茨城県には、日本を代表する二つの人工的な都市空間がある。
一つは、国の研究機関と大学が集まる筑波研究学園都市。
もう一つは、巨大な掘込港と重化学コンビナートを中心に形成された鹿島臨海工業地帯である。
つくばは「科学の街」、鹿島は「工業の街」として語られることが多い。
一見すると、両者はまったく異なる場所に見える。
しかし、筑波研究学園都市の建設地が決定されたのは1963年。鹿島港が国の重要港湾に指定され、本格的な建設が始まったのも1963年だった。
二つの巨大プロジェクトが、ほぼ同じ時期に茨城県で動き始めたことは偶然ではない。
東京への人口と機能の集中。
高度経済成長を支える工業用地の不足。
科学技術による国際競争力の強化。
首都圏の外側への都市機能の再配置。
つくばと鹿島は、戦後日本が抱えていた課題に対する、二つの国家的な回答だった。
つくばには「知識」が移され、鹿島には「生産」が移された。
その背景には、東京に近く、広い土地が残されていた茨城県の地政学がある。
東京が膨張した時代、茨城は「受け皿」になった
1950年代後半から1960年代にかけて、日本は急速な経済成長を遂げた。
企業、大学、研究機関、行政機能、労働者が東京へ集中し、首都圏の人口は増え続けた。
一方、東京都内では住宅不足、交通混雑、地価上昇、公害、工業用地不足が深刻化した。
日本の成長を続けるためには、東京に集まりすぎた機能を外へ移さなければならなかった。
そこで注目されたのが、東京から約100キロ圏内にありながら、広大な平地を持つ茨城県だった。
西側には筑波山を望む農村地帯があり、南東部には霞ヶ浦、北浦、利根川、鹿島灘に囲まれた広い土地があった。
すでに都市化が進んでいた神奈川県や埼玉県、千葉県西部と比べ、茨城県には大規模な土地利用を計画できる余地が残されていた。
東京から完全に離れるのではなく、必要なときには東京へ接続できる。
しかし、東京の過密や高い地価からは距離を置ける。
この「近すぎず、遠すぎない」位置が、茨城県を国家的な都市開発の舞台にした。
つくばは、東京から「知識」を移すためにつくられた
1961年、政府は東京に置く必要性の低い官庁の付属機関や国立学校などを、集団で移転する方針を決定した。
その建設地として筑波地区が選ばれ、1963年に筑波研究学園都市の建設が閣議了解された。
目的は大きく二つあった。
一つは、東京の過密を緩和すること。
もう一つは、国の研究機関と大学を一か所に集め、科学技術と高等教育の拠点を形成することだった。
つまり、つくばは単なる郊外住宅地ではない。
東京から研究機能を切り離し、新しい場所へ集団移転させるためにつくられた「知識の計画都市」である。
1970年には筑波研究学園都市建設法が施行され、1973年には筑波大学が開学した。1980年までに、国の試験研究・教育機関など43機関の移転が完了した。
国土地理院、気象研究所、産業技術総合研究所、宇宙航空研究開発機構、高エネルギー加速器研究機構など、日本の科学技術を支える機関が集まった。
東京の霞が関や大学、各地の研究所に分散していた知識が、茨城県南部の農村地帯へ移されたのである。
鹿島は、東京圏から「生産」を移すためにつくられた
筑波研究学園都市より少し早い1961年、茨城県は鹿島臨海工業地帯造成計画を策定した。
鹿島灘沿岸には、遠浅の砂浜と砂丘が続いていた。
大型船が入れる天然の港があったわけではない。
そこで土地を内陸側へ掘り込み、人工的に航路と港をつくるという大規模な計画が立てられた。
1963年、鹿島港は国の重要港湾に指定され、同年11月に起工式が行われた。1969年に開港し、周囲には鉄鋼、石油精製、石油化学、火力発電、飼料などの巨大工場が次々と進出した。
鹿島は、港の周囲に工場が自然に集まった場所ではない。
港湾、工業用地、道路、鉄道、工業用水、市街地を一体としてつくった「生産の計画都市」である。
東京湾岸では確保しにくくなっていた広大な工業用地を、茨城県の太平洋岸につくる。
海外から原料を大型船で運び入れ、鉄鋼、化学製品、飼料、エネルギーへ変える。
鹿島開発は、日本の重化学工業化を支えるために、海岸線と土地利用を大きく組み替えた国家的事業だった。
つくばには「頭脳」、鹿島には「身体」が配置された
つくばと鹿島を並べると、戦後日本がどのように国土を設計しようとしたのかが見えてくる。
つくばに集められたのは、大学、研究機関、研究者、実験施設だった。
鹿島に集められたのは、港湾、工場、発電所、物流施設、労働力だった。
つくばが日本の「頭脳」だとすれば、鹿島は原料を製品へ変える「身体」である。
両者は異なる都市でありながら、同じ成長モデルの中に存在していた。
戦後日本は、科学技術によって新しい知識を生み出し、重化学工業によって大量の製品を生産し、海外へ輸出することで経済を成長させた。
その知識の一部を担ったのがつくばであり、生産の一部を担ったのが鹿島だった。
茨城県は、首都圏の食料供給基地であるだけでなく、日本の成長を実行する巨大な実験場でもあったのである。
なぜ、茨城県だったのか
二つの国家プロジェクトが茨城県に置かれた理由は、「土地が広かったから」だけではない。
1.東京に近い
つくばも鹿島も、東京から約100キロ圏内に位置する。
日常的な往来には一定の時間がかかるが、首都から完全に切り離されるほど遠くはない。
研究機関、企業、行政を東京と連携させながら、土地や施設を大規模に配置できる距離だった。
2.平坦な土地があった
つくば周辺には広い台地と農地があり、研究施設、住宅、道路を計画的に配置できた。
鹿島周辺にも平坦な砂丘地帯が広がり、港湾と巨大工場を一体的に造成できた。
既成市街地が少ないことは、国家や行政にとって計画を進めやすい条件だった。
3.大量の水を確保できた
工業地帯の形成には、大量の水が必要である。
鹿島地域には霞ヶ浦、北浦、利根川水系があり、工業用水を供給できた。
水は農業を支える自然資源であると同時に、工業化を成立させるインフラでもあった。
4.太平洋へ開かれていた
鹿島灘は天然の良港ではなかったが、人工港をつくれば、海外から大量の原料を直接受け入れられる。
鉄鉱石、石炭、原油、穀物などを船で運び込み、その近くで加工できることは、重化学工業にとって大きな利点だった。
5.東京圏の外縁だった
茨城県は東京に隣接しながら、当時は東京の都市化が全面的に及んでいなかった。
首都圏に属しながら、首都の外側にある。
この境界的な位置が、巨大な研究都市と工業地帯の建設を可能にした。
そこは、本当に「何もない土地」だったのか
国家的な開発では、建設地が「未開の土地」や「何もない場所」として語られることがある。
しかし、つくばにも鹿島にも、開発以前から人々の暮らしがあった。
つくば周辺には農村集落があり、農地、山林、祭礼、共同体が存在していた。
鹿島地域でも農業と漁業が営まれ、鹿島台地では畑作、北浦や利根川流域では稲作、沿岸部では漁業が行われていた。
鹿島開発当時、地域は「貧困からの解放」という言葉で語られた。
しかし鹿嶋市の資料によると、当時の鹿島町、神栖村、波崎町の農業生産性は、いずれも茨城県平均を上回っていた。
開発前の鹿島は、何も生み出していない土地ではなかった。
工業とは異なる方法で、すでに土地を生産の場として利用していたのである。
開発によって新しい雇用、税収、道路、住宅、公共施設が生まれた一方、農地や海岸景観、従来の生活圏は大きく変化した。
「土地が余っていた」のではない。
国家が、それまでとは異なる価値を土地に与えたのである。
鹿島方式は、土地を「交換可能な資源」に変えた
鹿島開発では、「鹿島方式」あるいは「六四方式」と呼ばれる独特の用地取得が行われた。
地権者が所有地の4割を開発用地として提供し、残る6割に相当する土地を代替地として受け取る仕組みである。
すべての土地を金銭で買収するのではなく、農業や生活を継続できるように土地を再配置する考え方だった。
これは「農工両全」という開発理念にもつながっている。
工業を発展させながら、農業も維持する。
地域住民を単純に立ち退かせるのではなく、新しい都市構造の中へ組み込む。
しかし同時に、この方式は土地を、暮らしや記憶が蓄積した場所から、計画の中で交換・再配置できる資源へ変えるものでもあった。
同じ面積の土地を受け取ったとしても、そこにあった風景、隣人関係、海や農地との距離まで同じになるわけではない。
鹿島開発は、経済成長の成果だけでなく、土地を計画的に組み替えるとはどういうことかを、現在に問いかけている。
計画都市は、効率的だが分断されやすい
つくばと鹿島には、計画的につくられた都市に共通する特徴がある。
研究施設、住宅地、工業地帯、幹線道路などの機能が明確に分けられていることだ。
つくばでは、研究・教育施設と住宅、市街地が計画的に配置された。
鹿島では、港湾、工業用地、居住地域、農業地域が分けられた。
機能を分離することで、安全性や効率性を高めることができる。
一方、それぞれの場所が独立しすぎると、都市の中に分断が生まれる。
研究機関の中で生み出された知識が、地域の中小企業や農業者へ十分に届かない。
巨大工場が地域経済を支えていても、企業内の生産活動が周辺の商業や地域文化と直接つながらない。
広い道路と低密度な土地利用によって、自動車がなければ移動しにくい都市になる。
計画都市は、施設を配置することには強い。
しかし、人と人、産業と生活、研究と現場の間に関係をつくることは、施設建設だけでは実現できない。
つくばは、東京から離れるためにつくられ、東京との接続で成長した
筑波研究学園都市は、東京の過密を解消し、機能を分散させるためにつくられた。
しかし2005年、つくばエクスプレスが開業すると、つくば市と東京都心の時間距離は大きく縮まった。
沿線では住宅開発が進み、つくば市は東京への通勤圏としても成長した。
2025年国勢調査の速報では、つくば市の人口は前回調査から約2万7,000人増え、県内最大となった。
これは一つの逆説である。
東京から機能を分散するためにつくられた都市が、東京と強く接続されることで人口を増やした。
つくばは「東京から独立した科学都市」ではなく、東京との距離を使い分ける都市へ変わった。
研究環境や広い居住空間を持ちながら、必要なときには東京都心へ移動できる。
この接続性はつくばの強みである一方、つくばが東京の郊外住宅地に近づいていく可能性も持つ。
研究都市としての独自性を保ちながら、生活都市として成熟できるか。
それが、つくばの次の課題である。
鹿島は、成長を支えた産業からの転換を迫られている
鹿島臨海工業地帯の中心は、鉄鋼、石油精製、石油化学、火力発電などの基礎素材産業である。
これらは高度経済成長期の日本を支えた一方、化石燃料への依存度が高く、大量の二酸化炭素を排出する。
茨城県の資料によると、2021年度の県内二酸化炭素排出量のうち、産業部門が63.8%を占めていた。
日本が脱炭素化へ向かうなか、鹿島は存在意義そのものを問い直されている。
工場を閉じれば、雇用、税収、地域経済に大きな影響が出る。
しかし、従来型の生産を続けるだけでは、国際競争力と環境対応の両方で厳しくなる。
茨城県が2026年に改訂した鹿島臨海工業地帯の将来ビジョンでは、GX産業の創出とDX・スマート化が柱に掲げられた。
水素やアンモニアの供給網、プラスチックのケミカルリサイクル、バイオマスを活用したグリーンケミカル、製造設備の高度化などが想定されている。
かつて鹿島は、石油と鉄鋼による日本の成長モデルを実装する場所だった。
これからは、脱炭素型の産業モデルを実装できるかが問われる。
つくばの知識と、鹿島の現場はつながるか
ここに、茨城県だからこそ持てる可能性がある。
県内には、つくばの研究機関、東海・那珂の原子力・核融合研究、日立地域のものづくり、鹿島の素材産業と港湾、広大な農業地域が存在する。
科学、製造、エネルギー、物流、農業が一つの県内にある。
しかし、集積しているだけでは新しい価値は生まれない。
つくばで生み出された技術を、鹿島の工場や県内農業へどう実装するか。
鹿島の現場が抱えるエネルギー、設備保全、資源循環、人材不足などの課題を、研究テーマへどう戻すか。
大学、国立研究機関、大企業、中小企業、農業者、自治体の間をつなぐ仕組みが必要になる。
これは、つくばの研究成果を鹿島へ一方的に「移転する」という話ではない。
現場にある課題と経験を知識として捉え、研究者と事業者がともに解決策をつくる関係である。
つくばが知識を生み、鹿島が生産するという分業から、研究と現場が循環する構造へ。
この転換ができれば、戦後につくられた二つの計画都市は、初めて一つの地域戦略として結ばれる。
二つの都市に必要なのは、第二の「国家プロジェクト」ではない
1960年代の都市開発は、国や県が大きな計画を立て、土地と機能を一気に配置する方法だった。
港を掘り、道路をつくり、研究機関と工場を移転させる。
目標が明確で、人口と経済が成長していた時代には、強力な手法だった。
しかし、現在は状況が違う。
人口は減少し、インフラは老朽化し、環境負荷の低減が求められている。企業や研究分野の変化も速く、数十年先の産業構造を行政だけで決めることは難しい。
必要なのは、もう一度巨大な都市をゼロからつくることではない。
すでにある研究機関、工場、港湾、農地、地域社会を結び直すことである。
つくばでは、先端技術を市民生活や地域課題へ実装する「スーパーサイエンスシティ」の取り組みが進む。
鹿島では、港湾と工業地帯を生かしたGX産業、洋上風力、水素・アンモニア、資源循環への転換が模索されている。
次の時代の開発とは、土地を大きく変えることではない。
既存の場所の役割と関係を変えることである。
茨城県は、「受け皿」から「編集者」になれるか
これまでの茨城県は、東京や国家が必要とする機能を受け入れてきた。
研究機関を受け入れる。
工場を受け入れる。
港湾を整備する。
発電施設や原子力関連施設を受け入れる。
首都圏へ食料と水を供給する。
それによって雇用、税収、インフラ、科学技術の集積を得た。
一方、どの機能を配置するかという大きな構想は、国や大企業の側で決められることが多かった。
これからの茨城県に必要なのは、外から与えられた役割を受け入れるだけではなく、県内に蓄積した資源を自ら組み合わせることだ。
つくばの研究を、鹿島の産業へ。
鹿島の脱炭素化を、県内企業の新しい仕事へ。
科学技術を、農業、水環境、防災、医療、交通の課題解決へ。
港湾を、資源輸入の入口だけでなく、新しいエネルギー産業の拠点へ。
国土の余白として選ばれた茨城県が、今度は自らの土地の未来を編集する。
そこに、次の地政学がある。
まとめ──つくばと鹿島は、戦後日本が茨城に残した二つの設計図である
つくばと鹿島は、異なる都市ではない。
どちらも、東京への過度な集中を外側へ分散し、日本の成長を支えるためにつくられた計画都市である。
つくばには知識と研究が配置された。
鹿島には港湾と生産が配置された。
二つの都市は、科学技術と重化学工業によって成長しようとした戦後日本の、二つの設計図だった。
しかし、その設計図は現在、書き換えを迫られている。
つくばには、研究成果を地域や社会へ実装する力が求められる。
鹿島には、化石燃料型の工業地帯から脱炭素型産業への転換が求められる。
そして茨城県には、二つの都市を別々の拠点としてではなく、知識と現場が循環する一つの地域構造として結び直す役割がある。
1960年代、日本は茨城県の土地に研究都市と工業都市をつくった。
これから問われるのは、その二つを使って、茨城県自身がどのような未来をつくるかである。

