家々の願いが、街を立ち上がらせる飾りになるまで
知的観光シリーズ|宮城県・仙台市
仙台七夕まつりでは、見上げた先だけでなく、歩く道そのものが変わる。
色とりどりの吹き流しが頭上から降り、風を受けて揺れる。店の前から次の店の前へ。飾りは通りを途切れることなくつなぎ、いつもの商店街を、三日間だけ別の景色にする。
七夕は、もともと家々で願いを託す行事だった。それがなぜ、仙台では街を覆うほどの祭りになったのだろうか。
家の軒先にあった七夕
仙台では江戸時代、七夕は「たなばたさん」と呼ばれ、親しまれていた。藩祖・伊達政宗も七夕を題材に和歌を詠んでいる。ただし、政宗の時代に現在のような大規模な祭りが始まったという意味ではない。仙台七夕まつり
人びとは笹竹に短冊や飾りを付け、手習いや手芸の上達を願った。飾った笹を翌朝、川へ流す習俗もあった。七夕は星を見上げる行事であると同時に、夏の暮らしや、盆を迎える前の営みとも結びついていた。仙台七夕まつり
その舞台は、まず家の軒先だった。現在の仙台七夕を特徴づける商店街の飾りは、その後の街の歴史のなかで育っていく。
七つの飾りは、暮らしの願いを映す
仙台七夕の飾りを近くで見ると、華やかな吹き流しのほかに、小さな紙の造形が見つかる。「七つ飾り」だ。
短冊には学問や書の上達、紙衣には裁縫の上達や厄除け、折鶴には健康長寿への願い。巾着は商売繁盛、投網は豊漁・豊作、屑篭は清潔と倹約を表す。そして吹き流しは、織姫の織糸をかたどり、機織りなどの技の上達を願う。仙台七夕まつり
願いの対象は、仕事、家族、食べ物、学び、健康と幅広い。遠い星に託す祈りが、手を動かして作る身近な形になっている。
商人たちが、七夕を通りへ広げた
明治以降、暦や暮らしの変化とともに、七夕の習俗は次第に衰えた。それでも仙台では、家や学校などで飾りを作る文化が続いた。一方、商店の多い通りでは、人を呼び込むための大きな飾りも作られるようになる。まちりょく – せんだいと地域の文化をこつこつ伝える・考える
転機の一つが1927年だ。不景気を吹き飛ばそうと、大町の商家の人びとが華やかな七夕飾りを復活させた。翌1928年には、東北産業博覧会に合わせて飾り付けのコンクールが開かれ、複数の町会が参加した。家ごとの行事は、商店街が趣向を競い、人びとを迎える祭りへと広がっていった。仙台七夕まつり
商売を盛り上げるための工夫は、祭りの歴史の一部である。ただ、飾りがつくり出したのは買い物の機会だけではなかった。人が通りへ出て、隣の店や町の飾りを見比べる。七夕は、街を歩く理由にもなった。
焼け跡に立った、五十二本の竹
戦争が激しくなると、七夕飾りは商店街からほとんど姿を消した。1945年には仙台空襲で市中心部も大きな被害を受ける。仙台七夕まつり
終戦の翌年、1946年。一番町通りの焼け跡に、52本の竹飾りが立てられた。建物や商いを取り戻す途上にあった街で、人びとは先に七夕の景色を取り戻したのである。仙台七夕まつり
この52本を、復興が終わった証しと見ることはできない。むしろ、復興のさなかに飾りを作り、通りに掲げたことに意味がある。祭りを再開する行為そのものが、街を再び使い始める行為でもあったのだろう。
毎年、新しく作るから続いていく
現在の仙台七夕では、商店などの人びとが数カ月前から飾りを手作りする。祭りの朝、通りに飾り付けられるまで、その意匠は伏せられているという。仙台七夕まつり
毎年新しく作ることは、古い形をただ保存することとは違う。その年の人が集まり、手を動かし、今年の街をどう彩るか考える。飾りが風に揺れる三日間の背後には、長い準備の時間がある。
仙台七夕まつりを歩くときは、大きな吹き流しを見上げたあと、店先の小さな七つ飾りにも目を向けたい。そこには個々の願いがある。そして通り全体を眺めれば、その願いを街の景色に変えてきた歴史が見えてくる。
七夕の飾りは、一年限りの紙でできている。けれど、それを作り、掲げ、また翌年に作り直す営みが、仙台の街に長く残っている。
EDITOR’S NOTE — NEOTERRAIN
本記事は現地取材ではなく、仙台七夕まつり協賛会および仙台市の文化資料をもとに構成しました。伊達政宗と七夕の関わりは、和歌などで確認できる当時の習俗として記述し、現在の祭りの直接的な創始とはしていません。
参考資料

