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帰りの舟は、塩を積んだ。銚子の醤油と千葉の発酵文化

塩俵を積んだ木舟と、霞む利根川の河岸を描いた水彩画。中央に「行きは醤油。帰りは塩。」の文字。
江戸へ醤油を届けた舟は、帰りに行徳の塩を積んだ。その塩が、銚子で次の仕込みに使われた

日本の発酵文化|47都道府県・千葉編

江戸へ向かう舟には、醤油の樽。銚子へ戻る舟には、行徳の塩。

利根川の河口にある銚子から、かつて醤油は舟で江戸へ運ばれた。樽を売った帰りには、いまの市川市にあたる行徳で塩を、利根川流域で大豆や小麦を調達したという。行きの積み荷は江戸の食卓へ向かい、帰りの積み荷は次の仕込みに入る。

銚子の醤油がどう育ったのかを考えるとき、この帰りの舟に目を向けたくなる。蔵がいくら醤油をつくれても、大豆や小麦、塩が届き続けなければ、次の樽は仕込めないからだ。

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河口の町から、川をさかのぼる

銚子の大新河岸では、江戸時代、米や干鰯(ほしか)、醤油などが高瀬舟に積み込まれた。干鰯はイワシを干した肥料だ。醤油の樽は、すでにほかの荷が行き交っていた船着場から江戸へ出ていった。

地図の上で舟の道筋を追うと、河口の銚子から利根川をさかのぼり、関宿(せきやど)で江戸川に入って、今度は川を下る。江戸時代初期からの利根川東遷や江戸川の開削が、この水路を形づくった。川の流れを変える土木工事が、重い樽をまとめて運べる道にもなった。

醸造の技も、銚子の外から入ってきた。ヒゲタ醤油の始まりとされるのは、1616年、銚子の田中玄蕃が摂津・西宮の酒造家の勧めで醤油づくりを始めたこと。1645年には、紀州・広村出身の濱口儀兵衛が銚子で醸造を始め、ヤマサ醤油の礎を築いた。西から伝わった技が河口の町に根づき、川を通って江戸に届く。銚子の醤油は、その両方の動きから育った。

塩は、味をつける前に働く

帰りの舟が積んだ塩は、蔵に着くと、次の仕込みに使われた。はじめに水に溶かし、醤油麹と合わせる。蒸した大豆と炒って砕いた小麦に麹菌を育て、そこに塩水を加えたものが、諸味(もろみ)だ。

麹菌がつくった酵素が、大豆のたんぱく質や小麦のでんぷんを分解する。その過程で生じた糖などを乳酸菌や酵母が利用し、酸味や香りが育つ。農林水産省が紹介する本醸造の工程では、諸味をかき混ぜながら半年から八か月ほど発酵・熟成させる。それから搾り、火入れをする。

夏の暑さや冬の冷え込みが比較的穏やかで、湿度の高い銚子の気候は、醸造に適していたと地元の醸造元は伝えている。その一方で、生産を増やすには水の確保も必要だった。ヒゲタの前身は1868年、山林に横穴を掘って地下水を集め、土管で醸造場に引いた。「竜の井」と呼ばれた水源だ。川から塩が届き、丘から水を引く。諸味を仕込むまでにも、町の外と内にそれぞれの仕事があった。

江戸のそばつゆに、銚子の醤油

江戸ではもともと、上方から運ばれる「下り醤油」が広く流通していた。江戸時代後期になると、銚子や野田でつくられた関東の濃口醤油が、産地の近い「地廻り醤油」として広がっていく。舟でまとまった量を運べたことに加え、料理に使われるなかで、味の居場所ができていった。

そばつゆには、かつお節のだしに醤油を合わせる。蒲焼きのたれでは、醤油にみりんなどを合わせ、焼きながら塗り重ねる。ひと樽の醤油は、江戸の料理人の手で、それぞれの料理に合う味になった。ヒゲタは現在も、醤油に加え、そばつゆのもとになる「かえし」や、だしと合わせたつゆをつくっている。江戸へ醤油を届けていた産地が、今もそばの一杯に関わっている。

EDITOR’S NOTE — NEOTERRAIN

「銚子から江戸へ」と聞くと、つくったものを大きな町へ送り出す話に見える。けれど、帰りの舟に塩が載っていたと知ると、地図の読み方が変わる。江戸で売った醤油のあとには、銚子へ戻って仕込む仕事が待っていた。

もうひとつ、醤油には、舟の速さとは別の時間がある。塩が蔵に着いた日には、まだ醤油はできていない。諸味を仕込み、かき混ぜ、季節をまたいで搾る日を待つ。そば屋でつゆに麺をひたす、その短いひと口のために、誰かがずっと前から手を動かしている。

参考資料

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