旅館を出る朝、玄関の軒先まで雨が吹き込んでいた。
傘を開こうとする客に、宿の人が声をかける。
「駅まででしたら、表通りのほうが歩きやすいですよ。川沿いは、雨の日は足元が滑りやすいので」
昨夜の食事も、窓から眺めた川もよかった。それでも帰りの電車で宿のことを思い返すと、雨のなかで道を教えてくれた人の声が浮かぶ。
一晩の滞在を振り返るとき、すべての場面を同じ濃さで思い出すわけではない。いくつかの場面が、体験全体を語る手がかりになる。
店を出たあとも、接客は残っている。
その残り方を考えるヒントが、心理学の「ピーク・エンドの法則」にある。
1.60秒と90秒。もう一度選ばれたのは、どちらか
1993年、ダニエル・カーネマンらは、冷たい水に手を浸す二つの体験を比較した。
一つは、約14℃の水に60秒間、手を浸す。もう一つは、同じ60秒に30秒を加え、その間に水温を約15℃まで少しずつ上げる。長いほうも最後まで不快だが、多くの参加者にとって、その終盤の不快感はいくらか和らいだ。
二つを体験したあと、どちらをもう一度選ぶかと聞かれた参加者のうち、32人中22人が90秒のほうを選んだ。 最初の60秒に加え、さらに30秒も冷たい水に手を浸すほうである。ius.uzh.ch
この実験で目を引くのは、体験中に感じた不快さの積み重ねと、あとから「どちらならもう一度できるか」と考えたときの判断が、食い違ったことだ。
2.体験を振り返るとき、どの場面に重みがつくのか
ピーク・エンドの法則とは、体験を振り返って全体を評価するとき、感情が最も強く動いた場面と、終わりの場面が、評価に大きく関わることがあるという考え方だ。
ピークは、いちばん楽しかった瞬間とは限らない。旅館なら、夕食で初めて食べた料理が強く残ることもあれば、予約した部屋が用意されていなかったときの戸惑いが強く残ることもある。
冷水の実験で比べた二つの体験は、最初の60秒がほぼ同じだった。そこに、終盤で不快感が和らぐ時間を加えると、もう一度選びたい体験が変わった。後のメタ分析でも、ピークと終わりは振り返りの評価に関係し、体験中の評価を平均した値も、それに匹敵する説明力を持っていた。ius.uzh.ch
顧客体験に引き寄せるなら、日々のサービスを整えることと、印象に残りやすい接点を見直すことは、両方に意味がある。客室の静けさや食事の質が滞在を支え、そのなかのいくつかの場面が、あとで宿を思い出す入口になる。
3.「最後」は、誰にとっての最後か
企業の業務には、完了の時点がある。ホテルなら精算、ECなら発送、問い合わせ窓口ならチケットのクローズだ。
顧客の側で体験が一区切りつくのは、別の瞬間かもしれない。
ホテルの精算が済んでも、雨のなか駅までどう行くかが気にかかる。商品が届いても、初めて使うまでは、自分に合う買い物だったか判断しにくい。問い合わせに返信が来ても、問題が解決したかを確認するまでは気持ちが落ち着かない。
| 場面 | 顧客が一区切りついたと感じるとき | その場でできること |
|---|---|---|
| 宿泊 | 荷物を持って、次の目的地へ向かえるとき | 天候や移動手段に合った道を案内する |
| EC | 届いた商品を、初めて使えたとき | 開封してすぐ目に入る場所に、最初の使い方を示す |
| 問い合わせ | 解決したことと、残っていることがわかったとき | 対応結果と、再発時の連絡先を短く伝える |
| イベント | 会場を出て、帰路につけたとき | 最寄り駅への案内を出口で確認できるようにする |
終わり方を考えるとき、最初に見たいのは、顧客が帰り際に、まだ何を気にしているかだ。冒頭の宿なら、覚えて帰ってもらうための名文句より、雨の日に歩きやすい道を知っていることが、あのひと言を支えている。
4.「また来たい」を、接客の言葉と動きにする
小さな旅館が、初めて泊まる客にも、気持ちよく次の目的地へ向かってほしいと考えているとする。
「心を込めてお見送りしましょう」という方針だけでは、現場で何をするかは決まりにくい。雨の日の朝、会計が済んだ客が玄関で地図を開いている。そこまで場面を絞ると、用意するものが具体的になる。
スタッフが、晴れの日と雨の日の駅までの道を実際に歩いておく。案内カードには、距離だけでなく、坂や滑りやすい箇所も記す。客が急いでいれば、必要なことを先に一言で伝える。地図が役に立ちそうなら、そのときに手渡す。
ここでは、接客の言葉、地図のデザイン、渡すタイミングが、同じ顧客の状況に応えている。
購入後のメールにも、同じ発想を使える。たとえば、初めてコーヒー器具を買った人に送るなら、「ご購入ありがとうございます」に続けて、最初の一杯に必要な豆と湯の目安を載せる。メールを開いた人が、そのまま台所で試せるところまで考えると、件名も本文も変わってくる。
5.その場の満足と、翌日に残る記憶を聞く
帰り際の接点を変えたら、その直後と、少し時間を置いたあとで、顧客に聞くことを変えてみたい。
チェックアウト直後なら、「このあと移動するうえで、まだ気になることはありますか」。翌日以降なら、「滞在を思い出すと、まずどの場面が浮かびますか」。
前者からは、最後の接点が役に立ったかがわかる。後者からは、企業が見せ場だと考えていたものと、顧客が実際に覚えているものの違いが見えてくる。
口コミでも、点数と一緒に、具体的にどの場面が書かれているかを読む。高評価の理由が夕食に集まり、低評価の理由が帰りの送迎に集まるなら、次に手を入れる場所が見えてくる。反対に、帰りの案内が好評でも、部屋の使いにくさが繰り返し挙がるなら、そちらに先に手を入れる理由がある。
体験のどこに手をかけるか。その判断には、企業が用意した見せ場と、顧客が持ち帰った場面の両方が要る。
EDITOR’S NOTE — NEOTERRAIN
旅のあと、宿の名前より先に、玄関で交わした言葉を思い出すことがある。
雨の日にどの道が歩きやすいか。その人は、たぶん日々その道を歩いている。客にとっては初めての道でも、宿の人にとっては、雨が降れば足元の変化までわかる道だ。
あのひと言には、その土地で働く人が普段から知っていることが入っている。宿を出て駅に向かうあいだ、客はその知識に助けられている。
帰り際に残る印象には、そういう具体的な理由がある。
NEOTERRAIN JOURNALでは、マーケティングやクリエイティブ、社会の変化を、表面的な手法ではなく、その背景にある構造から読み解いています。
新しい記事や思考のヒントを受け取りたい方は、メールマガジンにご登録ください。

