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空から降る肥料—窒素沈着が森林と生態系を変えている

雨が降る森林と小川に「空は、肥料も降らせている。」の文字を重ね、窒素沈着による生態系への影響を表現したイメージ
空から降る肥料——窒素沈着が森林と生態系を変える

雨上がりの森には、澄んだ空気が流れている。

木々の葉から水滴が落ち、湿った土の匂いが立ち上がる。その風景を見て、空から「肥料」が降っていると想像する人は少ないだろう。

しかし、工場や自動車、発電所、農地、畜産施設などから大気中へ放出された窒素化合物の一部は、雨や雪、霧、微粒子となり、森林や草原、湖、海へ降り注いでいる。

これを「窒素沈着」という。

窒素は、植物を育てるために欠かせない栄養素である。農業に肥料が必要なように、自然界でも窒素は生命を支えている。

だが、栄養は多ければ多いほどよいわけではない。

人間がつくり出した過剰な窒素は、自然の成長を助けるのではなく、生態系が長い時間をかけて保ってきたバランスを静かに変え始めている。

Contents

空気の78%が窒素なのに、なぜ不足するのか

地球の大気の約78%は窒素ガスである。

それほど大量に存在するなら、なぜ植物に窒素肥料を与える必要があるのだろうか。

大気中の窒素ガスは非常に安定しており、多くの生物はそのまま利用できない。植物や微生物が利用できるのは、アンモニア、硝酸、窒素酸化物など、ほかの物質と反応しやすい形になった窒素である。

これらは「反応性窒素」と呼ばれている。

自然界では、雷や一部の微生物などが窒素ガスを反応性窒素へ変えてきた。限られた窒素を生物が利用し、死骸や排泄物を微生物が分解し、再び土へ返す。こうした循環の中で、それぞれの土地に固有の生態系が形成されてきた。

ところが20世紀以降、人間は工業的にアンモニアを大量生産できるようになった。化学肥料は食料生産を大きく支えた一方、人間が自然界へ投入する反応性窒素の量も増加させた。

さらに、化石燃料の燃焼や畜産などからも反応性窒素が放出されている。

窒素は、生命を支える限られた栄養から、人間が大量に生産し、環境へ排出する物質へと変わったのである。

窒素はどこから空へ向かうのか

大気中へ放出される窒素化合物には、大きく二つの流れがある。

一つは、自動車、工場、火力発電所などで燃料を燃やす際に発生する窒素酸化物、いわゆるNOxである。

もう一つは、家畜のふん尿、堆肥、化学肥料の散布などから発生するアンモニアだ。

都市と農村では、主な発生源が異なる。しかし、いったん大気へ放出された物質は、その場所にとどまるとは限らない。風に運ばれながら化学反応を起こし、発生源から離れた森林や湖沼へ到達することもある。

そして、雨や雪に溶け込んで地表へ落ちる「湿性沈着」と、ガスや微粒子の状態で植物や土壌、水面に付着する「乾性沈着」によって、自然環境へ入り込む。

「空から降る肥料」という表現は比喩だが、実際には雨だけでなく、目に見えないガスや粒子としても窒素は降り続けている。

栄養が増えると、なぜ生物が減るのか

窒素が増えれば、植物はよく育つようにも思える。

実際、一部の植物は成長が速くなる。しかし、その恩恵をすべての植物が等しく受けるわけではない。

自然界には、窒素の少ない痩せた土地に適応してきた植物がいる。ゆっくり成長し、限られた栄養を効率よく使うことで、ほかの植物が生きにくい環境に居場所をつくってきた。

そこへ大量の窒素が供給されると、成長の速い草本や樹木が優位になる。背丈を伸ばし、光や空間を占有し、低栄養環境に適応してきた植物を追いやっていく。

土地全体の植物量は増えていても、そこに生きる種類は減っていく可能性がある。

一見すると緑が豊かになったように見えるため、その変化は発見しにくい。

自然が衰えるとは、必ずしも植物が枯れ、土地が裸になることではない。同じ種類だけが増え、その土地固有の多様性が失われることも、生態系の衰退なのである。

森林が窒素を抱えきれなくなる

森林に入った窒素は、まず植物や微生物に利用される。

しかし、供給される量が森林の吸収能力を上回る状態が続くと、やがて窒素を抱えきれなくなる。余った窒素は硝酸イオンなどの形で土壌水へ移動し、地下水や渓流水へ流れ出す。

この状態は「窒素飽和」と呼ばれる。

硝酸イオンが流出する過程では、カルシウムやマグネシウムなど、植物に必要な成分が土壌から一緒に失われる場合がある。土壌の酸性化が進み、樹木の根や微生物の活動に影響を及ぼす可能性もある。

環境省の研究では、日本の森林が窒素負荷にどう反応するかは、気候、植生、土壌、内部の物質循環によって異なることが示されている。温暖で生物活動が活発な森林では外から入った窒素を吸収しやすい一方、もともとの窒素循環が小さい地域では、負荷の影響が比較的早く現れる可能性がある。

つまり、全国の森林が同じ速度で変化するわけではない。

目に見える被害がないことと、変化が起きていないことは同じではないのである。

森から川へ、川から湖と海へ

森林や農地が抱えきれなくなった窒素は、地下水や河川へ移動する。

湖や内湾など水が滞留しやすい場所へ大量の窒素が入ると、植物プランクトンが増殖し、富栄養化を引き起こすことがある。アオコの発生、水質の悪化、酸素不足などを通して、水生生物の生息環境が変化していく。

国立環境研究所による霞ヶ浦流域の調査では、農地や畜産施設などから大気中へ放出されたアンモニアが、雨やガスを通じて湖面へ沈着する経路も調べられている。

湖の窒素は、河川だけから流れてくるわけではない。

空からも供給されているのである。

大気汚染、森林の変化、地下水、河川、湖沼の富栄養化。それぞれ別の環境問題に見える現象が、窒素という一つの物質によってつながっている。

一度放出された窒素は、形を変えて移動する

窒素問題を難しくしているのは、一つの窒素化合物が一つの場所で問題を起こして終わるわけではないことだ。

自動車や工場から出た窒素酸化物は、大気汚染や微小粒子の形成に関わる。その後、地表へ沈着し、土壌や水域へ入る。

農地や畜産施設から出たアンモニアも、大気中を移動し、森林や湖へ沈着する。さらに土壌から川へ流れ、沿岸海域へ到達することがある。

土壌では、一部が温室効果ガスである一酸化二窒素へ変化する。

このように、一度環境へ放出された反応性窒素が、大気、水、土壌、生態系の間を移動しながら、異なる問題を次々と引き起こす現象は「窒素カスケード」と呼ばれる。

国立環境研究所によれば、人間活動による全陸域への窒素負荷は、世界で年間2億5,000万トンを超えると推計されている。窒素は、気候変動や生物多様性、水質、大気汚染を横断する問題になっている。

窒素を使わない社会には戻れない

化学肥料は、世界の食料生産を支えてきた。

窒素を単純に「悪い物質」と捉え、使用をやめれば解決する問題ではない。肥料の不足は収穫量を低下させ、食料価格や農家の経営にも影響する。

必要なのは、窒素を使うか、使わないかという二択ではない。

作物が必要とする量と時期に合わせて肥料を与える。土壌の状態を測り、過剰な施肥を減らす。家畜ふん尿や堆肥の保管・処理方法を改善し、アンモニアの揮散を抑える。食品ロスを減らし、生産された窒素を食料として無駄なく利用する。

交通やエネルギー分野では、燃焼に伴う窒素酸化物の排出削減を進める。

農業、大気、水質、廃棄物、エネルギーを個別に扱うだけでは、窒素の流れ全体は見えてこない。どこから入り、どこで使われ、どこへ漏れ出しているのかを、一つの循環として捉える必要がある。

自然を変えるのは、毒だけではない

私たちは環境汚染と聞くと、毒性の強い化学物質や、目に見える廃棄物を思い浮かべる。

だが、自然を変えるのは毒だけではない。

水も、光も、栄養も、生き物にとって必要である。しかし、場所や量、時間が変われば、生態系を支えるものが、生態系を崩す力へ変わる。

窒素沈着は、その変化が見えにくい。

森はすぐには枯れない。むしろ、一部の植物はよく育つ。湖にも突然大きな変化が起きるとは限らない。

それでも、空から供給される窒素によって、植物の構成が変わり、土壌の性質が変わり、余った窒素が川へ流れ出していく。

人間は、食料とエネルギーを得るために、自然界の窒素循環を大きく変えてきた。

問われているのは、窒素を使うことそのものではない。

生命を育てるためにつくった栄養を、生命の循環の中でどこまで無駄なく使い切れるかである。

空から降る見えない肥料は、人間の暮らしと遠く離れた環境問題ではない。

それは、私たちが食べ、移動し、エネルギーを使う社会の姿が、森林や湖の中に現れたものなのである。

主な参考資料

国立環境研究所「窒素問題とは何か?」
総合地球環境学研究所「Sustai-N-ableプロジェクト」
国立環境研究所「霞ヶ浦流域の大気中アンモニア濃度分布を初調査」
環境省「酸性・酸化性物質に係る陸域生態系の衰退現象の定量的解析」
FAO「Nitrogen use efficiency must be improved」

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