かつて、先輩からこんな言葉を聞いた。
「各国の空港には、それぞれの匂いがある」
モロッコへ向かう途中に立ち寄ったモスクワの空港は、冷たく、薄暗かった。カサブランカの空港では、家族総出で誰かを見送る人々がいた。涙を流しながら抱き合う父と子の姿を、今でも覚えている。
そこにあったのは、建物や設備だけではない。人の表情、声の響き、別れの重さ、家族の距離感。その土地に積み重なった歴史や生活が、言葉になる前の「匂い」となって漂っていた。
土地にも、それぞれの匂いがある。
観光情報を調べれば、静岡県には富士山があり、温泉があり、茶畑があり、海産物があることはすぐに分かる。しかし、その土地で人々が何を受け取り、何をつくり、どのように生きてきたのかは、観光案内だけでは見えてこない。
海と山のあいだに広がる静岡県。
その地形によって生まれる文化、産業、歴史は、地域ごとに大きく異なる。では、そこにはどのような人がいて、人はどのようにこの土地をつくってきたのだろう。
静岡ならではの「匂い」を探してみたい。
静岡県は、ひとつの土地ではない
静岡県は、太平洋に沿って東西約155キロメートルに延びている。南側には遠州灘、駿河湾、相模灘に面した約500キロメートルの海岸線があり、北側には富士山や南アルプスをはじめとする山岳地帯が連なる。
山から流れ出した富士川、大井川、天竜川は県土を南北に横切り、太平洋へ注いでいる。静岡県公式の県プロフィールが示すとおり、海、山、湖、河川が狭い県土のなかに集まった、日本列島の縮図のような場所である。
だが、静岡県を「富士山のある県」というひとつのイメージで捉えると、その本当の姿を見失う。
東には伊豆半島があり、その西には富士山麓と沼津・三島の都市圏がある。中央には駿府を起点とする静岡平野と清水港、焼津港があり、大井川を越えると牧之原台地が広がる。さらに西へ進めば、浜名湖、遠州灘、天竜川、そして浜松を中心とした製造業の集積が現れる。
同じ県内でありながら、地形も、産業も、生活圏も異なる。
それも当然なのかもしれない。現在の静岡県は、もともと伊豆国、駿河国、遠江国という異なる地域から成り立っている。廃藩置県後も静岡県、浜松県、足柄県などに分かれ、現在の県域が確定したのは1876年だった。静岡県の成り立ちを振り返ると、静岡県が最初からひとつのまとまりだったわけではないことが分かる。
静岡県とは、ひとつの文化圏ではない。
異なる地形と歴史を持つ土地が、東海道によって横につながった県なのである。
東西につなぐ街道と、南北に流れる川
静岡県の構造を読み解く鍵は、東西と南北、二つの方向にある。
東西に延びるのは東海道だ。
古くから東国と畿内を結び、人、物資、情報、権力を運んできた。現在も東海道本線、東海道新幹線、国道1号、東名高速道路、新東名高速道路が、ほぼ同じ方向に延びている。
一方、南北に流れるのが富士川、大井川、天竜川である。
川は山の水や土砂を平野と海へ運び、農業や産業を支えた。しかし同時に、人々の移動を阻む境界でもあった。
大井川は、かつて駿河国と遠江国の境だった。江戸時代には幕府の政策によって架橋や通船が禁じられ、旅人は川越人足を雇って川を渡らなければならなかった。増水すれば、旅人は何日も足止めされたという。
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
その言葉が示すように、大井川は東海道最大の難所のひとつだった。川を越えるための制度は仕事を生み、島田宿と金谷宿を発展させ、独自の川越文化を形成した。島田市の川越制度の記録には、地形上の障害を、人々が制度と仕事へ変えてきた歴史が残されている。
地形は、ただ人を不便にするだけではない。
人はその不便に適応し、技術を生み、商いをつくり、地域固有の文化へ変えていく。
静岡県の地政学とは、街道によって結ばれながら、川や山によって分けられてきた土地の歴史でもある。
伊豆──海からやってきた半島
伊豆半島は、もともと現在の日本列島とは別の場所にあった。
南方の海底火山群がフィリピン海プレートとともに北上し、本州へ衝突したことで伊豆半島と駿河湾が形成された。駿河湾は最深部約2,500メートルに達する、日本で最も深い湾である。静岡県の駿河湾ガイドによれば、湾の深さも伊豆半島の衝突とプレート境界によって生まれたものだ。
伊豆の海岸に見られる複雑な崖や入り江、温泉、急峻な山々は、この火山活動の記憶である。
平地が少なく、半島の内側は山に遮られる。そのため、伊豆の町や集落は、同じ半島内でも峠や海によって分けられてきた。陸路が十分に整う以前、海は人を隔てるものではなく、外部とつながる道でもあった。
漁業、海運、温泉、観光。
伊豆の産業は、複雑な地形の制約と、その地形が生み出した資源の両方から育ってきた。
伊豆の匂いとは、温泉や潮の香りだけではないのだろう。
半島の先端に立ち、海の向こうから来る人を迎え、また海の向こうへ人を送り出してきた土地。その開放性と孤立性が同居する感覚に、伊豆らしさがある。
富士山麓──水が紙と工業を育てた
富士山は、眺めるためだけの山ではない。
山に降った雨や雪は、溶岩層のなかへ浸透し、長い時間をかけて湧水や地下水となって現れる。その豊かな水は、人々の暮らしを支えるだけでなく、産業の基盤にもなった。
富士市周辺では、豊富な地下水を利用して製紙・パルプ産業が発展し、岳南工業地域が形成された。静岡県の工業用水道事業にも、富士地域が良質な地下水を背景に製紙業の一大拠点となった経緯が記されている。
ここでは、自然の水が工業用水へ変わり、紙という製品になって全国へ運ばれていった。
一方で、産業の発展によって地下水の過剰な汲み上げが進み、地下水位の低下や塩水の混入といった問題も起きた。田子の浦では、製紙工場などからの排水による公害も深刻化した。
自然の恵みを使えば、土地には負荷が残る。
その負荷に向き合い、工業用水道や環境対策を整備することもまた、人が土地をつくる行為である。
富士地域には、清らかな水の匂いとともに、パルプ、蒸気、工場の匂いがある。富士山の水を産業へ変え、その代償とも向き合ってきた土地の記憶がある。
駿河──街道、港、城下町が交わる場所
県中部の静岡市周辺は、山と海の距離が近い。
北には南アルプスへ続く山地があり、南には駿河湾が広がる。その間に静岡平野があり、東海道と港が交わってきた。
駿府は、今川氏の城下町として発展し、徳川家康が晩年を過ごした場所でもある。政治の拠点であると同時に、東海道を行き交う人や物資が集まる商業の町でもあった。
その海側に位置する清水港は、三保半島を天然の防波堤とする良港である。明治期に近代港湾として整備され、開港場、国際貿易港を経て、現在は国際拠点港湾に位置づけられている。静岡県による清水港の概要からも、清水港が地域と世界をつなぐ玄関口として発展してきたことが分かる。
さらに西へ進めば、焼津の漁業と水産加工がある。
駿河湾は、陸地から急激に深くなる。近海の恵みだけでなく、焼津の人々は遠洋へ船を出し、海の向こうに漁場を求めてきた。
港に残る魚や潮の匂いは、そこで働く人だけのものではない。
長い航海へ出る人、帰りを待つ家族、魚を加工する人、運ぶ人、売る人。海を中心に組み立てられた町の時間が、その匂いをつくっている。
静岡県の海は、観光の風景である前に、人々の生活と世界をつなぐ仕事場だった。
牧之原──敗者が刀を鍬に持ち替えた土地
大井川を越えると、風景は次第に広い台地へ変わっていく。
牧之原台地に広がる茶畑は、静岡県を象徴する景観のひとつである。しかし、この景観も自然が最初から用意したものではない。
明治維新後、徳川慶喜に従って駿府へ移った旧幕臣たちは、新しい時代のなかで生きる場所を探さなければならなかった。彼らが刀を鍬に持ち替え、開拓に入った土地のひとつが牧之原だった。
日照に恵まれた台地、山間部から発生する霧、排水性のある地形。その条件を生かし、人々は荒れた土地を茶園へ変えていった。静岡県の資料にも、牧之原の茶畑が旧幕臣たちによって開拓された歴史が紹介されている。静岡茶の歴史と牧之原開拓
牧之原の茶畑は、単なる美しい農村風景ではない。
政権を失い、役割を失った人々が、新しい時代に生きるためにつくった風景でもある。
土地が人に仕事を与えたのではない。行き場を失った人々が土地を読み、そこに新しい仕事をつくった。その積み重ねが、静岡を日本有数の茶産地へ育てていった。
茶葉の匂いの奥には、時代の転換を生きた人々の葛藤と再出発がある。
遠州──「ないもの」を、つくる力に変えた
大井川を越え、さらに西へ進むと、遠州の土地が現れる。
浜松を中心とする県西部は、静岡県内でも製造業の存在感が強い地域である。繊維、楽器、オートバイ、自動車、光・電子技術へと産業を発展させ、世界企業を生み出してきた。
浜松のものづくりは、最初から機械産業として始まったわけではない。
農家の副業として行われていた綿織物が繊維産業へ発展し、織機をつくる技術が機械産業へつながった。木材加工や精密な調整技術は楽器製造に生かされ、戦後にはオートバイや自動車産業が成長した。
ホンダ、ヤマハ、スズキという世界的なオートバイメーカーが、いずれも浜松周辺から誕生したことは偶然ではない。浜松市がまとめた産業史は、繊維、楽器、バイクという産業が、地域に蓄積された技術と人材の上で展開してきたことを示している。
一つの産業で生まれた技術が、別の産業へ受け継がれていく。
そこには、大都市から与えられた仕事をこなすだけでなく、自ら考え、試作し、製品を外へ売り出してきた人々がいた。
浜松では、その気質を「やらまいか精神」と表現する。「やってみようではないか」という、挑戦を肯定する言葉である。
もちろん、地域に住むすべての人を一つの気質で説明することはできない。それでも、小さな工場から世界市場を目指した企業が繰り返し生まれた背景には、失敗を恐れず手を動かす文化と、企業同士を支える技術の集積があったのだろう。
遠州の匂いは、潮や農地の匂いだけではない。
織物、木材、金属、機械油。そして試作品を前に、もう一度やってみようとする人間の熱が混ざった匂いである。
自然の豊かさは、災害の近さでもある
静岡県の産業と文化は、海、山、川から多くの恩恵を受けてきた。
だが、自然に近いということは、災害にも近いということである。
伊豆半島や富士山は火山活動によって生まれ、駿河湾にはプレート境界である駿河トラフが延びている。海岸部では津波や高潮、山間部では土砂災害、河川流域では洪水の危険がある。
静岡県は、駿河トラフ・南海トラフ沿いの巨大地震と、相模トラフ沿いの地震の双方を想定した防災対策を進めている。静岡県第4次地震被害想定には、この県が複数の大規模災害リスクと隣り合わせである現実が表れている。
防潮堤、避難タワー、河川改修、砂防施設、避難訓練。
これらもまた、静岡の景観をつくっている。
自然を美しいものとして眺めるだけでなく、その力を知り、備えながら暮らす。静岡県の人々にとって防災は、非常時だけの行動ではなく、土地とともに生きるための日常的な文化でもある。
静岡県をつくったのは、土地と人の往復だった
伊豆では、火山がつくった半島と海が、温泉、漁業、観光を生んだ。
富士山麓では、水が製紙産業を育てた。
駿河では、城下町、東海道、港が人と物資を集めた。
牧之原では、旧幕臣たちが台地を茶畑へ変えた。
遠州では、繊維から楽器、オートバイ、自動車へと技術が受け継がれた。
地形が産業を決めた、と言うだけでは十分ではない。
同じ地形があっても、そこに暮らす人が動かなければ産業は生まれない。人々は土地の条件を受け入れるだけでなく、観察し、工夫し、ときには失敗しながら、新しい仕事や文化へ変えてきた。
土地が人を育て、人がまた土地をつくる。
静岡県の風景は、その長い往復によって生まれている。
静岡ならではの「匂い」とは何か
静岡県には、ひとつの匂いがあるわけではない。
伊豆の温泉と潮の匂い。
富士山麓の水とパルプの匂い。
焼津の港に残る魚の匂い。
牧之原の土と茶葉の匂い。
浜松の木材と機械油の匂い。
それぞれの匂いの奥には、そこで働き、暮らしてきた人々の時間がある。
静岡県を知るとは、富士山や茶畑を知ることだけではない。
なぜ、この土地でこの仕事が生まれたのか。
なぜ、人々はここに残り、あるいは海や街道の向こうへ出ていったのか。
土地の条件を、人はどのように自分たちの未来へ変えてきたのか。
観光情報には、すでに名前のついた景色が並んでいる。
しかし、その景色の奥には、まだ十分に言葉にされていない人々の記憶がある。
静岡県は、富士山を中心にひとつにまとまった土地ではない。海と山、川と街道によって分けられ、同時につながれてきた複数の土地である。
その異なる土地の匂いをたどっていくと、静岡県という場所の本当の輪郭が、少しずつ見えてくる。

