NEOTERRAINの書籍・Tシャツ・トートバッグを公開中

成瀬茉倫さんと田向美春さんがシマ唄で世界へ運ぶ土地の記憶

成瀬茉倫さん、田向美春さんら奄美の島唄奏者の集合写真。「好きだから唄う。その声が、奄美を世界へ運んでいく。」の文字
島唄で奄美を世界へ|奄美の島唄奏者の集合写真

取材・文 三宅雅之

近代的なビルが並び、国内外から大勢の人が行き交う渋谷。その人波を抜けて路地へ入り、雑居ビルの五階まで上がると、奄美群島の黒糖焼酎と島料理を味わえる店「sima sima」がある。

店内には三味線が置かれ、誰かが唄い始めれば、自然に手拍子が生まれる。やがて人が立ち上がり、踊りの輪が広がっていく。ここでは、奄美を知識として学ぶより先に、味わい、聴き、人と話すことで、その空気に触れることができる。

この場所で、奄美大島で育った唄者であり研究者の成瀬茉倫さんと、喜界島出身でsima simaを営む唄者の田向美春さんに話を聞いた。

二人は三味線を携え、ニューヨーク、ジャカルタ、ロンドン、オックスフォード、パリなどでシマ唄を届けてきた。活動の形は異なる。茉倫さんは唄と研究を往復し、美春さんは人が出会う場を育てている。それでも、二人の行動の底には同じ感情が流れていた。

なぜ、そこまで故郷を愛せるのか。奄美という土地は、人の中に何を残し、遠く離れた世界へ向かわせるのか。

Contents

島を離れて初めて見えたもの

茉倫さんにとって、奄美は「心の拠り所」であり、「家」だという。幼い頃に奄美大島へ移り住み、海の近くで育った。子どもの頃の島を思い浮かべたとき、最初によみがえるのは潮の匂いだった。

島では、知らない人とすれ違っても挨拶をする。東京へ出てきたばかりの頃、街ですれ違う人が誰も挨拶をしないことに戸惑ったという。それは小さな違いに見えて、人と人との距離や、共同体のあり方の違いを映している。

さらに大きかったのが、進学をめぐる環境の差だった。奄美にいた頃には見えなかった選択肢が、東京にはいくつもあった。島では取り寄せなければ手に入らなかった参考書が、東京の書店には当たり前のように並んでいる。進学方法の情報も多い。

茉倫さんはそのとき、「知らなかったために、競争の土台にも立てていなかった」と感じた。受けて落ちたのであれば、まだ納得できる。けれど、選択肢の存在を知らなければ、挑戦することさえできない。その悔しさから、島で育ったことを嘆いた時期もあったという。

しかし、島を離れたからこそ、島にしかなかったものも見えてきた。自然の美しさだけではない。人の温かさ、集落の行事、先祖から受け継いだ習慣、そして暮らしの中にあったシマ唄。東京で選択肢の多さを知る一方、自分を形づくっていた文化の厚みにも気づいていった。

奄美への思いと島唄を世界へ伝える活動について語る成瀬茉倫さん
唄と踊りがひとつになる夜
渋谷に響く奄美の島唄|成瀬茉倫さん×田向美春さん

好きという気持ちが少しずつ使命になる

茉倫さんがシマ唄を始めたのは、小学三年生の頃だった。母親が通っていた公民館講座について行き、身近にあった唄と三味線に触れた。最初から文化を背負おうと考えていたわけではない。大会で良い成績を取りたい。人前で唄い、地域の大人に褒めてもらうとうれしい。始まりは、子どもらしい素直な喜びだった。

長く唄い続けるうちに、その感情は少しずつ変わった。

「奄美の良さを伝えようと思ったのは、好きだからというのが一番大きいと思います」

過去から受け継がれてきた唄を何度も身体に通していると、自分が島の記憶につながっている感覚が生まれる。ある日突然、強い使命感に目覚めたのではない。好きで続けてきた時間の中で、伝えたいという思いが徐々に膨らんでいった。

活動が理解されず、心が折れそうになったこともある。それでも続けられたのは、やはり好きだったからだ。そして、母親や島の年長者をはじめ、周囲の人たちが支えてくれたからだった。

ただし、茉倫さんは自分が「奄美を背負っている」と大きく構えることはしない。

「そんなに背負えるものではないと思います。歌も研究も、楽しくてやっているので。それが結果として貢献につながったらいいなと思っています」

この自然な距離感に、彼女の強さがあるように感じた。郷土愛を義務に変えず、好きなことを深く続ける。その積み重ねが、結果として島の文化を遠くまで運んでいる。

ニューヨーク、伝統衣装をまとい三線を手にする成瀬茉倫さん
奄美の海を見つめて|成瀬茉倫さんの原点

土地の歴史を土地の人が書く

茉倫さんは現在、オックスフォード大学でシマ唄における女性の歴史を研究している。唄者として身体で知っている文化を、研究者として読み直し、英語で世界へ届けようとしている。

シマ唄は、歌詞だけを読んでも十分には理解できない。唄が生まれた時代、集落での暮らし、人々の関係、奄美がたどった歴史を知らなければ、言葉の奥にある感情までは見えてこない。だから茉倫さんは、唄の背景から書こうとする。

研究によって、シマ唄のすべてを言葉にできるわけではない。人と人が掛け合い、その場の呼吸で唄が変わっていく臨場感を、文章だけで再現することは難しい。それでも、彼女は「不可能だからこそ書きたい」と話した。書き、批判を受け、また考え直す。その終わりのない試行錯誤を、学問として引き受けようとしている。

そして、英語で書くことにも意味があるという。奄美について海外の研究者が英語で書けば、日本語の論文を読めない人にとって、それが唯一の理解になることがある。外からの視点は必要だ。しかし、当事者の視点が欠けたまま、土地の像が決まってしまうことには危うさもある。

「土地のことは、土地の人が書くべきだと思います」

静かな口調だったが、その言葉には芯があった。奄美がアイヌや沖縄のように少数文化をめぐる議論の中で語られる機会さえ少なく、社会の視野から外れてきたという問題意識がある。唄うことと書くことは、彼女の中で別々の活動ではない。どちらも、見えにくかった奄美の歴史に輪郭を与える行為なのだ。

オックスフォードで伝える奄美の「シマ」|成瀬茉倫さん

オックスフォードに奄美を持っていく

オックスフォード大学では、奄美とシマ唄の歴史を説明する研究発表に、百人近い参加者が集まったという。研究を一方的に聞いてもらうだけではなく、唄を聴き、声を返し、身体で文化に触れてもらう参加型の場をつくった。

シマ唄には、唄い手と聴き手の間で声を交わす掛け合いがある。海外で参加者がその返し方を覚え、茉倫さんの声に応える。その瞬間、言葉の意味をすべて理解していなくても、人と人はつながる。

ニューヨークでは、現地のアートや音楽に触れながら、海外に暮らす奄美出身者のコミュニティに関心を持つようになった。ロサンゼルスやサンパウロでは、島を離れて暮らす人々の前で唄った。ジャカルタでは、元残留日本兵の子孫を含む人々にシマ唄を届け、久しぶりに故郷の唄を聴いた参加者が涙を流した。その出会いは、現地での奄美会結成にもつながっていった。

以前、NEOTERRAIN Journalでは、simasimaの欧州遠征を「文化の循環」という視点から紹介した。今回、遠征を終えた二人の話を聞き、その循環が理念ではなく、目の前の人の反応から生まれていることが分かった。唄を届ける。誰かが受け取る。その人が別の誰かとつながり、新しい場が生まれる。文化は、その繰り返しの中で動いている。

美春さんが渋谷につくった帰れる場所

美春さんへのインタビューは、交流会が始まる前の短い時間だった。それでも、彼女がどのように人と場所をつないできたのかは、店内の空気と短い言葉から十分に伝わってきた。

海外で唄うようになったきっかけは、2011年に三カ月間滞在したロンドンだった。以前の海外滞在で、自分の国や故郷について十分に話せなかった経験があり、次に行くときは三味線を持ち、奄美について説明できるようにしておこうと考えた。奄美を発信するためだけに渡航したわけではない。外へ出たことで、自分の故郷が人とつながる入口になった。

帰国後、美春さんは渋谷にあった奄美の店を手伝い、唄う人たちが集まる場所に関わってきた。その思いを引き継ぎ、2025年3月にsima simaを開いた。

sima simaは、奄美料理と黒糖焼酎を提供する店であると同時に、島を離れた人が唄える場所でもある。年齢も出身の島も違い、以前は接点のなかった唄者たちが、ここで出会う。出演の情報を交換し、互いの経験を話し、次の活動へつながっていく。奄美を知らなかった客が常連になり、やがて島へ行ってみたいと話すこともある。

文化の拠点なのか、人のつながりの場なのかと尋ねると、美春さんはまず「人がつながる場所」と答えた。結果として、そこが文化の拠点にもなっている。

美春さんは、故郷を愛することを、必ずしも島へ戻ることだけで考えていない。

「それぞれ、いる場所でできることがあると思っています。どこにいても、どこからでも、自分にやれることがある」

喜界島へ永住することは今のところ考えていない。それでも、進路や仕事を選ぶときには、いつも「どうすれば島とつながれるか」を考えてきたという。渋谷で店を営み、ロンドンへ唄を届けることも、彼女なりの故郷との関わり方なのだ。

奄美の島唄と文化を海外へ伝える活動について語る田向美春さん
人の輪に響く奄美の島唄|渋谷での交流会
オーストラリア先住民と三線や太鼓、ディジュリドゥで共演する文化交流会

変わりながら残る文化

美春さんは、オックスフォードで茉倫さんの発表を聞き、シマ唄を見る視点が広がったと話した。

かつてシマ唄は、集落の暮らしや遊びの中にあった。現在は大会に向けて練習し、技術を磨き、人に聴かせる唄として受け継がれる側面も強くなっている。それは昔の形とは違う。しかし、美春さんは、変わった姿もまた文化として捉えられるのだと気づいたという。

「伝統文化を守ることも大事ですが、どんな形でも伝えることも大事だと思います。形や楽しみ方が変わっても、それをつないでいける新しい文化ができたら面白い」

sima simaで生まれる唄と踊りも、海外で交わされる声も、昔とまったく同じではない。それでも、そこに土地の記憶と人のつながりが残っていれば、文化は途切れたのではなく、新しい場所で生き始めたと考えることができる。

唄と踊りでつながる奄美の文化|島唄交流会

私が奄美で見た暮らし

私自身も、四年ほど前に奄美大島を訪れた。詳しい計画を立てずに島へ入り、国産バニラの栽培に挑む林晋太郎さんと三日間行動をともにした。車で移動し、畑を見て、島の人と話した。

朝から畑で働き、夕方になると人が集まる。黒糖焼酎を酌み交わし、唄い、踊り、翌朝には鶏飯を食べる。実際の暮らしはもちろん、そんな単純な一日だけでは語れない。それでも私の中には、仕事と酒と唄が別々に存在するのではなく、同じ生活の時間の中にあるという感覚が残った。

後に林さんのバニラ栽培を取材したときも、香りをつくっているのは植物だけではないと感じた。潮を含む空気、太陽、湿度、土の微生物、人の手間。土地を構成する複数の要素が重なり、最後に一つの香りとして立ち上がる。

シマ唄も、似ているのかもしれない。声だけで生まれるのではない。土地の歴史、集落の記憶、人と人との距離、日々の暮らしが重なり、唄になる。

観光地を巡るだけでは見えないものがある。その土地で暮らす人と時間を過ごし、同じものを食べ、同じ場で唄を聴く。そこで初めて、風景の奥にある土地の感情に触れられる。

奄美の土地が育むもの|畑・集落・海の風景

奄美はなぜ人を動かすのか

取材を通じて、二人から何度も伝わってきたのは、「とにかく奄美が好きだ」という、ごく率直な感情だった。

茉倫さんは、奄美を「家」と呼ぶ。島へ戻れば安心する。だからこそ、足腰が動くうちは外を飛び回り、海外から奄美にできることをしたいと考える。

美春さんは、喜界島へ戻らなくても、渋谷に人が集う場所をつくり、海外で唄うことで島とつながり続けている。

二人を動かしているのは、郷土を背負うという重い義務だけではない。好きだから唄う。楽しいから人と出会う。伝わった瞬間がうれしいから、また次の場所へ行く。その自然な行動が積み重なり、結果として奄美の文化を未来へ運んでいる。

島唄、三味線、研究、海外公演、simasima。目に見える活動の奥には、二人が島で受け取った人の温かさや、潮の匂い、集落の記憶がある。土地から受け取ったものが人の中でエネルギーに変わり、行動となり、物語となって、また別の土地の誰かへ届いていく。

奄美は、ただ帰る場所ではない。

離れていても、人の中に残り、その人を動かし続ける場所なのだ。

島唄が世界をつなぐ|成瀬茉倫・田向美春の国際文化交流
成瀬茉倫×田向美春|島唄で世界へ運ぶ奄美の記憶

取材協力

  • 成瀬茉倫さん 奄美大島の唄者 研究者
  • 田向美春さん 喜界島出身の唄者 simasimaオーナー
  • 取材地 渋谷 simasima

関連記事と参考資料

この記事が響いたら、シェアしていただけると嬉しいです。
  • URLをコピーしました!
Contents