つことは単なる消費ではない。自分の人生が上昇していることの証明だった。
そして、実体以上にイメージが力を持ちはじめた。
どこの会社に勤めているか。
どこの大学を出ているか。
どこに住んでいるか。
どんな車に乗っているか。
どのブランドを着ているか。
どんな店で遊んでいるか。
それらが、その人自身の輪郭をつくった。
広告や雑誌やテレビは、商品を売るだけではなく、「こんな人生を生きるべきだ」という欲望のモデルを売っていた。
ファッションも変わった。
DCブランド、デザイナーズファッション、黒を基調とした服、ビッグシルエット、ボディコン、肩パッド、派手なブランドロゴ。
方向性は違っても、共通していたのは、服が単なる衣服ではなく、自分という人間を演出するメディアになったことだった。
私は普通ではない。
私は自分の人生を選んでいる。
私は、あなたたちとは違う。
服を着ることが、自己宣言になった。
一方で、ヤンキー、暴走族、パンク、インディーズ文化にも別の反骨があった。彼らは上品な消費社会へ溶け込むのではなく、その周縁から社会を威嚇した。
しかし、80年代の反抗は70年代の反抗とは少し違う。
70年代が、
「この社会を変えたい」
だったとすれば、80年代は、
「社会なんて変わらなくてもいい。俺は俺のやり方で、この社会を利用して生きる」
という態度に近かった。
世間に中指を立てながら、その世間が生み出す金、ブランド、メディア、成功は大胆に利用する。
反体制と商業主義。
反抗と上昇志向。
孤独と自己演出。
それらが矛盾したまま同居していた。
そのねじれこそが、80年代の格好よさだった。
「なじめない自分」に、時代の側が近づいてきた
僕にとって、80年代の空気は不自然ではなかった。
社会そのものを信じるより、自分の感覚を信じる。
皆と同じであることより、自分が納得できることを選ぶ。
決められた道を歩くより、自分の足で別の場所へ向かう。
それは僕にとって、若者文化の流行ではなかった。
もともと、そうやって生きるしかなかった。
社会にうまくなじめない自分が変わったというより、時代の側が、「皆と違ってもいい」「自分を表現していい」という方向へ近づいてきたのかもしれない。
だから僕は、80年代から90年代へ移る時代を、それほど大きな断絶として感じなかった。
周囲の価値観が変化する前から、僕のなかでは、世間が決めた正解は絶対ではなかったからだ。
僕は社会になじめなかった。
しかし、社会が変化し続けることには、なじめた。
バブル——全員が未来の価値を先に使った時代
バブルとは、単に皆がお金持ちだった時代ではない。
もちろん、土地や株の価格は上がり、企業は大きな予算を動かし、街には派手な消費があふれていた。
しかし、バブルの本質は、お金の量だけではない。
明日は今日より価値が上がるという確信を、社会全体が共有していたことにある。
土地も上がる。
株も上がる。
会社も成長する。
給料も上がる。
自分自身の価値も、これから上がっていく。
未来が現在を保証してくれるから、人は現在の実力以上に大きく振る舞うことができた。
企業は巨大な広告を打ち、若者は高価な服を着て、街は夜まで光り続けた。借金や投資さえも、「未来が返してくれる」と考えられた。
日本銀行の検証でも、80年代後半は資産価格の急騰と景気の過熱によって特徴づけられ、その後、90年代初頭に崩壊へ向かったと整理されている。
バブル期の日本人は、地に足がついていなかったといわれる。
しかし当時の感覚は、少し違ったのではないか。
自分たちが浮いているのではない。
地面そのものが上昇しているように見えていた。
だから誰も、自分が浮いているとは思わなかった。
家族という幸福と、家族という役割
70年代から80年代にかけて定着した標準家族は、戦後日本が勝ち取った幸福だった。
しかし同時に、それは人間を一定の役割へ閉じ込める仕組みでもあった。
父親には、会社への忠誠が求められる。
母親には、家事と育児が求められる。
子どもには、学歴競争を勝ち抜くことが求められる。
外から見れば安定している。
しかし、その内側では、それぞれが「父親」「母親」「優秀な子ども」という役割を演じていた。
80年代のテレビドラマや音楽、雑誌が、恋愛、都会、一人暮らし、女性の自立、不倫といった題材を繰り返し描いたのは、家族が嫌われたからではない。
家族の外側に、個人としての人生が発見されたからだ。
家族を大切にしながら、自分の人生も生きたい。
その二つは、本来、対立するものではない。しかし、標準的な家族像が強い社会では、個人の欲望はしばしば、わがままや無責任として扱われた。
両親の離婚を経験した僕にとって、家族は最初から、完成された制度ではなかった。
家族は壊れることもある。
人は必ずしも、与えられた役割を演じ続けられるわけではない。
それでも、それぞれの人生は続いていく。
僕は、普通の家族の内側に安心して収まる感覚を持てなかった。
けれど、その経験があったからこそ、家族と個人の間にある矛盾を、比較的早くから感じ取っていたのかもしれない。
90年代——壊れたのは経済ではなく、社会の物語だった
バブル崩壊後、日本から一夜にして物がなくなったわけではない。
街には商品があり、家には家電があり、若者は音楽やファッションを楽しんでいた。
失われたのは、物ではなかった。
努力すれば報われる。
会社に入れば守られる。
土地は上がり続ける。
日本はこの先も成長する。
子どもは親より豊かな人生を送れる。
そうした、社会全体で共有されていた未来の物語が壊れた。
バブル崩壊後、日本経済は長期的な低成長とデフレへ入り、後に「失われた数十年」と呼ばれる状況へ移行した。
90年代の若者は、大人たちが語ってきた成功モデルが崩れる姿を目撃した。
会社は絶対ではない。
土地の価値は下がる。
肩書だけでは人を守れない。
真面目に働いても、未来がよくなるとは限らない。
そのため、90年代の反骨心は、社会革命ではなく、自分の領域を守る方向へ向かっていった。
グランジ、古着、裏原宿、スケート、ヒップホップ、クラブカルチャー、ヴィジュアル系、ギャル。
それぞれの文化はまったく異なる。
しかし、「社会の中心が決めた正解には従わない」という一点ではつながっている。
ブランドを着る場合でも、80年代のように社会的成功を誇示するためだけではない。
異なるものを組み合わせる。
わざと外す。
過去の服を引用する。
既製品を自分なりに改造する。
社会から与えられた記号を、そのまま受け入れるのではなく、自分の文脈へ引き寄せていく。
70年代は、社会に対して拳を上げた。
80年代は、社会を追い越そうとした。
90年代は、社会から視線を外し、自分たちの場所をつくった。
僕は、この変化にも比較的自然に入っていけた。
社会の正解を最初から全面的には信じられなかった僕にとって、正解が壊れること自体は、それほど驚くべきことではなかったからだ。
僕が時代の変化を予見していたわけではない。
ただ、
「世間の言う通りに生きれば、本当に大丈夫なのか」
という違和感を、子どもの頃から持っていた。
バブル崩壊は、その違和感が間違いではなかったことを、別の形で証明した。
「Just Do It」が象徴したもの
NIKEの「Just Do It」が登場したのは1988年だった。
日本では、まさにバブル経済が頂点へ向かっていた時期と重なる。
もちろん、この言葉は日本のバブルを説明するためにつくられたものではない。アメリカで生まれた広告表現であり、日本経済との関係を単純に結びつけることはできない。
それでも、「Just Do It」が世界的に受け入れられた背景には、80年代後半の価値観が凝縮されているように思う。
それまで、人間が行動するためには、大義が必要だった。
国のため。
会社のため。
家族のため。
社会を変えるため。
しかし、「Just Do It」は理由を説明しない。
誰かの許可を待つな。
完璧な準備を待つな。
正しいかどうかを世間に聞くな。
まず、自分の身体を動かせ。
集団から個人へ。
理念から行動へ。
所属から自己決定へ。
「Just Do It」は、その価値観の転換を、わずか三語で言い切った。
そこには、人間を解放する強さがある。
同時に、80年代的な危うさもある。
考える前に走る。
限界を疑わない。
止まることを敗北とみなす。
未来を精査するより、未来を信じて飛び込む。
根拠より勢い。
慎重さより決断。
この精神は、バブル経済の空気とも奇妙に重なる。
ただし、「Just Do It」はバブルとともに消えなかった。
成長期には、挑戦の言葉として響いた。
崩壊後には、生存の言葉として響いた。
80年代の「Just Do It」は、
「世間を追い越せ」
だった。
90年代以降の「Just Do It」は、
「世間を信じられなくても、自分まで止まるな」
という言葉に変わった。
今の若者は、なぜ「Why Do It」を選ぶのか
僕は専門学校の生徒たちに、こんな質問をした。
「Just Do ItとWhy Do It。どちらが自分に向いていると思う?」
男子生徒のほとんどは、「Why Do It」を選んだ。
一方、一部の女子生徒は「Just Do It」を選んだ。
とても興味深い結果だった。
もちろん、一つの教室での回答から、今の若者全体や男女の違いを一般化することはできない。
それでも、そこには時代の変化が表れているように思う。
僕たちの若い頃は、「まずやってみろ」といわれた。
理由は後からついてくる。
失敗を恐れるな。
迷っている暇があるなら動け。
考える前に、現場へ行け。
社会そのものに勢いがあり、未来は今日よりよくなると信じられていた時代には、「Just Do It」が機能した。
しかし、今の若者は、行動する前に意味を求める。
なぜ、それをするのか。
誰のためにするのか。
その努力は何につながるのか。
そこに自分の時間を使う価値はあるのか。
失敗したとき、誰が責任を取るのか。
彼らが慎重なのは、意志が弱いからではない。
会社、成長、成功、幸福といった、かつての大人たちが信じた物語が崩れた後に生まれているからだ。
行動すれば報われるという保証がない。
一度の失敗がSNSに残り、他者から評価され、比較され続ける。先の見えない社会で、自分の時間や感情を搾取されたくないという防衛意識もある。
だから、動く前に「Why」を確かめる。
それは臆病さではない。
自分の人生を、納得できないものへ差し出さないための知性でもある。
一方で、一部の女子生徒が「Just Do It」を選んだことも面白い。
仮説として考えるなら、女性には今も、行動する前に周囲の目や役割を意識させられる場面が多いのかもしれない。
目立ちすぎてはいけない。
失敗してはいけない。
周囲へ配慮しなければならない。
誰かの許可を得なければならない。
だからこそ、
理由を説明しなくていい。
誰かの許可を待たなくていい。
やりたいなら、やればいい。
という「Just Do It」が、解放の言葉として響く。
男子にとっての「Why Do It」は、自分を守るための問い。
女子にとっての「Just Do It」は、自分を解放するための言葉。
たった一つの教室のなかに、現代の若者が抱える二つの感情が表れたのかもしれない。
僕は「Why」を抱えながら、「Just Do It」で生きてきた
振り返ると、僕はただ無鉄砲に生きてきたわけではない。
なぜ、これをするのか。
なぜ、この会社にいるのか。
なぜ、この企画をつくるのか。
なぜ、自分はこの人生を選ぶのか。
心のなかには、いつも「Why」があった。
学校の規則に反発したのも、単に従うことが嫌だったからではない。
「なぜ、そうしなければならないのか」がわからなかったからだ。
会社のなかで働いていたときも同じだった。
会社に所属すること自体が嫌だったわけではない。組織だからこそできる大きな仕事があり、仲間がいて、現場があり、多くの経験を得ることができた。
ただ、どれだけ長く働いても、自分の人生そのものまで会社へ預けることはできなかった。
なぜ、この仕事をするのか。
誰に、どんな価値を届けるのか。
自分は何をつくりたいのか。
その「Why」を失ったまま、会社の論理だけで動く人間にはなりたくなかった。
だから最後の決断では、「Just Do It」を選んだ。
考え抜いても、人生の正解はわからない。
安全になるまで待っていたら、何も始まらない。
誰かの許可を待っていたら、自分の人生ではなくなる。
理由を探す。
自分なりに納得する。
そして、最後はやる。
僕にとって、「Why Do It」と「Just Do It」は対立する言葉ではない。
Whyは、自分の人生を他人に支配されないための問い。
Just Do Itは、その人生を自分の手に取り戻すための行動だ。
50歳を過ぎても、中指を下ろせなかった
そして今、僕は独立している。
会社員として生き続ける道もあった。長く働いてきた会社に残り、一定の立場と安定した収入を得ることもできた。
家族もいる。
守るものもある。
若い頃のように、失敗しても自分一人で済むわけではない。
それでも僕は、
「会社の看板の内側だけで、自分の人生を終わらせたくない」
と思った。
50歳を過ぎたおじさんが、家族を持ちながら、あえてリスクを背負って独立する。
冷静に考えれば、必ずしも合理的な選択ではない。
しかし、これは突然始まった反抗ではなかった。
中学校の規則に嫌気が差していた少年も、学校になじめなかった高校生も、自転車で日本や海外を走った青年も、約30年間、映像制作の現場を走り続けた会社員も、独立して自分の会社を立ち上げ、NEOTERRAINやJournalをつくっている今の僕も、根の部分ではつながっている。
僕はずっと、
「自分の人生くらい、自分で決めさせてくれ」
と言い続けてきたのだと思う。
中指を立てるというのは、誰かを攻撃することではない。
社会をすべて否定することでもない。
責任から逃げることでもない。
家族を顧みず、好き勝手に生きることでもない。
僕にとって中指を立てるとは、自分の人生の最終的な決定権を、世間へ渡さないことだ。
家族がいるから、リスクを取らないのではない。
家族がいるからこそ、自分が納得できない人生を惰性で続ける姿を見せたくなかった。
安定だけを理由に、自分の感覚を殺していくことも、別の意味で大きなリスクだと思った。
独立は、会社への復讐ではない。
自分自身に対する責任だった。
なじめなかったことは、欠点だったのか
僕は今も、世間に完全にはなじめない。
皆が正しいというものを、そのまま正しいとは思えない。
皆が向かっている方向に、無条件でついていくことができない。
肩書や規模や有名さだけで、人や仕事の価値を判断することもできない。
かつては、それを自分の欠点だと思っていた。
もっと社交的で、もっと器用で、もっと周囲に合わせられたら、人生は楽だったのかもしれない。
しかし今は、少し違う捉え方をしている。
なじめなかったから、観察できた。
疑ってきたから、考えることができた。
外側にいたから、異なるものをつなげられた。
違和感があったから、表面的な言葉の奥を見ようとした。
映像制作も、ドキュメンタリーも、マーケティングも、コンテンツづくりも、本質的には観察と編集の仕事だ。
人が何を言っているかだけではなく、その人がなぜそう言うのかを見る。
企業が何を売りたいかだけではなく、その商品がなぜ生まれ、誰のどんな悩みとつながっているかを見る。
土地の表面だけではなく、その場所に積み重なった歴史、産業、文化、自然環境を見る。
中心に完全になじめない人間だったからこそ、中心と周縁の両方を見ることができたのかもしれない。
そう考えると、僕の「なじめなさ」は、人生の障害であると同時に、今の仕事をつくった原点でもある。
前へ進めた時代から、前へ進む理由を探す時代へ
70年代、80年代、90年代の30年間を一本の線で捉えるなら、それは単なる「成長、バブル、崩壊」の歴史ではない。
焼け野原から立ち上がった共同体の物語が、豊かさのなかで個人の欲望へ変わり、最後には「自分は何者なのか」という問いへ分解されていった30年間だった。
70年代は、皆で豊かになることを信じられた。
80年代は、社会を追い越すことに熱狂した。
90年代は、社会が自分を幸福にしてくれるとは限らないと知った。
国家の再建から、個人の確立へ。
共同体の夢から、自己決定へ。
根拠のある成長から、根拠がなくても生きる覚悟へ。
その変化のなかで、僕はずっと、世間に対して小さな中指を立てていたのだと思う。
ただし、その中指は、世間を壊すためのものではない。
自分を失わないためのものだった。
1972年に生まれた僕は、焼け野原から立ち上がった世代の精神を受け取りながら、その世代がつくった「普通」にはなじめなかった。
80年代の欲望と勢いを浴びながら、社会的成功だけを人生の目的にはできなかった。
90年代に社会の正解が崩れても、完全には絶望しなかった。
もともと、正解の外側で生きることに慣れていたからだ。
そして今、50歳を過ぎても、まだ自分の人生のハンドルを握ろうとしている。
「なぜ、やるのか」と問い続けながら、最後には「やるしかない」と一歩を踏み出す。
僕は、Why Do Itを抱えながら、Just Do Itで生きてきた。
社会になじめなかった少年が、時代の変化をくぐり抜け、50歳を過ぎてようやく、自分のなじめる場所を自分でつくり始めた。
会社も、メディアも、Journalも、まだ完成してはいない。
この先、何が成功し、何が失敗するのかもわからない。
それでも、自分の人生を誰かが用意したマニュアルへ戻すつもりはない。
世界が正解をくれなくても、自分で問い、自分で選び、自分で動く。
それは若さゆえの反抗ではない。
自分の人生のハンドルを、最後まで自分で握ろうとする意志である。

