京都を訪れる人の多くは、京都駅から北へ向かう。
東山、祇園、御所、西陣、嵐山。そこには寺社や町家、庭園、伝統工芸といった、歴史都市としての京都が広がっている。
しかし、京都駅から南へ目を向けると、都市の表情は大きく変わる。
南区、伏見区、久御山町、宇治市、長岡京市。鉄道、幹線道路、高速道路が交わるこの地域には、工場、研究施設、物流拠点、企業の本社が集まっている。
任天堂、京セラ、村田製作所をはじめ、京都から世界市場へ進出した企業の多くが、この南部地域に本社や重要拠点を置いてきた。
観光都市の京都と、ものづくり都市の京都。
一見すると別々に見える二つの姿は、実は同じ土地の条件から生まれている。
京都の先端産業は、伝統を捨てて生まれたのではない。
都が育てた分業、精度、素材への執着が、時代に合わせて新しい産業へ姿を変えたのである。
京都駅を境に変わる都市の役割
京都市の中心部には、御所、寺社、町家、商業地、大学などが高密度に集積している。
長い歴史の中で形成された街区が残り、文化財や景観を守る必要があるため、大規模な工場や物流施設を新たに設けられる土地は限られる。
一方、京都駅から南側には、比較的まとまった平地が広がっている。
この地域は古くから、京都と大阪を結ぶ交通の通り道だった。
桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となり、伏見から大阪へと水運が延びる。近代以降は、東海道本線、近鉄京都線、京阪本線、国道1号、名神高速道路などが整備され、人と物資の流れが重なっていった。
京都市中心部が政治、文化、消費の空間だったとすれば、南部は生産、輸送、研究開発を受け持つ空間になった。
京都市南区も、この地域を伝統産業からハイテク産業までが集積する「ものづくり都市・京都」を代表する地域と位置づけている。南区基本計画|京都市
都市の北側に歴史と文化が蓄積され、南側に産業と物流が伸びていく。
現在の京都は、この役割分担によって成り立っている。
都の需要が、細かな分業を生んだ
京都のものづくりを理解するには、平安京以来の都市構造までさかのぼる必要がある。
天皇、貴族、寺社、武家が集まる都では、衣服、調度品、祭礼用品、仏具、陶磁器、漆器、紙、酒、菓子など、多様な商品が求められた。
しかも、都で使われるものには、機能だけでなく、格式や美しさが要求された。
一人の職人がすべてを完成させるのではなく、素材を選ぶ人、加工する人、染める人、織る人、磨く人、絵を描く人、組み立てる人が工程を分担する。
西陣織や京友禅、京焼・清水焼などに見られる細かな分業は、高度な注文に応えるための都市システムだった。
ここで重要なのは、京都の職人が完成品だけをつくっていたのではないということである。
それぞれの職人は、完成品を構成する一つの工程、一つの素材、一つの技術を極めた。
この「特定の領域を深く掘り下げる」という生産文化は、電子部品、センサー、精密機器、ファインセラミックスなど、現代の京都企業にも通じる。
伝統工芸と先端産業の間に、単純な技術的継承があるわけではない。
しかし、分業、精度、素材研究、品質管理、長期的な取引関係という産業の考え方には、共通する部分がある。
限られた土地が「小さくて価値の高いもの」を育てた
京都盆地では、利用できる土地に限りがある。
広大な土地、大量の水、大型港湾を必要とする重化学工業には、必ずしも適した場所ではない。
その一方で、小さな工場や研究施設から始められ、製品の大きさに対して高い価値を持つ産業とは相性がよい。
精密部品、電子部品、計測装置、医療機器、ゲームソフト、知的財産。
これらは、鉄や石油のような大量資源を運び込むよりも、知識、技術、研究、人材を集めることで競争力を高める産業である。
土地を大量に使えないという制約が、京都企業を高付加価値化へ向かわせたと断定することはできない。
それでも、京都を代表する企業に、巨大な完成品よりも、素材、部品、制御、計測、コンテンツといった分野が多いことは偶然ではないだろう。
京都では、規模の大きさよりも、他社が簡単に代替できない技術を持つことが重要だった。
それは伝統工芸の職人にも、現代の研究開発型企業にも共通する生存戦略である。
花札から世界的エンターテインメント企業へ
任天堂の歴史は、1889年に京都市下京区で花札の製造を始めたことから始まる。
花札からトランプへ、玩具から業務用ゲーム機へ、そして家庭用ゲーム機やソフトウェアへ。
取り扱う商品は大きく変化したが、「人を楽しませる仕組みをつくる」という事業の核は受け継がれてきた。
2000年には、本社を京都市南区上鳥羽へ移転。現在は京都駅南側に本社と開発拠点を構えている。
任天堂の歩みは、京都企業の変化の仕方を象徴している。
過去の商品を守り続けるのではなく、蓄積してきた技術や感覚を、新しい市場に合わせて再編集する。
京都における伝統とは、同じものを繰り返すことではない。
変わり続けた結果として残ったものなのである。任天堂・会社の沿革
陶磁器の技術から、ファインセラミックスへ
京セラは1959年、京都市で社員28人の京都セラミック株式会社として創業した。
創業時から扱っていたのは、電子機器に使われるファインセラミックスだった。
茶碗や器をつくる伝統的な陶磁器と、電子部品に使われるセラミックスは、製品も製造方法も異なる。
しかし、原料を配合し、成形し、焼成し、性質を制御するという意味では、京都が長く向き合ってきた「素材と火」の延長線上にある。
京セラは、セラミック部品から半導体関連部品、電子部品、通信、エネルギーなどへ事業領域を広げ、世界企業へ成長した。
現在のグローバル本社は京都市伏見区竹田にある。
世界へ事業を広げながら、意思決定の中心を京都に置く。
その立地は、京都駅、名神高速道路、国道1号などへ接続しやすく、京都市中心部と大阪方面の両方へ動ける場所でもある。京セラ・会社沿革
小さな町工場から、世界の電子部品へ
村田製作所は1944年、京都市中京区に設けられた約150平方メートルの小さな工場から始まった。
創業時につくっていたのは、ラジオに使われる酸化チタン製のセラミックコンデンサだった。
戦後、ラジオ、テレビ、携帯電話、スマートフォンへと通信機器が変化するなかで、村田製作所はセラミック材料と電子部品の技術を深めていった。
完成品のブランドが変わっても、その内部では、電気を制御する小さな部品が必要になる。
表からは見えない。しかし、なければ製品が動かない。
この「小さく、見えにくく、代替しにくい領域」に集中したことが、村田製作所の強さになった。
本社機能は京都市内から山科を経て、1961年に京都南部の長岡京市へ移った。
ここでも、京都中心部から大阪方面へ伸びる南西方向の産業軸が見えてくる。村田製作所の歴史
京都企業に共通する「狭く深く」という戦略
任天堂、京セラ、村田製作所は、事業内容も創業時期も異なる。
それでも、三社にはいくつかの共通点がある。
第一に、最初から巨大市場の中心を狙ったのではなく、花札、特殊セラミックス、コンデンサといった限定された領域から始まっている。
第二に、自社の得意分野を深く掘り下げ、他社が簡単にまねできない技術や経験を蓄積している。
第三に、既存の商品が衰退する前に、自社の核を別の用途へ展開している。
そして第四に、世界市場へ進出した後も、京都または京都南部に本社や中核機能を残している。
京都企業の強さは、流行を追って事業を大きくすることではない。
狭い領域を深く掘り、その技術が必要とされる世界市場を見つけることにある。
これは、特定の工程を極めてきた京都の職人文化とよく似ている。
京都の見えない産業都市「らくなん進都」
京都市は、南区から伏見区にかけての産業集積地区を「らくなん進都」と名づけ、ものづくり企業の本社、工場、研究開発機能の集積を進めている。
対象となるのは、油小路通を中心に、北は十条通、南は宇治川、東は東高瀬川、西は国道1号に囲まれた南北に細長い約607ヘクタールの地域である。
この区域は、京都駅から近く、名神高速道路の京都南インターチェンジ、京滋バイパス、国道1号にも接続しやすい。
歴史的景観が集まる市内中心部では確保しにくい、オフィス、研究所、工場の用地を受け持つことが期待されている。
さらに南側の伏見・横大路地区では、土地区画整理によって、京都市内では希少なまとまった産業用地の創出も進められている。京都の主要ビジネスエリア|京都市
観光客の視線からは見えにくいが、京都の経済を動かしている重要な地域である。
京都駅の北側が、蓄積された文化を見せる場所だとすれば、南側は、京都の技術を次の産業へ変換する場所だといえる。
大学は、京都にとって知識を生産する工場である
京都の産業を支えているのは、企業だけではない。
京都大学、京都工芸繊維大学、同志社大学、立命館大学をはじめ、多くの大学や研究機関が集まっている。
製造業にとって大学は、人材を供給する場所であると同時に、新しい材料、生命科学、情報通信、環境技術などを生み出す研究拠点でもある。
京都工芸繊維大学は、工芸や繊維という歴史を持ちながら、現在では材料、ナノテクノロジー、情報通信、ライフサイエンスなどの研究を行い、地域企業との共同研究や技術相談を進めている。京都工芸繊維大学の産学公連携
「工芸」と「先端技術」が同じ大学の中に存在すること自体が、京都の産業構造を象徴している。
京都では、文化と科学は別々の世界ではない。
素材を理解し、機能を高め、使い方を考え、美しい形にするという一連の行為のなかで結びついている。
大阪に近く、東京から遠いという立地
京都南部は、大阪の巨大な市場や交通網に近い。
その一方で、大阪の中心部に完全に組み込まれているわけではない。
この距離感は、京都企業にとって重要だったと考えられる。
大阪から金融、商流、人材、物流の力を利用しながら、京都では独自の技術や企業文化を育てることができる。
さらに東海道新幹線によって東京と結ばれ、名神高速道路を通じて中京圏にもアクセスできる。
京都南部は、京都、大阪、滋賀、奈良の間に位置し、研究開発と広域物流の両方を成立させやすい。
京都府も、京都市南部から乙訓、山城、けいはんな学研都市へ続く地域を「京都府南部イノベーションベルト」と捉え、産業、大学、研究機関、高速道路網を結びつけようとしている。山城地域振興計画|京都府
京都の産業軸は、京都市の中だけで完結するものではない。
長岡京、宇治、久御山、京田辺、精華町へと、南へ帯状に広がり始めている。
成功した産業集積が抱える弱点
京都の産業には、弱点もある。
盆地の中では土地が限られ、工場や研究施設を拡張できる場所は少ない。
住宅、農地、工場が近接する南部では、交通、騒音、景観、土地利用の調整も必要になる。
企業が成長して生産規模を拡大すると、府外や海外に工場を置かざるを得ない。その結果、本社や研究開発は京都に残っても、生産現場との距離が広がる可能性がある。
また、大企業だけが成長しても、地域の産業は維持できない。
試作、加工、金型、表面処理、装置保守などを担う中小企業や、熟練技術者が失われれば、京都のものづくりを支える分業ネットワークそのものが弱くなる。
京都の伝統産業が後継者不足に直面しているように、先端産業でも技術や技能を次世代へ渡す仕組みが必要になる。
これからの課題は、世界企業を何社持っているかではない。
その企業を生み出した地域の生態系を、維持できるかどうかである。
京都の未来は「北で見せ、南でつくる」だけではない
これまで京都市では、北部と中心部が文化、観光、大学を担い、南部が工業、物流、研究開発を担ってきた。
しかし、役割を完全に分離するだけでは、新しい価値は生まれにくい。
文化財の保存技術を新素材へ応用する。
織物の構造を工業製品へ生かす。
ゲームや映像によって歴史文化を再編集する。
大学の研究成果を、南部の企業が製品化する。
京都が次に目指すべきなのは、伝統と先端、北と南、文化と産業を、もう一度つなぎ直すことである。
京都府も、伝統的な素材、技術、意匠を先端技術と融合し、新たなものづくりへ発展させる方針を条例に掲げている。京都府伝統と文化のものづくり産業振興条例
京都の未来は、歴史を保存することと、産業を成長させることのどちらかを選ぶことではない。
歴史の中に蓄積された技術や思想を、現代の課題へ接続することにある。
観光都市の南側に、京都の成長エンジンがある
京都の世界的な知名度を支えているのは、寺社、庭園、祭礼、工芸などの文化資産である。
しかし、その都市を経済的に支えているのは、観光だけではない。
京都駅の南側には、工場、研究所、本社、物流拠点が並び、さらにその先には長岡京、宇治、久御山、けいはんな学研都市へ続く産業の帯が伸びている。
京都の先端産業は、歴史都市とは無関係な場所から突然生まれたのではない。
都の需要が分業を生み、職人が素材と工程を磨き、限られた土地が高付加価値化を促し、大学が知識と人材を供給してきた。
その蓄積が、電子部品、精密機器、ファインセラミックス、ゲームといった現代産業へ姿を変えた。
京都の強さは、古いものを残していることだけではない。
古い技術や思想の中から、次の産業に使える核を見つけ出す力にある。
観光客が北へ向かう京都駅の南側で、もう一つの京都は、今も静かに世界とつながっている。

