春になると、花が咲く。
梅、桜、菜の花、レンゲ、果樹の花。
畑ではイチゴやメロン、スイカ、キュウリ、トマトの花がひらく。
庭先では、小さな草花が光を受ける。
その花から花へ、静かに移動している生き物たちがいる。
ミツバチ。
マルハナバチ。
チョウ。
ガ。
ハナアブ。
甲虫。
小さな野生のハチたち。
彼らは、花の蜜や花粉を求めて飛ぶ。
その途中で、花粉を別の花へ運ぶ。
それが、受粉である。
私たちは果物や野菜を食べるとき、その実がどのようにできたのかをあまり考えない。
しかし、リンゴも、イチゴも、メロンも、カボチャも、多くの作物は、花粉を運ぶ生き物たちの働きに支えられている。
農林水産省は、ミツバチやマルハナバチなどの花粉交配用昆虫が、イチゴ、トマト、メロンなどの園芸作物の生産において、花粉交配の手段として欠かせないものになっていると説明している。(農林水産省)
つまり、花粉を運ぶ虫たちは、自然の中だけでなく、私たちの食卓も支えている。
けれど今、その小さな働き手たちが、世界各地で危機にさらされている。
生息地の減少。
農薬。
気候変動。
病気や寄生虫。
外来種。
単一作物の広がり。
花の少ない風景。
花は咲いている。
けれど、花粉を運ぶ命が減っていく。
それは、見えにくい自然環境問題である。
受粉とは何か
受粉とは、植物の花粉がめしべに運ばれることである。
風によって運ばれるものもある。
水によって運ばれるものもある。
しかし、多くの植物では、昆虫や鳥、コウモリなどの動物が花粉を運ぶ。
花は、ただ美しいだけではない。
色。
香り。
蜜。
形。
開花のタイミング。
それらは、花粉を運ぶ生き物との関係の中で進化してきた。
ハチが来る。
蜜を吸う。
体に花粉がつく。
次の花へ移動する。
花粉がめしべにつく。
実ができる。
種ができる。
この小さな往復が、植物の命を次の世代へつないでいる。
受粉は、目立たない。
田んぼの水路のように見えるわけではない。
護岸のように形があるわけでもない。
森の伐採のように一目で変化がわかるわけでもない。
しかし、受粉がなければ、多くの植物は実を結びにくくなる。
受粉は、自然の中にある見えないインフラである。
食卓は、花粉を運ぶ虫に支えられている
私たちが食べるものの中には、花粉を運ぶ生き物の働きに大きく支えられているものがある。
果物。
野菜。
ナッツ。
油糧作物。
香辛料。
一部の飼料作物。
もちろん、米や麦のように風で受粉する作物もある。
すべての食料が昆虫に依存しているわけではない。
しかし、食卓の彩りを支える多くの作物は、花粉を運ぶ生き物と深く関わっている。
IPBESの花粉媒介者に関する評価報告では、世界の主要作物107種類のうち、果実、種子、ナッツなどを生産する91種類が、少なくとも部分的に動物による受粉に依存しているとされている。(IPBES)
もし受粉が不足すれば、作物の量が減るだけではない。
形が悪くなる。
品質が下がる。
収穫が不安定になる。
農家の作業が増える。
価格が上がる。
地域の食文化にも影響する。
イチゴが赤く実ること。
リンゴが枝に並ぶこと。
カボチャが大きく育つこと。
それらの裏には、花から花へ移動する小さな命の働きがある。
食べ物は、畑だけでつくられているのではない。
畑のまわりの花、虫、森、草地、水辺、生態系の関係の中でつくられている。
ミツバチだけではない
花粉を運ぶ生き物というと、まずミツバチを思い浮かべる。
確かに、ミツバチは農業にとって重要な存在である。
養蜂によって管理され、農作物の受粉に利用されている。
しかし、受粉を担うのはミツバチだけではない。
野生のハチ。
マルハナバチ。
ハナアブ。
チョウ。
ガ。
甲虫。
アリ。
一部の鳥やコウモリ。
さまざまな生き物が、植物の受粉に関わっている。
野生の送粉者は、自然の中で多様な植物と結びついている。
早春に咲く花。
夏の草原の花。
秋の野草。
林縁の花。
畑の周辺に咲く小さな花。
それぞれの季節に、それぞれの花と、それぞれの虫がいる。
一種類のミツバチだけに頼ればよいという話ではない。
生態系にとって大切なのは、多様な花粉媒介者がいることである。
ある虫が少なくなっても、別の虫が補う。
季節や天候によって、働く虫が変わる。
作物によって、適した送粉者が違う。
多様性は、自然の保険である。
なぜ花粉を運ぶ虫が減るのか
花粉を運ぶ虫が減る理由は、ひとつではない。
まず、生息地の減少がある。
草地が減る。
雑木林が減る。
空き地が舗装される。
畑のまわりの花が減る。
河川敷の草地が管理されすぎる。
庭や公園の植物が単調になる。
虫たちにとって必要なのは、花だけではない。
巣をつくる場所。
冬を越す場所。
幼虫が育つ場所。
農薬から逃れられる場所。
季節を通じて蜜や花粉を得られる場所。
花が一時期だけ咲いていても、年間を通して生きていくことは難しい。
次に、農薬の影響がある。
害虫を防ぐための農薬が、花粉を運ぶ虫にも影響する可能性がある。
農薬の種類、使い方、時期、量、周辺環境によって影響は異なる。
さらに、気候変動も関わる。
花が咲く時期が変わる。
虫が活動する時期が変わる。
猛暑や干ばつが増える。
大雨で巣が失われる。
越冬の条件が変わる。
花と虫のタイミングがずれることもある。
花が咲いたときに、虫がいない。
虫が活動し始めたときに、花が終わっている。
自然の関係は、タイミングで成り立っている。
そのタイミングが崩れると、受粉も不安定になる。
花の少ない風景
私たちの暮らしの周りから、花の多い場所が減っている。
昔の農村には、畦道、草地、雑木林、用水路の土手、庭先、果樹、野草の咲く余白があった。
もちろん、昔の自然がすべて理想だったわけではない。
農作業は大変で、草刈りも必要で、虫害もあった。
それでも、農地と自然の間には、さまざまな小さな境界があった。
畑の端。
田んぼの畦。
水路のそば。
里山の林縁。
空き地。
河川敷。
家の庭。
そこに花が咲き、虫が集まり、鳥が来た。
しかし、現代の風景では、その余白が減っている。
効率的に管理された農地。
舗装された道路。
コンクリートの水路。
除草された公園。
同じ種類の樹木が並ぶ街路。
雑草がすぐに刈られる空き地。
きれいに管理された風景は、人間には快適に見える。
しかし、虫たちにとっては、食べ物も住みかも少ない風景かもしれない。
花粉を運ぶ虫が減る背景には、花の少ない社会がある。
農業と送粉者の関係
農業は、花粉を運ぶ虫に支えられている。
一方で、農業のあり方が送粉者に影響を与えることもある。
大規模な単一作物。
農薬。
畑の周辺の草地の減少。
ハウス栽培。
輸送される花粉交配用昆虫。
外来種の利用。
農業は、食料をつくるために必要である。
しかし、食料生産を支える生態系の基盤を弱めてしまえば、長期的には農業そのものが不安定になる。
農林水産省は、ミツバチなどの花粉交配用昆虫の安定確保に向けて、関係機関と花粉交配用ミツバチ不足に備えた体制を構築していると説明している。(農林水産省)
これは、受粉がすでに農業経営上の重要な課題になっていることを示している。
受粉は、自然が無料でやってくれる作業ではない。
その働きが不安定になれば、人間が管理し、調整し、補う必要が出てくる。
しかし、本来ならば、農地の周辺に多様な花や虫があり、自然の受粉サービスが働くことが望ましい。
農業と自然は、対立するだけの関係ではない。
花粉を運ぶ虫を守ることは、農業を守ることでもある。
外来マルハナバチと生態系
花粉交配用昆虫には、外来種の問題も関わっている。
農業では、効率的な受粉のためにマルハナバチが利用されてきた。
特にハウス栽培などで、トマトなどの受粉に役立ってきた。
しかし、外来のマルハナバチが野外へ逃げ出すと、在来のマルハナバチと競合したり、交雑や病気の問題を引き起こしたりする可能性がある。
農林水産省の説明によると、トマトなどの授粉に用いられてきたセイヨウオオマルハナバチは、外来生物法に基づき平成18年に特定外来生物に指定され、在来種であるクロマルハナバチなどへの代替利用が進められてきた。(農林水産省)
ここには、農業生産と生物多様性の難しい関係がある。
作物をつくるために必要な受粉。
そのために利用される昆虫。
しかし、その昆虫が外来種であれば、生態系への影響も考えなければならない。
便利さだけで生き物を移動させると、別の場所で問題が起きる。
前回の外来種の記事ともつながる視点である。
生き物は道具ではない。
生態系の一部である。
送粉者が減ると、自然の花も減る
花粉を運ぶ虫が減ると、困るのは農作物だけではない。
自然の植物にも影響する。
野山の花。
草地の植物。
林縁の低木。
湿地の花。
高山植物。
海岸植物。
多くの植物は、昆虫などの送粉者に花粉を運んでもらっている。
虫が減れば、実や種ができにくくなる植物がある。
植物が減れば、その植物を食べる虫や鳥も影響を受ける。
実を食べる動物も影響を受ける。
花粉を運ぶ虫は、植物と動物をつなぐ存在である。
花があり、虫が来る。
虫が花粉を運ぶ。
実ができる。
鳥や獣が実を食べる。
種が運ばれる。
次の植物が育つ。
この循環があるから、森や草地は世代をつなぐ。
受粉は、植物の繁殖だけでなく、生態系全体の更新に関わっている。
小さな虫の減少は、野山の風景を時間をかけて変えていく。
虫が減ると、鳥も減る
昆虫は、花粉を運ぶだけではない。
鳥や魚、カエル、トカゲ、コウモリなど、多くの生き物の食べ物でもある。
春から夏にかけて、多くの鳥は昆虫を食べて子育てをする。
カエルも、トンボも、クモも、昆虫を食べる。
川や池では、水生昆虫が魚の餌になる。
昆虫が減ることは、食物連鎖の土台が弱ることでもある。
花粉を運ぶ虫の危機は、農業だけでなく、生態系全体の危機とつながっている。
虫は小さい。
だから、減っても気づきにくい。
しかし、虫が少なくなれば、春の鳥の声が減り、草地の花が減り、畑の実りが減り、水辺の生き物も変わっていくかもしれない。
自然は、大きな動物だけで成り立っているのではない。
小さな虫たちが、命の網を支えている。
ミツバチの危機をどう見るか
ミツバチの減少は、しばしば大きなニュースになる。
巣箱の崩壊。
農薬の影響。
寄生ダニ。
病気。
気候変動。
餌不足。
高温。
ミツバチは、人間にとってわかりやすい存在である。
ハチミツをつくる。
農作物を受粉する。
巣箱で管理される。
数の変化が比較的把握しやすい。
しかし、ミツバチだけを見ていては、送粉者全体の危機は見えない。
野生のハチはどうか。
チョウはどうか。
ハナアブはどうか。
草地の花はどうか。
畑の周辺の環境はどうか。
農薬や気候変動はどう関わっているのか。
ミツバチは、危機を知らせる入口である。
けれど、本当に見なければならないのは、花と虫と人間の関係全体である。
都市にもできることがある
花粉を運ぶ虫を守るために、都市にもできることがある。
庭に花を植える。
ベランダで蜜源植物を育てる。
公園の一部を刈りすぎない。
街路樹の下に花が咲く余地を残す。
農薬を使いすぎない。
在来植物を増やす。
地域の緑地をつなぐ。
学校や公共施設にビオトープをつくる。
都市は、虫にとって厳しい場所である。
しかし、完全に生きられない場所ではない。
小さな花の点を増やす。
その点をつなぐ。
季節を通じて蜜や花粉が得られるようにする。
巣をつくれる場所を残す。
それだけでも、都市の生物多様性は少し変わる。
花粉を運ぶ虫を守ることは、遠い山や農村だけの話ではない。
都市の小さな庭、ベランダ、街路、公園にも関係している。
花を残すという環境保全
環境保全というと、大きな森を守ることや、絶滅危惧種を守ることを思い浮かべる。
もちろん、それは重要である。
しかし、花粉を運ぶ虫にとっては、身近な花を残すことも大切である。
畦道の花。
庭の花。
道端の小さな草花。
林縁の花。
果樹の花。
河川敷の草花。
公園の花壇。
里山の野草。
花がある場所には、虫が来る。
虫が来れば、鳥も来る。
植物は実をつける。
種ができる。
自然の関係が続く。
花を残すことは、景観づくりだけではない。
命の接点を残すことである。
一面の花畑でなくてもよい。
小さな花の連続が、虫たちの移動を支える。
自然環境問題は、大きなスケールで語られることが多い。
しかし、花粉を運ぶ虫の問題は、小さな花一つから始まる。
人工授粉は答えになるのか
送粉者が不足すると、人間が人工的に受粉を行うことがある。
筆や道具を使って花粉をつける。
機械を使う。
ハウス内で管理された昆虫を利用する。
将来的にはロボットによる受粉も研究されている。
技術は重要である。
農業を支えるために、人間が工夫することは必要である。
しかし、人工授粉があるから自然の送粉者がいなくなってもよい、という話ではない。
人工授粉には手間もコストもかかる。
すべての作物やすべての自然植物に適用できるわけではない。
野山の花や草地の植物まで、人間が一つひとつ受粉することはできない。
自然の送粉者は、無数の場所で、無数の花に対して、静かに働いている。
その働きをすべて人間が置き換えることはできない。
だからこそ、技術で補う前に、自然の働きを壊さないことが重要である。
花粉を運ぶ命をどう守るか
花粉を運ぶ虫を守るためには、いくつもの視点が必要である。
生息地を守る。
草地や里山を守る。
畑の周辺に花を残す。
農薬の使い方を見直す。
在来植物を増やす。
外来種の影響を抑える。
気候変動対策を進める。
ミツバチだけでなく、野生の送粉者も見る。
地域で昆虫を観察し、記録する。
農業、都市計画、庭づくり、学校教育、里山保全、気候変動対策。
それらは、花粉を運ぶ虫の未来とつながっている。
花粉媒介者を守ることは、単に虫を守ることではない。
食料を守ること。
花を守ること。
森や草地の更新を守ること。
鳥や動物の食べ物を守ること。
地域の季節感を守ること。
小さな虫を守ることは、大きな自然の関係を守ることにつながる。
花が咲いても、虫がいない世界
想像してみる。
春になり、花は咲く。
けれど、そこに虫の羽音がない。
果樹園に花が咲く。
けれど、ミツバチが来ない。
野原に花が広がる。
けれど、チョウが飛ばない。
畑に花が咲く。
けれど、実りが少ない。
それは、静かな世界である。
一見すると、美しいかもしれない。
花は咲いているからだ。
しかし、花と虫の関係が失われた世界では、季節の循環が弱っていく。
花は、虫を呼ぶ。
虫は、花をつなぐ。
実は、鳥や人を養う。
種は、次の世代へつながる。
その関係が切れたとき、自然は少しずつ単調になる。
花粉を運ぶ虫の減少は、目に見えにくい。
けれど、それは食卓、農業、野山の花、鳥の声、地域の景色にまでつながっている。
小さな羽音を聞くために
ミツバチが消える日。
それは、ハチミツが減る日だけではない。
果物の実りが不安定になる日。
畑の受粉が難しくなる日。
野山の花が種をつけにくくなる日。
鳥や動物の食べ物が減る日。
花と虫と人間の関係がほどける日。
花粉を運ぶ小さな命は、私たちの暮らしのすぐそばにいる。
けれど、その存在はあまりにも当たり前で、見過ごされてきた。
花が咲く。
虫が来る。
実がなる。
種ができる。
人が食べる。
この単純に見える循環は、決して自動的に続くものではない。
花のある風景を残すこと。
虫が生きられる場所を残すこと。
農業と生物多様性をつなぐこと。
都市にも小さな緑を増やすこと。
気候変動を抑えること。
それらはすべて、小さな羽音を未来へ残すための行動である。
私たちは、虫を小さな存在として見てきた。
しかし、自然の仕組みの中で、その役割は決して小さくない。
花粉を運ぶ命が減るとき、
食卓と野山の未来もまた、静かに揺れ始める。
引用・参考
農林水産省「花粉交配用昆虫について」
https://www.maff.go.jp/j/chikusan/gijutu/mitubati/
IPBES「The Assessment Report on Pollinators, Pollination and Food Production」
https://files.ipbes.net/ipbes-web-prod-public-files/downloads/pdf/2017_pollination_full_report_book_v12_pages.pdf
IPBES「Assessment Report on Pollinators, Pollination and Food Production」
https://www.ipbes.net/resource-file/7316
FAO「Assessment | Global Action on Pollination Services for Sustainable Agriculture」
https://www.fao.org/pollination/resources/assessment/
花粉を運ぶ虫たちは、花と花をつなぎ、実りを生み、私たちの食卓や野山の生態系を静かに支えています。
けれど、生息地の減少、農薬、気候変動、花の少ない風景によって、その小さな命の働きは揺らぎ始めています。
これからも、美しい風景の裏側にある自然環境の変化を掘り下げていきます。
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