私たちが普段見ている相模湾は、青い水面と波のきらめき、遠くに浮かぶ江の島や三浦半島の輪郭によって記憶されている。
けれど、その水面の下には、かつて豊かな「海の森」が広がっていた。
カジメ、アラメ、アマモ。
海藻や海草がつくる藻場は、魚や貝のすみかであり、産卵や稚魚の成長を支える場所であり、アワビやサザエの餌場でもある。
しかし、相模湾の海の底で、その森が失われつつある。
磯焼け。
それは、海藻が消え、岩肌がむき出しになり、生きもののゆりかごが痩せていく現象である。
海は、表面だけを見ていると変わらないように見える。
けれど、海の中では、風景そのものが静かに変わっている。
磯焼けとは何か
磯焼けとは、沿岸の岩場などに生えていた海藻が大きく減少し、藻場が失われる現象を指す。
藻場は、海の生態系にとって重要な場所だ。魚が身を隠し、卵を産み、小さな生きものが育つ。海藻を食べる生物にとっては餌場であり、漁業にとっても水産資源を支える土台である。
つまり藻場は、単なる海藻の集まりではない。
海の中にある、暮らしのインフラである。
その藻場が失われると、魚や貝が減り、漁業に影響が出る。海の生物多様性も低下する。さらに、海藻や海草が担っていた炭素の吸収や固定の機能も弱まっていく。
海の森が消えることは、漁業、環境、気候変動、地域経済が同時に揺らぐことでもある。
相模湾で何が起きているのか
横須賀市によると、相模湾沿岸では平成24年ごろから磯焼けが顕著になっている。
横須賀西部水産振興事業団の調査では、平成18年から令和4年の間に、岩礁藻場は98.5%、アマモ場は95%減少したとされている。
数字だけを見ると、あまりに大きい。
けれど、これは水面の下で起きているため、日常の風景からは気づきにくい。
海水浴場に人が集まり、観光客が海を眺め、サーファーが波を待つ。その表面の美しさとは別に、海の底では生態系の土台が変化している。
相模湾の磯焼けは、単なる自然現象として片づけられるものではない。
海水温の上昇、台風などによる海藻の流失、ウニやアイゴなどによる食害、海洋環境の変化。複数の要因が重なりながら、海の森は失われていく。
そして、その影響は海の中だけにとどまらない。
魚のゆりかごが消えるということ
藻場は、魚たちのゆりかごとも言われる。
海藻の間には、小さな魚や甲殻類、貝類などが身を隠す。外敵から逃れ、餌を得て、成長するための場所になる。
もし藻場が消えれば、そこをすみかとしていた生きものたちは居場所を失う。
それは、漁業資源の減少にもつながる。
横須賀市も、磯焼けによって海藻を餌や隠れ家として利用していた水産資源が大きく減少し、漁獲量にも打撃を与えていると説明している。
つまり磯焼けは、環境問題であると同時に、地域経済の問題でもある。
海の森が失われると、漁師の仕事も変わる。水揚げされる魚や貝の種類も変わる。食卓に届く海の恵みも変わっていく。
相模湾の磯焼けは、遠い海底の話ではない。
私たちの食文化や、地域の産業の足元にある問題なのだ。
ブルーカーボンという希望
いま、海の森は新しい意味を持ち始めている。
ブルーカーボン。
海藻や海草、干潟、マングローブなど、海の生態系によって吸収や固定される炭素のことを指す。
これまで気候変動対策というと、森を守る、木を植える、再生可能エネルギーを増やす、といった陸上の取り組みが注目されてきた。
しかし、海の中にも炭素を吸収する場がある。
藻場を再生することは、魚や貝のすみかを取り戻すだけではない。海の生物多様性を回復させ、漁業を支え、同時に気候変動対策にもつながる可能性がある。
だから、磯焼け対策は「海藻を増やす活動」だけではない。
海の生態系を再生し、地域の漁業を守り、脱炭素の時代における新しい地域資源をつくる取り組みでもある。
三浦半島4市1町の連携
この課題に対して、三浦半島では自治体を越えた取り組みが始まっている。
横須賀市、鎌倉市、逗子市、三浦市、葉山町の4市1町は、磯焼けや二酸化炭素排出量の削減という共通課題を解決するため、ブルーカーボンの取り組みで連携を進めている。
これは、とても重要な視点だ。
海は行政区分で区切れない。
魚は市境を知らない。海藻も市境を知らない。潮の流れも、人間が決めた境界線とは別のルールで動いている。
だから、海の課題は、自治体単独では解ききれない。
三浦半島4市1町の連携は、海を「地域ごとの所有物」ではなく、「共有する生態系」として捉え直す試みでもある。
相模湾のブルーカーボンは、環境政策であると同時に、地域連携のデザインでもある。
早熟性カジメという発見
神奈川県水産技術センターでは、相模湾の藻場再生に向けた研究も進められている。
注目されているのが、「早熟性カジメ」だ。
通常のカジメは、幼葉の発芽から成熟して次世代を残すまでに1年半ほどかかる。しかし、食害が激しい海域では、成熟する前に食べられてしまう可能性がある。
神奈川県水産技術センターは、平成27年度に相模湾で行った磯焼けの実態調査の際、半年程度で成熟する早熟性カジメを発見した。
早く成熟できれば、ウニやアイゴなどに食べられる前に次世代を残せる可能性がある。
これは、磯焼けが進む海で藻場を再生するための、小さくも大きな希望である。
水産技術センターでは、この早熟性カジメを人工的に培養し、苗を生産する技術開発にも取り組んできた。
海の森を取り戻すために、研究者は海藻の時間を見つめている。
藻場再生とは、海にただ苗を入れるだけではない。
海藻の生き方と、海の変化を読み解く仕事でもある。
漁業者が海に潜る理由
磯焼け対策には、現場の人たちの地道な作業も欠かせない。
横須賀市では、漁業者が自ら海に潜り、ウニ類やアイゴなどの食害生物の駆除を行っている。市は、こうした活動に対して助成も行っている。
これは、派手な取り組みではない。
けれど、海の森を取り戻すには、こうした現場の作業が必要になる。
ウニや魚が海藻を食べすぎれば、せっかく植えた海藻も育たない。藻場を再生するには、海藻を植えるだけでなく、食べられすぎない環境を整える必要がある。
海を守る仕事は、見えにくい。
水面の上からは、漁業者が海の底で何をしているのか分からない。
しかし、その見えない作業の積み重ねが、海の生態系を支えている。
企業も参加する海の再生
藻場再生には、企業の支援も入り始めている。
神奈川県では、企業からの寄附金を活用して、藻場の再生とブルーカーボンの創出に取り組む事例が生まれている。
三浦市では、日本テレビ放送網株式会社からの企業版ふるさと納税を活用し、城ヶ島でアマモ、諸磯でカジメの藻場再生活動に取り組んでいる。
これは、企業が単に環境活動に寄付するという話にとどまらない。
地域の海を再生することが、生物多様性、漁業、教育、脱炭素、地域ブランドに関わってくる時代になっている。
企業にとっても、ブルーカーボンは単なるCSRではなく、地域とともに未来の環境価値をつくる入り口になり得る。
海の森は、地域だけで守るものではなくなっている。
行政、研究機関、漁業者、企業、市民が、それぞれの立場から関わる共創の場になりつつある。
子どもたちが海藻を植える意味
三浦半島では、アマモの植え付け体験など、市民や子どもたちが海の再生に触れる取り組みも行われている。
これは、単なる環境イベントではない。
海の中で何が起きているのかを、身体で理解する入り口になる。
海藻を植える。漁師の話を聞く。魚に触れる。藻場の役割を知る。
そうした体験を通じて、海は「眺めるもの」から「支えるもの」へと変わる。
相模湾を守るには、専門家だけでなく、地域の人たちが海の変化に気づく必要がある。
子どもたちが海藻を植える姿は、未来の海をつくる小さな行為であり、同時に、地域の記憶を次の世代へ渡す行為でもある。
海の森は、社会課題を越境する
磯焼けは、ひとつの分野だけでは語れない。
環境問題であり、漁業問題であり、気候変動対策であり、地域経済の課題であり、教育のテーマでもある。
海藻が消えると、生きもののすみかが消える。
生きものが減れば、漁業が揺らぐ。
藻場が減れば、ブルーカーボンの可能性も小さくなる。
漁業が弱れば、地域の食文化や観光資源にも影響する。
だから、相模湾の磯焼けは、海の中だけの出来事ではない。
海と陸、自然と経済、研究と暮らし、行政と企業、市民と未来世代をつなぐ社会課題である。
NEOTERRAIN Journalがこのテーマを取り上げる意味も、そこにある。
海の森をどう再生するか。
それは、地域の未来をどう再生するかという問いでもある。
おわりに
相模湾の海は、美しい。
けれど、その美しさの下で、海の森は静かに失われてきた。
磯焼けは、見えにくい社会課題である。
水面の上からは分からない。観光写真にも写らない。けれど、海の底では、生態系の土台が変わっている。
そして今、その変化に向き合う人たちがいる。
研究者が早熟性カジメを育て、漁業者が海に潜り、自治体が連携し、企業が支援し、市民や子どもたちが海藻を植える。
海の森を取り戻すことは、海を元に戻すことではない。
変わってしまった海と、もう一度関係を結び直すことだ。
相模湾の変化を、これからも少しずつ追いかけていきます。気になった方は、ぜひブックマークしておいてください。

