夏の信州には、花を目当てに山を訪れる人がいる。
霧ヶ峰のニッコウキスゲ。南アルプスの稜線に広がるお花畑。
遠くから眺めれば、山は変わらず緑に見える。
けれど、その緑をつくる植物の顔ぶれは、変わっているかもしれない。
長野県の自然環境問題の一つが、ニホンジカによる植物の食害だ。農作物や植林木だけでなく、高山植物や草原の花々にも影響が及ぶ。
ここで失われるのは、写真に写る美しさだけではない。植物と昆虫の関係、斜面を覆う植生、そして土地と人が積み重ねてきた関わりである。
1.山が緑であることと、自然が豊かであることは同じではない
植物が食べられても、すべての場所がすぐに茶色くなるわけではない。
食害を受けやすい植物が減り、残る植物によって地面が覆われていれば、遠景から変化を読み取るのは難しい。
長野県は、高山植物や希少植物の食害、樹木の樹皮への被害などを、ニホンジカがもたらす自然生態系の問題として挙げている。
何種類の花が咲くのか。どの植物が種を残せるのか。その葉を食べる昆虫が暮らせるのか。
自然の豊かさを知るには、緑の面積に加えて、その中身を見る必要がある。
2.南アルプス——高山のお花畑で起きていること
環境省によると、南アルプスでは1998年ごろから稜線付近に現れるニホンジカが増え、高山帯のお花畑で食害が深刻化してきた。
南アルプスは長野・山梨・静岡の県境をまたぐ山域である。長野県側だけで完結する問題ではなく、山全体で捉える必要がある。
対策として進められているのは、防鹿柵の設置、捕獲、モニタリング、裸地化した場所の土壌流出防止などだ。
花を守る取り組みと、植物が育つ地面を守る取り組みが、同時に必要になっている。
なお、長野県の山岳地域すべてで、被害が同じ段階にあるわけではない。
県の第6期ニホンジカ管理計画では、南アルプスや八ヶ岳などで自然植生への強い食圧・踏圧が生じている一方、北アルプスや中央アルプスでは高山帯への侵入を防ぐ対策の検討を掲げている。
すでに傷んだ場所を回復することと、これから被害が広がる場所を守ること。その両方が、信州の山には求められる。
3.花が消えると、昆虫の暮らしも変わる
植物の減少は、その植物を利用する生きものにも影響する。
長野県の生物多様性ポータルサイトは、チョウのコヒョウモンモドキについて、幼虫の食草であるクガイソウがシカに食べられることにより、南アルプスなどで激減していると紹介している。
成虫が飛ぶ場所だけを残しても、幼虫が食べる葉がなければ、次の世代につながらない。
一つの植物を守ることが、別の生きものの生活を支える。
お花畑は、花を集めた展示場ではない。
食べる、育つ、花を訪れる。その関係が重なり合ってできた、生きものの暮らしの場なのである。
4.植物が失われた先に、土壌の問題がある
食害が進み、踏みつけも重なると、植生が失われて地面が露出する場所が生じる。
南アルプスでは、シカの食圧や踏圧による土壌流出が確認されている。
地面が失われてしまえば、シカの侵入を防いでも、それだけで植物が戻るとは限らない。
環境省は、裸地化した場所で土壌流出を抑える対策も実施している。
「食べられなくなった」と「回復した」の間には、距離がある。
植物が根を張る条件を残せるかどうかが、その後の再生を左右する。
花が減った段階で変化に気づくことは、風景を守るだけでなく、回復に必要な時間と作業を増やさないことにもつながる。
5.霧ヶ峰——人が関わることで残ってきた草原
南アルプスの高山帯とは異なり、霧ヶ峰の草原は、人の営みと深く結びついている。
長野県の解説によれば、霧ヶ峰に広がるのは、火入れや採草によって維持されてきた「半自然草原」だ。
自然の植物が生育する場所でありながら、その環境を保つうえで人の働きかけが重要な役割を果たしてきた。
こうした草原では、人の利用や管理が減ることも、草原性の生きものにとって危機になる。
自然を守るという言葉から、人が離れればよいと考えることもある。
しかし、霧ヶ峰では、人がどのように関わり続けるかが問われる。
風に揺れる草原には、土地を利用し、手入れしてきた地域の歴史も重なっている。
6.防鹿柵の内側に見える、風景の可能性
霧ヶ峰では、2007年ごろからシカの影響が目立つようになったとされ、ニッコウキスゲやマツムシソウなどが食害を受けている。
保全のために設置された電気柵の内側では、外側と比べて植物の種類や花の数が多く、花を訪れるチョウなどの昆虫も多いことが確認されている。
柵の内外の違いは、植物が残る条件をつくれば、生きものの関係も守れることを示している。
ただし、柵は設置して終わりではない。
南アルプスには、雪による損傷を避けるため、初夏に立ち上げ、晩秋に撤去する季節型の柵もある。通年設置できる柵でも維持管理が必要だ。
景色を楽しむ時間の背後には、設備を点検し、直し、使い続ける時間がある。
保全を考えるときは、その継続する仕事にも目を向けたい。
7.なぜシカの問題が大きくなったのか
長野県は、野生動物による被害増加の背景として、狩猟者の減少による捕獲圧の低下、山村の人口減少に伴う生産活動の低下、温暖化による生息域の拡大など、複数の要因を挙げている。
シカだけを見ていても、問題の全体は捉えられない。
山村で暮らす人の数、土地の利用、捕獲を担う人、気候の変化。それぞれが、生きものの分布や人との距離に関わっている。
この問題を「シカが悪い」という物語にしてしまうと、必要な対策を見失う。
問われているのは、シカの存在そのものよりも、その密度や利用する場所が、植物の回復できる範囲とどう釣り合うかである。
8.守る対象を決め、結果を確かめる
長野県は、2026年4月から2031年3月までの第6期ニホンジカ管理計画で、農林業被害と自然生態系への影響の軽減、適正な生息密度への誘導を目標にしている。
対策を考えるうえでは、捕獲と植生保護を組み合わせる必要がある。
柵で重要な場所を守り、生息状況を調べ、植物の変化を確かめながら管理を続ける。
成果を見る指標も、捕獲した数だけでは足りないだろう。
花が再び咲くか。植物が種を残せるか。裸地の拡大を抑えられるか。
保全の目的に沿って、山の状態そのものを見ていくことが大切だ。
観光で訪れる人にも、関わり方がある。
登山道や木道を外れない。植物を持ち帰らない。保護柵の案内に従う。地域の保全活動を知る。
風景を消費するだけでなく、風景が続く条件に関心を持つことが、旅の意味を少し変えていく。
9.信州の風景は、これからの関わり方で変わる
南アルプスのお花畑と、霧ヶ峰の草原。
成立の歴史も、守り方も同じではない。
それでも、両者に共通する問いがある。
植物が次の季節へ命をつなぐ条件を、どう残すかという問いだ。
長野県の自然環境問題は、山の緑がなくなるかどうかだけでは測れない。
緑の中で何が失われ、何が残り、どんな関係が続いているのか。
山を訪れたとき、遠くの稜線だけでなく、足元の花にも目を向ける。
そして、その花が咲く場所を守る人の仕事を想像する。
信州の自然を未来へ渡すことは、そうした小さな視点からも始められる。
参照資料
- 環境省「南アルプス国立公園の取組み」
https://www.env.go.jp/park/minamialps/effort.html - 環境省「南アルプスとニホンジカ問題 その3」
https://kanto.env.go.jp/blog/2019/12/-3.html - 長野県「第二種特定鳥獣管理計画(第6期ニホンジカ管理)」
https://www.pref.nagano.lg.jp/yasei/sangyo/ringyo/choju/hogo/nihonjika-6ki.html - 長野県「第6期ニホンジカ管理計画 本文」
https://www.pref.nagano.lg.jp/yasei/sangyo/ringyo/choju/hogo/documents/honbun_nihonjika_6ki.pdf - 長野県「霧ヶ峰の紹介」
https://www.shinshu-ikimono.pref.nagano.lg.jp/biodirersity/shinshu/hotspot/kirigamine/ - 長野県「第2の危機(自然に対する人間の働きかけの縮小)」
https://www.shinshu-ikimono.pref.nagano.lg.jp/biodirersity/shinshu/crisis/crisis2/

