栃木県宇都宮市の地下には、かつて航空機を生産するためにつくられた巨大な空間がある。
場所は、大谷石の産地として知られる大谷地区。
戦時中、中島飛行機の工場機能を空襲から守るため、大谷石の採掘跡が地下工場として利用された。地上ではなく、山の内部に生産設備を移す。それは、栃木県の地形そのものを軍事資源として利用した計画だった。
現在、その宇都宮にはSUBARUの航空宇宙部門があり、東部の清原工業団地や芳賀・高根沢工業団地には、自動車、医療機器、半導体材料、食品などの企業と研究開発拠点が集積している。
2023年には、宇都宮駅と東部の工業団地群を結ぶLRT「ライトライン」が開業した。
航空機を隠した地下空間から、人と技術を運ぶ次世代型路面電車へ。
一見すると別々の出来事に見えるが、その背景には共通する地理がある。
栃木県はなぜ、農業県でありながら、日本有数の工業県になったのか。
今回は、軍都・宇都宮、中島飛行機、大谷地下工場、戦後の工業団地、テクノポリス、芳賀・宇都宮LRTをつなぎ、栃木県の「産業地政学」を読み解いていきたい。
宇都宮は「城下町」から「軍都」へ変わった
宇都宮は、古くから交通の要衝だった。
江戸時代には宇都宮城を中心とする城下町として発展し、日光街道と奥州街道が分岐する宿場町でもあった。
東京と東北を結び、日光へ向かう人々が行き交う。
この交通上の重要性は、明治時代になると軍事的な意味を持つようになる。
1907年、宇都宮に陸軍第14師団が置かれた。
師団の設置には、広い土地、鉄道輸送、首都との距離、東北方面への移動のしやすさなどが関係していたと考えられる。宇都宮は東京に近い一方、沿岸部から離れている。首都圏と東北の中間にある内陸都市は、兵員や物資を配置するうえで都合がよかった。
軍施設の周辺には、兵士や関係者の生活を支える商業が生まれ、道路や水道などの都市基盤も整備されていった。
宇都宮は、街道の宿場町から近代的な「軍都」へ変化したのである。
この軍事都市としての基盤が、のちの軍需工業の立地にもつながっていく。
中島飛行機は、なぜ宇都宮に工場を置いたのか
戦争が拡大すると、宇都宮には中島飛行機をはじめ、日本製鋼所や日化工業などの軍需工場が進出した。
中島飛行機は、日本を代表する航空機メーカーだった。
その発祥地は、現在の群馬県太田市周辺である。栃木県南西部と群馬県東部は、行政上は別の県だが、古くから「両毛地域」と呼ばれる一つの経済・文化圏を形成してきた。
足利、佐野、太田、桐生は、鉄道や道路によって結ばれ、人、資材、技術が県境を越えて移動していた。
つまり中島飛行機の宇都宮進出は、まったく新しい地域への移転ではない。
太田を中心とする航空機産業圏が、県境を越えて宇都宮方面へ拡張したと見ることができる。
宇都宮には鉄道があり、東京や東北への輸送にも適していた。関東平野の北部には工場用地を確保しやすく、軍都として蓄積された人員、施設、行政との関係もあった。
一方で、戦争末期になると、工場が集積すること自体が危険になる。
航空機工場は、敵の空襲における重要な攻撃目標だった。
そこで利用されたのが、大谷石の採掘跡である。
大谷石の地下空間が「軍需インフラ」になった
大谷地区では、古くから建築材料として大谷石が採掘されてきた。
柔らかく加工しやすい大谷石は、蔵、塀、倉庫、建築物などに幅広く使われた。明治期に鉄道が整備されると、販路は関東地方だけでなく、さらに遠方へと広がっていった。
大谷石は、地域の暮らしと建築を支える資源だった。
しかし戦時中、その採掘跡には別の役割が与えられる。
地下に広がる巨大な空間は、上空から発見されにくく、空襲の被害を受けにくい。一定の温度が保たれることも、工場として利用するうえで有利だった。
1943年頃から、中島飛行機宇都宮製作所の大谷分工場として、採掘跡や新たに掘削された坑道が利用された。
ここで重要なのは、単に地下へ機械を運び込んだだけではないという点だ。
航空機の生産には、部品、工作機械、電力、照明、輸送路、労働者、品質管理が必要になる。地下空間を工場へ変えるには、地上の物流網や都市機能と接続しなければならない。
山の内部だけで戦争はできない。
鉄道や道路で材料を運び、地下で加工し、再び外部へ送り出す必要がある。
大谷地下工場は、自然地形と産業技術、交通網、軍事戦略を組み合わせた巨大なシステムだった。
栃木県の地形は、建築資材を生み出す「産業資源」から、航空機生産を守る「防衛資源」へ転用されたのである。
それでも宇都宮は空襲を免れなかった
内陸部に位置し、地下工場まで整備した宇都宮も、戦争の被害から逃れることはできなかった。
1945年7月12日、宇都宮は大規模な空襲を受けた。
市街地の多くが焼失し、多数の市民が被害を受けた。軍事施設や軍需工場が存在することは、地域に雇用や都市基盤をもたらす一方、その地域を攻撃対象にする危険も生み出す。
ここには、軍需産業を抱える都市の矛盾がある。
工場は地域を成長させる。しかし戦時下では、その工業力が地域の安全を脅かす。
地下化によって生産設備を守ろうとしても、地上で暮らす市民や都市全体を完全に守ることはできない。
軍都・宇都宮の歴史は、産業集積が経済的な強さだけでなく、地政学的な危険も同時に引き寄せることを示している。
航空機の技術は、戦後に消えなかった
1945年の敗戦後、日本では航空機の生産が禁止された。
航空機産業に関わってきた企業や技術者は、大きな転換を迫られる。
中島飛行機は富士産業へ改称し、その後の企業再編を経て、富士重工業、現在のSUBARUへとつながっていった。
航空機をつくることができなくなっても、そこで培われた技術まで消えたわけではない。
軽量化、空力設計、精密加工、エンジン、材料、品質管理。航空機製造に必要だった知識や技術は、スクーター、自動車、バス車体、鉄道車両などの民需製品へ転用されていった。
戦後間もない1946年には、旧中島飛行機の技術を生かしたラビットスクーターが登場する。
やがてSUBARUは自動車メーカーとして成長する一方、航空宇宙事業も再び展開した。現在、宇都宮製作所ではヘリコプターや航空機関連の開発・生産が行われている。
これは単なる企業史ではない。
軍需から民需へ、航空機から自動車へ、そして再び航空宇宙へ。
栃木県と北関東に蓄積された技術が、時代に応じて用途を変えながら受け継がれてきたのである。
工場が閉鎖されたとしても、技術者の経験、協力企業のネットワーク、教育、設備、地域文化は残る。
産業集積とは、建物の集まりではない。
人と技術の記憶が、地域の内部に積み重なることなのである。
戦後の宇都宮は「生産基地」を選んだ
戦後の宇都宮は、焼け野原から都市を再建した。
戦災復興土地区画整理が進められ、道路や市街地が再整備される。さらに1950年代の市町村合併によって市域を拡大し、工業都市として成長するための空間を確保していった。
1960年代以降、宇都宮市は積極的な工業振興策を進める。
宇都宮工業団地、平出工業団地、瑞穂野工業団地、清原工業団地などが整備され、企業誘致が本格化した。
特に清原工業団地は、約388ヘクタールの規模を持つ国内最大級の内陸型工業団地となった。
ここには、いくつもの地理的利点があった。
東京という巨大市場に近い。東北方面への物流にも適している。沿岸部と比較して広い工場用地を確保しやすい。鬼怒川水系から工業用水を得られる。そして、津波や高潮の直接的な影響を受けにくい。
海がないことは、港から遠いという弱点になる。
しかし高速道路とトラック輸送が発達すれば、内陸立地の不利は小さくなる。むしろ広大な土地や災害リスクの分散という利点が際立つようになる。
栃木県は、海を持たないから工業化が遅れたのではない。
道路輸送の時代になったことで、内陸であることを産業上の強みに変えたのである。
1984年、「工場」から「頭脳基地」へ
宇都宮の産業政策に大きな転換をもたらしたのが、1984年の「宇都宮テクノポリス」地域指定だった。
テクノポリスとは、先端技術産業、大学や研究機関、良好な居住環境を一体的に整備しようとする国家政策である。
従来の工業団地は、製品を大量に生産する場所という性格が強かった。
しかしテクノポリス構想では、研究、開発、設計、人材育成までを地域内部に取り込むことが目指された。
宇都宮も「生産基地から頭脳基地へ」という方向を打ち出す。
清原工業団地の周辺には産業支援施設や研究関連施設が整備され、さらに鬼怒川を越えた芳賀町や高根沢町にも、自動車関連企業や研究開発拠点が集積していった。
栃木県が現在、自動車、航空宇宙、医療福祉機器を「戦略3産業」と位置づけている背景には、この長期的な産業転換がある。
食品、たばこ、化学、電気機械、半導体材料、自動車、医療機器。
栃木県の工業は、単一産業だけで構成されているわけではない。しかし、その中核にあるのは、高度な加工技術と品質管理、研究開発の集積である。
戦時中の航空機工場から始まった精密なものづくりの系譜が、戦後の工業団地政策とテクノポリス構想によって、より広い産業へ展開されたと見ることができる。
なぜ産業は宇都宮の「東側」へ広がったのか
現在の宇都宮を地図で見ると、産業機能が東側へ大きく広がっていることが分かる。
JR宇都宮駅の東側には鬼怒川が流れ、その先に清原工業団地、さらに芳賀・高根沢工業団地が位置する。
この地域には広い土地があり、大規模な工場や研究施設を配置しやすかった。国道408号や北関東自動車道などの道路網も整備され、真岡、つくば、茨城県の港湾方面へつながる産業軸が形成された。
かつての栃木県の交通は、東京と東北を結ぶ南北軸が中心だった。
しかし工業化が進むと、宇都宮駅から鬼怒川を越え、芳賀方面へ向かう東西軸の重要性が高まっていく。
人々の暮らす中心市街地は宇都宮駅周辺にある。一方、雇用を生み出す工場や研究所は郊外の東部へ広がる。
この職住分離によって、朝夕には多くの自動車が同じ方向へ集中した。
産業集積の成功が、深刻な交通渋滞を生み出したのである。
工業団地は広い土地を必要とするため、郊外に建設される。しかし郊外化が進むほど、従業員は自動車に依存する。
それは、戦後日本の工業都市に共通する構造だった。
LRTは交通対策ではなく「産業インフラ」である
2023年8月26日、芳賀・宇都宮LRT「ライトライン」が開業した。
新設の路面電車としては、日本国内で約75年ぶりとされる事業である。
路線はJR宇都宮駅東口から鬼怒川を渡り、清原工業団地を経て、芳賀・高根沢工業団地へ向かう。
ライトラインは、観光客のためにつくられた路面電車ではない。
その路線を見れば、栃木県の産業地理がそのまま表れている。
宇都宮駅、住宅地、大学、商業施設、清原工業団地、研究開発拠点、芳賀の工業団地。それらを一本の公共交通で結び、自動車に依存してきた通勤構造を変えようとしている。
つまりライトラインは、単なる渋滞対策ではない。
工場や研究所へ人材を安定して運び、企業の立地競争力を維持するための産業インフラでもある。
若者、高齢者、県外からの転入者、運転免許を持たない人も、工業団地や研究開発拠点へ移動できる。企業側にとっても、採用可能な人材の範囲が広がる可能性がある。
道路が製品と部品を運ぶ動脈なら、LRTは人材と知識を運ぶ動脈である。
戦後の工業団地が「自動車で通勤する工場」を前提にしていたのに対し、ライトラインは「公共交通でアクセスできる産業地域」への転換を目指している。
ここに、栃木県の産業地政学の新しい段階が見える。
工場が都市を変え、都市が工場を支える
産業政策は、工場の敷地内だけで完結しない。
企業が進出すれば、働く人が増える。住宅、学校、商業施設、医療、公共交通が必要になる。さらに研究開発拠点を呼び込むには、技術者とその家族が暮らし続けたいと思える都市環境が欠かせない。
宇都宮東部のゆいの杜周辺では、テクノポリス計画に関連した住宅開発が進められ、人口も増加した。
ライトライン沿線では、住宅や商業施設の開発、地価、人口分布にも変化が表れている。
工業団地への交通手段として始まったLRTが、新しい居住地と生活圏を形成しつつある。
つまり、工場が交通をつくり、交通が住宅を呼び、住宅が商業や教育を必要とし、それらが再び企業の人材確保を支える。
産業と都市は、別々に存在しているのではない。
互いに影響を与えながら、一つの地域構造をつくっている。
宇都宮の東側で進んでいるのは、交通網の整備だけではない。栃木県の産業と暮らしの重心そのものが、東へ拡張する動きなのである。
内陸工業県の強さと弱さ
栃木県の内陸立地は、製造業にいくつもの利点をもたらしてきた。
広い土地を確保しやすく、津波や高潮の直接被害を受けにくい。首都圏に近く、東北、関越、常磐方面へ道路で接続できる。常陸那珂港や京浜港などへも製品を運ぶことができる。
一方、弱点もある。
港湾へつながる物流の多くを道路輸送に依存するため、燃料価格、運転手不足、高速道路の寸断などの影響を受けやすい。
工業団地が広範囲に分散すれば、従業員の自動車依存も強くなる。人口減少によって働き手が減れば、工場が存在していても、生産や研究を担う人材を確保できなくなる可能性がある。
さらに、自動車産業そのものも大きな転換期にある。
電動化、自動運転、ソフトウェア化、脱炭素化が進めば、エンジンや従来型部品を中心とする産業構造は変化を迫られる。
航空宇宙産業も、防衛需要、国際共同開発、脱炭素航空、無人航空機、宇宙利用など、新しい技術と政治環境の影響を強く受ける。
内陸に工場があるだけでは、未来の競争力は保証されない。
重要なのは、製造設備だけでなく、研究、人材、教育、デジタル技術、地域交通を一体として育てられるかどうかである。
栃木県に蓄積された「転換する力」
栃木県の産業史を振り返ると、一つの特徴が見えてくる。
それは、時代の変化に応じて技術の使い方を変えてきたことである。
大谷石の採掘空間は、建築資材の生産現場から航空機の地下工場へ転用された。
航空機製造の技術は、戦後にスクーターや自動車へ応用された。
大量生産を担う工業団地は、研究開発機能を備えたテクノポリスへ発展した。
自動車を前提として造成された郊外産業地域には、LRTという公共交通が導入された。
用途は変わっても、地域に蓄積された技術、空間、交通、人材は次の産業へ引き継がれている。
栃木県の強さは、特定の製品をつくり続けてきたことだけではない。
社会の変化に応じて、土地と技術の意味を組み替えてきたことにある。
それは、工業製品以上に重要な地域資産かもしれない。
「つくる県」から「未来を設計する県」へ
これまで栃木県は、東京や海外企業が必要とする製品を生産する場所として発展してきた。
しかし、生産するだけでは、地域に残る付加価値には限界がある。
工場で何をつくるかを決めるのは誰か。技術をどの社会課題に使うのか。製品の設計、知的財産、ブランド、データを誰が持つのか。
これからの栃木県に必要なのは、「生産基地」からさらに先へ進むことである。
航空宇宙技術を災害対応や物流へ生かす。
自動車技術を地域交通や高齢者の移動支援へつなげる。
医療機器産業を、地域の医療や介護の課題と結びつける。
LRT沿線を、単なる通勤路線ではなく、企業、大学、研究者、住民が交流する実証フィールドに変える。
そこまで進んだとき、栃木県は「企業の工場がある県」から、「地域から新しい産業を生み出す県」へ変わる。
地下工場からライトラインへ
戦時中、大谷の地下に航空機工場がつくられた。
そこでは、産業を外から見えない場所へ隠すことが求められた。
現在、宇都宮の地上には、黄色いライトラインが走っている。
住宅地、大学、工場、研究所をつなぎ、地域の産業を人々の暮らしへ開いている。
地下へ隠された軍需工場と、街の中を走る公共交通。
両者は対照的に見える。
しかし、どちらも栃木県の土地を利用し、人と技術を結び、時代が必要とする産業を支えるためにつくられた。
大谷石の地下空間は、戦争のために航空機を守った。
戦後の工業団地は、日本の経済成長を支えた。
そしてライトラインは、人口減少と脱炭素の時代に、産業と暮らしを持続させようとしている。
栃木県の産業地政学とは、工場の場所を説明するだけのものではない。
土地に刻まれた過去の技術を、次の時代へどう転換するかという物語である。
栃木県は、ものをつくってきた県だ。
これから問われるのは、そこでどのような未来をつくるのかである。
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