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水を抜いた大地に、もう一度、湿地の時間を

水面と赤褐色の湿地植物、遠くの針葉樹林を描いたエストニアの泥炭地の水彩画。「この大地は、水を残して未来を育てる。」の文字。
水面と赤褐色の湿地植物、遠くの針葉樹林を描いたエストニアの泥炭地の水彩画

エストニアの泥炭地から考える、炭素と水を守る自然再生

世界地図で見る自然環境問題|エストニア

緑に覆われた土地を見ると、自然が豊かに残っていると感じる。

けれど、木々の足元で何が起きているかは、その景色だけではわからない。

バルト海に面するエストニアでは、農業や林業のために湿地から水を抜いてきた。その結果、地中に蓄えられていた泥炭の分解が進み、炭素を蓄える場所が、二酸化炭素を放出する場所へと変わってきた。loodusveeb

いま、この国で進められているのは、かつて掘った排水溝をふさぎ、大地に水を戻す取り組みだ。

水を早く外へ流すことで使いやすくしてきた土地に、水をとどめる価値を見いだす。

エストニアの湿地再生は、私たちが土地の豊かさを何によって測ってきたのかを問い直している。

Contents

地面の下に積もっていた、植物の時間

泥炭地とは、十分に分解されなかった植物の遺骸が、地表近くに積み重なった土地のことだ。

水に浸かった地中には酸素が届きにくく、植物の分解がゆっくり進む。そのため、植物が取り込んだ炭素の一部が、大気へ戻らずに地面の下へ蓄えられていく。FAO

ミズゴケなどの小さな植物が生き、枯れ、その上に次の植物が育つ。

目に映る変化はわずかでも、足元には長い時間が積み重なっている。

泥炭地を守るということは、そこで暮らす生きものとともに、すでに地中にある炭素を守ることでもある。水を蓄え、水の流れや水質を調整する働きも、人の暮らしを支えている。FAO

静かな湿地は、何もしていない土地ではない。

「使える土地」を増やした排水の歴史

エストニアでは、農地の拡大、林業、泥炭の採掘などを目的として、湿地の排水が進められてきた。第二次世界大戦後には、重機の導入や農業政策によって、その規模が大きく拡大した。loodusveeb

水を抜けば、耕作や作業がしやすくなる。湿った土地で育ちにくかった樹木も、生長しやすくなる。

そこには食料や木材を得て、暮らしを支えようとする理由があった。

しかし、地下水位が下がると、泥炭が空気に触れやすくなる。分解が進み、蓄えられていた炭素が二酸化炭素として放出される。湿地に適応した植物や動物の生息条件も変わってしまう。FAO

エストニア自然保護基金によれば、排水の影響で、同国の泥炭形成が続く湿地の面積は過去一世紀に約3分の1に縮小した。Elfond

地面そのものが消えていなくても、湿地としての働きが失われることがある。

土地利用の地図に残る緑と、生態系が保たれていることは、必ずしも同じではない。

園芸用の土にもつながる問題

泥炭をめぐる問題は、湿地の周辺だけで完結しない。

エストニアでは園芸用泥炭の生産も、温室効果ガス排出を考えるうえで大きな課題となっている。OECDの2026年の報告書は、2023年の土地利用・土地利用変化・林業部門の排出について、泥炭生産に関連する排出が大きな割合を占め、その中心に園芸用泥炭があると指摘している。OECD

植物を育てるための資材が、別の場所では湿地の利用と結びついている。

このつながりを知ると、身近な「緑を増やす行為」にも、その資材がどこから来たのかという問いが加わる。

同時に、生産に関わる仕事や地域の暮らしもある。環境負荷を下げるには、購入する人の意識だけでなく、代替資材の開発や供給、生産の転換を支える仕組みまで考える必要があるだろう。

排水溝をふさぎ、水が残る条件をつくる

湿地の再生では、まず水の流れを変える。

排水溝に堰を設けたり、溝を埋めたりして、流出する水を抑える。地下水位を地表近くへ戻し、湿地の植物が育ち、泥炭の形成が再び進むための条件を整えていく。loodusveeb

EUの支援を受けた「Mires Estonia」では、6つの自然保護地域を対象に取り組みが進められた。欧州委員会によると、約317キロメートルの排水網を閉鎖し、約2,500基の堰を設置するなどして、約8,000ヘクタールの湿地で自然な水環境の回復が図られた。ミズゴケの播種も行われ、水位や植生、生きものの変化が調べられている。Environment

ただし、水位が戻ることと、生態系全体が回復することには時間の隔たりがある。

再び湿った場所で、何が育つのか。乾いた時期にも水が保たれるのか。戻ってきた生きものが、そこで暮らし続けられるのか。

工事の完了後も、観察と調整が続く。

木を残すことと、湿地を守ることの間で

湿地再生には、直感的には受け入れにくい場面もある。

排水後に育った木を取り除いたり、水位の上昇によって一部の木が枯れたりする場合があるからだ。

木を切るという行為だけを見れば、自然が傷つけられたように感じるかもしれない。しかし、もともと開けた湿地だった場所では、樹木の増加が排水による変化を示していることもある。loodusveeb

一方で、長い年月を経て成立した森林には、その森林の価値がある。

エストニアの自然再生事業でも、水位を上げることで既存の森林や希少種に影響が生じる可能性を踏まえ、土地の履歴や現在の生態系を調べて対象地を選んでいる。排水後に成立した森林を、どこでも湿地へ戻せばよいわけではない。Loodusrikas Eesti

気候への効果にも、丁寧な評価が必要だ。再湿地化によって泥炭の分解に伴う二酸化炭素排出を抑えられる一方、メタンの排出が増えることがある。研究では、それでも長期的な温暖化の抑制に再湿地化が役立つことが示されている。Nature Communications

何を回復させ、何を守り、その変化をどの時間軸で確かめるのか。

自然再生には、その土地ごとの判断が求められる。

街のそばで、水と暮らしの関係を結び直す

湿地の未来を考える場所は、遠くの保護区だけではない。

首都タリンのパースキュラ泥炭地では、排水溝をふさぐ再湿地化と植生の観察が進められている。住民も堰づくりや外来種の除去、環境学習に参加し、変動する水位に対応する浮体式の木道も整備されている。mission-adaptation-portal.ec.europa.eu

水を戻しながら、人が訪れる道もつくる。

これは、人と自然の距離を設計し直す取り組みともいえる。

暮らしの近くにある湿地なら、再生によって変わる景色を、住民が長く見続けることができる。水が増えたことも、木々の姿が変わったことも、その理由とともに共有していける。

自然再生を支えるのは、工事の技術だけではない。変化を理解し、見守る人の存在も、その一部になる。

水を残すことを、豊かさとして数える

エストニアの泥炭地は、土地を利用してきた歴史と、これから守ろうとする未来が重なる場所にある。

水を抜くことで得られた農地や森林があった。その一方で、地中に蓄えられた炭素や、湿地に暮らす生きもの、水をとどめる働きが失われてきた。

これから必要なのは、その両方を視野に入れた土地の使い方だろう。

収穫すること。木材を得ること。水を蓄えること。炭素を地中に残すこと。

それぞれの価値を確かめながら、どこで何を優先するのかを考えていく。

かつて掘られた溝をふさぐ、小さな堰。

その向こうに水がとどまることは、土地の役割をもう一度考える出発点になる。

EDITOR’S NOTE — NEOTERRAIN

緑の多い景色を見て、私たちは安心する。

けれど、その緑の足元に、水があるのか。泥炭が保たれているのか。そこで暮らしてきた生きものの居場所が続いているのか。

エストニアの湿地再生は、目に見える景色の下へ視線を向けさせる。

地面の下に積もった時間を、次の世代へ渡す。そのために必要な水を、大地に残していく。


参考資料

※本記事は公開資料に基づいて構成しています。現地取材や関係者へのインタビューは行っていません。

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