トンレサップ湖の「呼吸」が弱まり始めている
カンボジアの中央部に、雨季と乾季でまったく違う姿を見せる湖がある。
東南アジア最大の淡水湖、トンレサップ湖である。
乾季の湖面積は、およそ2,500平方キロメートル。しかし雨季になると、湖は周囲の森林や草原をのみ込みながら、約1万5,000平方キロメートルまで広がる。
その面積は、最大で約6倍になる。
一般的な湖では、周辺に降った雨や流れ込む河川によって水位が上がる。だが、トンレサップ湖を大きくする主役は、湖へつながる川の「逆流」である。
雨季になると、メコン川の水位が上昇し、トンレサップ川の流れが反対方向へ変わる。普段は湖からメコン川へ流れている水が、今度はメコン川から湖へ押し戻される。
川が逆流すると、湖は膨らむ。
そして乾季になると、川は再び本来の方向へ戻り、湖に蓄えられた水がメコン川へ流れ出していく。
トンレサップ湖は、一年に一度、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す湖なのである。
湖を豊かにするのは、深さではなく広がり
トンレサップ湖は、雨季に水深が増すだけではない。
湖からあふれた水は、周囲の平原や森林へ広がっていく。
普段は陸上に立っている木々の幹が水に沈み、森の中を魚が泳ぐ。落ち葉や植物、昆虫、有機物が水中へ取り込まれ、魚たちの餌になる。
水没した森林は、魚にとって産卵場所であり、稚魚が外敵から身を守る保育場でもある。
雨季の終わりに水が引き始めると、成長した魚たちは湖や川へ戻る。そして乾季には、湖からメコン川へ流れ出す魚を求めて、各地で漁が行われる。
つまりトンレサップ湖の豊かさは、一定量の水を湖の中にためることで生まれているのではない。
水が森へ入り、平原へ広がり、再び川へ戻る。
この季節的な水の移動そのものが、巨大な生態系を動かしている。
カンボジアの食卓を支える湖
トンレサップ湖は、世界でも特に生産性の高い淡水漁業の一つを支えている。
UNESCOによれば、トンレサップ湖と周辺の氾濫原は、カンボジアの内水面漁業生産の約60%に関わっている。
湖の周辺には、水上集落や高床式住居が点在している。人々は湖の水位変動に合わせて漁を行い、農地を使い、船で移動してきた。
魚は単なる商品ではない。
家庭で食べる日常のタンパク源であり、発酵魚ペースト「プラホック」など、カンボジアの食文化を支える基盤でもある。
また、湖の水位が下がった後の土地には、川や湖が運んだ養分が残る。そこでは米や野菜が栽培され、漁業と農業が同じ水循環の中で結びついてきた。
トンレサップ湖の鼓動は、そのままカンボジアの食料安全保障の鼓動なのである。
逆流が「短く、弱く」なっている
この湖に今、変化が起きている。
雨季になっても、トンレサップ川の逆流が以前ほど強くならず、逆流する期間も短くなる年が増えている。
メコン川委員会は、2023年のトンレサップ湖について、逆流が弱く短かったことが、漁業と地域の暮らしに影響を与えたと報告している。
2022年に発表された研究では、2010年代の雨季の湖水位が、それ以前の期間より平均約1メートル低下したことが示された。
雨季の水位が十分に上がらなければ、湖は本来の範囲まで広がらない。
水没する森林の面積が減り、魚の産卵場所や成育場所も小さくなる。水とともに運ばれる栄養分や土砂も減り、漁業だけでなく農業の生産力にも影響する。
湖の面積が少し小さくなること以上に、湖が膨らむ時間と深さが失われることが問題なのである。
原因は、上流ダムだけではない
トンレサップ湖の変化については、メコン川上流に建設された水力発電ダムの影響が指摘されてきた。
ダムは雨季の水を貯水し、乾季に放流する。これによってメコン川本来の季節変動が平準化されれば、トンレサップ川を逆流させる雨季の水位差が小さくなる可能性がある。
また、ダムは水だけでなく、川が運ぶ土砂もせき止める。
土砂には、植物や魚の生産を支える栄養分が含まれている。メコン川から湖へ届く土砂が減れば、氾濫原の農地や水生生態系にも影響が及ぶ。
しかし、近年の研究は「ダムだけ」を原因とする説明では不十分であることを示している。
降雨量、灌漑、水利用、都市開発、河道の変化など、複数の要因が重なっている。
その中で、これまで見落とされがちだった問題が、川底からの砂の採取である。
砂を取ると、なぜ湖の水が減るのか
コンクリートや道路、建築物をつくるため、メコン川では大量の砂が採取されてきた。
砂を取り除くと、川底が低くなる。
一見すると、川底が深くなれば多くの水が流れ、湖にも水が届きやすくなるように思える。しかし、トンレサップ湖の逆流を生み出すのは、川の水量だけではない。
重要なのは、メコン川とトンレサップ湖の水面の高さの差である。
雨季にメコン川の水位が湖より高くなることで、水は湖へ向かって逆流する。ところが川底が下がると、同じ量の水が流れていても、川の水面は以前より低くなる。
その結果、湖へ水を押し戻す水位差が小さくなる。
2025年に『Nature Sustainability』で発表された研究は、メコン川下流域の大規模な砂採取による川底低下が、トンレサップ湖への逆流を弱める重要な要因になっている可能性を示した。
遠くの都市で使われる建設用の砂が、湖の魚や森の冠水を左右しているのである。
水だけでなく、土砂の流れも河川の一部である
人間は川を、水が流れる通路として捉えがちである。
しかし、自然の川が運んでいるのは水だけではない。
砂、泥、落ち葉、植物の種、栄養分、魚、微生物が移動している。川底そのものも、削られ、運ばれ、積み直されながら形を変えている。
上流のダムが土砂を止め、下流で砂を採取すれば、川底へ補給される量より、取り除かれる量の方が多くなる。
川底は低下し、河岸は不安定になり、水位と流れの関係も変わる。
これは、単なる採掘場所周辺の問題ではない。
川底の変化は下流へ伝わり、トンレサップ湖への逆流、メコンデルタの形成、さらには海岸侵食や塩水遡上にもつながっていく。
流域の一地点で取り出された砂が、数百キロメートル離れた生態系の働きを変えてしまう。
浸水林が失われると、魚も減る
逆流が弱まる一方で、湖の周辺に残る浸水林も開墾や火災によって減少している。
水が森へ届かなくなれば、乾燥した植物は燃えやすくなる。森林が焼失した後、その土地が農地へ転換されることもある。
だが、浸水林を失うことは、湖岸の木を失うことだけではない。
魚の産卵場所、鳥類の繁殖地、水質を整える湿地、波や浸食から湖岸を守る植物帯を同時に失うことである。
湖へ十分な水が戻っても、その水を受け止める森林がなければ、かつての生態系は再現されない。
トンレサップ湖を守るためには、水量とともに、水が広がる場所を残さなければならない。
漁獲規制だけでは湖を守れない
魚が減少すると、漁獲量や漁具を規制する対策が取られる。
もちろん乱獲を防ぐことは重要である。
しかし、魚が生まれ育つ浸水林が失われ、逆流の期間が短くなり、川から届く栄養分が減っている状態では、漁業者だけに負担を求めても資源は回復しにくい。
必要なのは、魚を捕る場所だけでなく、魚を生み出す水循環全体を管理することである。
ダムの運用、灌漑、水利用、砂の採取、浸水林の保全、地域住民の漁業管理は、別々の問題ではない。
すべてが、湖の一度の呼吸の中でつながっている。
湖を守るとは、川のリズムを守ること
トンレサップ湖を一年中、同じ大きさに保つことはできない。
むしろ、同じ大きさに固定してしまえば、この湖の生態系は失われる。
必要なのは、乾季には縮み、雨季には広がるという自然の振幅を守ることである。
十分な量の水が、適切な時期にメコン川を流れること。
トンレサップ川が逆流できる水位差を保つこと。
水とともに土砂や栄養分が運ばれること。
湖が広がる先に、浸水林と氾濫原が残されていること。
湖の健康は、湖の中だけを見ても分からない。
上流のダム、都市で使われる砂、川底の高さ、森林、漁村の暮らしまで含めて、初めて一つの生態系が見えてくる。
湖が呼吸をやめる前に
トンレサップ湖は、水が減ればただ小さくなる湖ではない。
川が逆流しなければ、森に水が届かない。
森に水が届かなければ、魚が育たない。
魚が育たなければ、人々の食卓と暮らしが揺らぐ。
その連鎖は、目に見える湖面の変化よりも早く進んでいる可能性がある。
湖は、そこに水が存在しているだけでは生きているとはいえない。
水が入り、広がり、土砂と栄養を運び、再び川へ戻っていく。その動きが繰り返されて初めて、湖は湖として機能する。
トンレサップ湖が私たちに教えているのは、自然を守るとは、場所を囲うことだけではないということだ。
守らなければならないのは、その場所を生かしている「動き」なのである。
参考資料
- Mekong River Commission:Tonle Sap Basin and the Great Lake
- Mekong River Commission:State of the Mekong Address 2024
- UNESCO:Tonle Sap Biosphere Reserve
- Nature Sustainability:Sand-mining-driven reduction in Tonle Sap Lake’s critical flood pulse
- Hydrology and Earth System Sciences:Drastic decline of flood pulse in the Cambodian floodplains
- FAO:Rebuilding Life on the Great Tonle Sap Lake

