岐阜県の地図を見れば、北部の飛騨と南部の美濃は、最初からひとつの県になる運命だったように見える。
県境という一本の線で囲まれ、県庁所在地は岐阜市に置かれ、私たちはその全体を「岐阜県」と呼んでいる。
しかし、地形から見れば、この二つの地域がひとつにまとまっていることは決して自然ではない。
飛騨には高い山々と深い谷が連なり、川は南だけでなく北の富山湾側へも流れる。美濃は濃尾平野に開き、名古屋、近江、木曽方面へ街道が伸びている。
暮らしの向きも、水の流れも、外部との結びつきも異なってきた。
では、飛騨と美濃は、なぜ同じ岐阜県になったのだろうか。
その答えは、単なる廃藩置県の結果ではない。
県境が先に引かれ、交通と制度が後から二つの地域を結び続けてきた歴史にある。
飛騨が岐阜県になると聞き、人々は驚いた
現在の岐阜県の原型が成立したのは、1876年である。
それまで飛騨は岐阜県ではなかった。
明治維新後、飛騨県、高山県を経て、1871年には現在の長野県中部とともに筑摩県へ編入されていた。高山は約5年間、松本に県庁を置く筑摩県の一部だった。
その後、筑摩県が廃止され、飛騨国は岐阜県へ編入された。
岐阜県歴史資料館には、この知らせを受け取った飛騨国下原村の戸長が、持っていた物を落とすほど驚いたと記した手紙が残されている。
行政整理としては、全国で進められた府県統合のひとつだった。しかし、そこに暮らす人々にとっては、自分たちが属する地域の向きが突然変わる出来事だった。
県境は、地形や生活圏が自然に固まったあとで引かれたとは限らない。
国家が統治しやすい範囲をつくり、その内側に道路、役所、学校、警察、経済制度を整えていく。現在「ひとつの地域」に見える岐阜県も、最初から一体だったのではなく、制度によって一体化を始めたのである。
参考:岐阜県「筑摩廃県、飛騨国岐阜統轄につき手紙」、高山市「高山の歴史」
飛騨と美濃では、土地の統治構造も違っていた
江戸時代の飛騨と美濃は、異なる統治の記憶を持っている。
飛騨は金森氏の統治を経て、1692年から明治維新まで幕府直轄領となった。高山陣屋を中心に、豊かな山林や鉱山などの資源が管理された。
飛騨の山は、単なる辺境ではなかった。
良質な木材を生み出す広大な山林は、幕府にとって直接管理する価値のある資源だった。山に囲まれていたから中央から忘れられたのではなく、山が富を生むからこそ、中央権力と直接結ばれていたのである。
一方、江戸時代の美濃には大垣藩、加納藩、郡上藩、岩村藩、苗木藩などが置かれたほか、幕府領、旗本領、尾張藩領などが複雑に入り組んでいた。
平野、河川、街道が交差する美濃は、ひとつの中心から支配される土地というより、複数の権力と経済圏が接する場所だった。
飛騨は、広大な山地を高山から管理する構造を持った。
美濃は、複数の城下町、陣屋、宿場、河川流域が並存する構造を持った。
この違いは、現代にもどこか残っている。
飛騨では高山の地域中心性が強い。一方、美濃では岐阜、大垣、関・美濃、美濃加茂・可児、多治見・中津川など、複数の都市がそれぞれ異なる方向を向いている。
岐阜県は「飛騨対美濃」という二分だけでなく、歴史的に多中心型の地域なのである。
参考:岐阜県「飛騨国南方北方山絵図」、岐阜県「細見美濃国絵図」
分水嶺は、水だけでなく生活の向きを分けた
飛騨と美濃を隔ててきた最大の要因は、距離よりも地形である。
山間部では、地図上の直線距離が近くても、峠や谷によって移動経路が限られる。反対に、川筋や街道がつながっていれば、県境を越えた土地の方が近いこともある。
飛騨の中にも、ひとつの向きしかないわけではない。
南部を流れる飛騨川は木曽川へ合流し、濃尾平野と伊勢湾方面へ向かう。北部を流れる宮川や高原川は神通川水系となり、富山湾へ注ぐ。庄川は白川郷を通り、富山県へ流れる。
江戸時代の飛騨国の山絵図にも、南方の川筋が尾張方面へ、北方の川筋が越中の港へつながる姿が描かれている。
水は、地域がどちらを向いて暮らすかを決める。
川に沿って木材や物資が運ばれ、人が往来し、市場との関係が生まれる。飛騨は行政上ひとつの地域でも、南は美濃・尾張へ、北は越中へ、東は峠を越えて信州へと開いていた。
そのため飛騨を岐阜県北部としてだけ捉えると、本来の立体的なつながりを見失う。
飛騨は「岐阜の奥」ではない。
太平洋側、日本海側、信州を結ぶ山岳地域の交差点なのである。
県境が先に引かれ、鉄道が後から追いかけた
1876年に飛騨と美濃が同じ県になっても、すぐに人々の往来が容易になったわけではない。
行政はひとつになったが、山は残った。
飛騨と岐阜を鉄道で結ぼうとする運動は明治期から始まり、1917年には飛騨鉄道速成同盟会が組織された。高山本線の最初の区間となる岐阜―各務原間が開通したのは1920年である。
県域の成立から、すでに40年以上が過ぎていた。
これは重要な順序である。
人々の移動が先に増え、その結果として県境が生まれたのではない。先に飛騨と美濃を同じ行政区域にし、その後で両者をつなぐ交通を整備した。
鉄道は単なる移動手段ではなかった。
県庁所在地、学校、病院、市場、新聞、行政情報へ飛騨を結び、地図上の岐阜県を生活上の岐阜県へ近づける装置だった。
しかし一本の鉄道が開通しても、山地の移動が平野と同じになるわけではない。豪雨、積雪、斜面災害などによって路線が止まれば、代替経路が限られる。
飛騨と美濃の関係は、線で結ばれてはいるが、複数の経路で強く結ばれているとは限らない。
ここに、山岳県が抱える交通の脆弱性がある。
高速道路は、飛騨を岐阜へ近づけ、北陸にも近づけた
20世紀後半から21世紀にかけて、その構造を大きく変えたのが東海北陸自動車道である。
2008年、飛騨清見ジャンクション―白川郷インターチェンジ間が開通し、東海北陸自動車道は全線でつながった。これにより、中京圏と飛騨、さらに北陸圏を結ぶ南北軸が形成された。
高速道路は飛騨を岐阜県南部へ近づけた。
同時に、富山、金沢、中部国際空港、名古屋港など、県外の都市や交通拠点へも近づけた。
交通網の整備は、県内の一体性だけを強めるとは限らない。
地域が外部と直接つながりやすくなれば、県庁所在地を経由しない人流や物流も増える。白川郷や高山を訪れる旅行者にとって、岐阜市は必ずしも玄関口ではない。名古屋、富山、金沢、松本から直接アクセスする旅行が成立するからである。
道路は飛騨を「岐阜の北部」にした一方で、「中部と北陸を結ぶ独立した観光・文化圏」としての性格も強めた。
ここに交通インフラの逆説がある。
道は県内を結ぶ。しかし、道が発達するほど、地域は県境を越えて自由に結びつくようになる。
参考:国土交通省「中部圏・北陸圏広域地方計画合同協議会資料」
「岐阜県」という名前でも、県民が見る中心は同じではない
県庁所在地の岐阜市は、県の南端に近い濃尾平野側にある。
岐阜圏域は名古屋と鉄道で強く結ばれ、行政、経済、教育、医療などの機能が集まる。一方、飛騨地域から岐阜市へ向かうには、長い距離と山地の移動が必要になる。
このため、同じ「県の中心」でも、地域によって感じ方が異なる。
美濃南部に暮らす人にとって、岐阜市や名古屋は日常的な都市圏の一部になり得る。飛騨に暮らす人にとっては、高山が日常生活の中心となり、専門的な機能について富山や松本、名古屋など複数の都市との関係が生まれる。
行政上の中心と、生活上の中心は一致しない。
これは岐阜県だけの問題ではないが、県土の約4割を占める飛騨地域が山によって隔てられている岐阜では、特に鮮明に現れる。
岐阜県は現在、岐阜、西濃、中濃、東濃、飛騨という五つの圏域で地域を捉えている。
この区分が示すのは、県内をひとつの中心と周辺に分けるだけでは、実態を説明できないということだ。
岐阜県とは、岐阜市を頂点とするひとつの生活圏ではない。
異なる中心と外部接続を持つ、複数の地域の集合体なのである。
参考:岐阜県「岐阜県の市町村一覧」、岐阜県「飛騨地域の概要」
同じ県であることの意味が、人口減少期に問われる
人口が増え、税収や公共投資が拡大していた時代には、遠い地域にも道路、橋、学校、病院などを整備していくことができた。
しかし、人口減少が進む時代には、広い県土を同じ密度で維持することが難しくなる。
飛騨地域は県土の約4割を占める一方、集落は山と谷に分散している。道路、トンネル、橋、除雪、医療、救急、学校、通信などを維持する一人当たりの負担は、人口が集中する平野部より大きくなりやすい。
ここで「効率」だけを基準にすれば、機能は人口の多い南部へ集約されていく。
だが、山間地域の森林、水源、道路、文化、観光資源は、飛騨だけのものではない。下流域の水、木材、災害防止、景観、観光経済などを通じて、県内外の都市を支えている。
同じ県であることの意味は、すべての地域を同じ形にすることではない。
人口の多い地域と、広い土地を管理する地域が、それぞれの役割と負担を理解し合うことにある。
飛騨を「支援される地域」としてだけ見ると、この関係は見えなくなる。
飛騨は、岐阜県の森林、水、文化、観光、国土保全を担う地域でもある。南部が人口と産業の集積によって県を支えるなら、北部は広大な土地と自然資本の管理によって県を支えている。
両者は同じではないが、非対称な形で依存し合っている。
必要なのは、ひとつに統一することではない
飛騨と美濃を本当の意味でひとつにするために、文化や産業を均質化する必要はない。
むしろ、異なる地域を無理に同じ方向へ向けようとすれば、それぞれが持つ強みを失う。
飛騨は北陸や信州、海外観光市場との結びつきを深めてもよい。東濃は名古屋圏や長野県との接続を生かし、西濃は関西・北陸方面の物流拠点として役割を持つ。岐阜圏域は行政や教育、医療、産業支援の中枢機能を担う。
重要なのは、すべての地域を県庁所在地へ従属させることではない。
複数の中心を認めたうえで、医療、交通、防災、教育、産業、観光のネットワークを結び直すことである。
岐阜県をひとつの都市圏として考えるのではなく、異なる地域が機能を持ち寄る連合体として考える。
その視点に立てば、飛騨と美濃の違いは弱点ではなくなる。
太平洋側と日本海側、名古屋圏と北陸圏、平野の製造業と山地の自然資本を、ひとつの県内に持っているからである。
飛騨と美濃は、今も「同じ県」になり続けている
飛騨と美濃が同じ岐阜県になったのは、1876年の行政統合による。
だが、通達一枚で土地の向きや人々の生活が変わったわけではない。
県境が引かれ、役所が置かれ、鉄道が延び、道路が山を越え、学校や医療、産業の制度が積み重なった。その長い時間によって、岐阜県という地域は少しずつ形成されてきた。
それでも飛騨は北陸や信州へ開き、美濃は名古屋や関西へ開いている。
その複数性は消えていないし、消す必要もない。
飛騨と美濃は、地理的にひとつだったから同じ県になったのではない。
異なる二つの土地を、交通、制度、役割の分担によって結び続けてきたから、同じ県であり続けている。
岐阜県の県境は、完成した答えではない。
山を越え、異なる地域がどのように支え合うのかを問い続ける、現在進行形の線なのである。

