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海は静かではない─船舶が生む「水中騒音」と海洋生物の見えない危機

貨物船から広がる水中音と、その影響を受けるクジラや魚を描いた海中の風景
貨物船から広がる水中音と、その影響を受けるクジラや魚を描いた海中の風景

海岸に立つと、聞こえてくるのは波の音である。

風が水面をなでる音。
砂浜へ波が寄せては返す音。
遠くで鳴く海鳥の声。

私たちには、海が静かな場所のように感じられる。

しかし、水面の下には、別の音の世界が広がっている。

クジラやイルカの声。
魚が動く音。
エビや甲殻類が発する小さな音。
波、雨、海底の地殻変動によって生まれる自然の音。

そして、その中へ入り込む船舶のエンジン音、プロペラの回転、海底工事、杭打ち、浚渫、資源探査、軍事用ソナー。

海は、決して無音ではない。

問題は、自然の音に人間活動の音が重なり、海の生き物が必要とする「音の環境」を変え始めていることである。

水中騒音は目に見えない。

海面にごみが浮かぶわけでも、水の色が変わるわけでもない。だが、水中では人間が生み出した音が遠くまで伝わり、生き物たちの行動やコミュニケーションに影響を与える可能性がある。

海の環境問題は、物質だけではない。

音もまた、海へ放出される環境負荷なのである。

Contents

海の中には「音の風景」がある

陸上では、私たちは主に視覚を使って周囲を認識している。

道路を見る。
建物を見る。
人の表情を見る。
遠くの景色から、自分のいる場所を理解する。

しかし、水中では光が遠くまで届きにくい。

水深が深くなるほど暗くなり、濁りがあれば視界はさらに狭くなる。一方、音は水中を速く、遠くまで伝わる。特に低い周波数の音は、条件によって非常に長い距離を移動する。

そのため、多くの海洋生物にとって音は、単なる情報のひとつではない。

仲間を見つける。
餌を探す。
捕食者から逃げる。
繁殖相手を呼ぶ。
群れを維持する。
移動する方向を知る。

こうした生存に欠かせない行動が、音によって支えられている。

クジラやイルカだけではない。魚類や一部の無脊椎動物も、音を感知し、行動や繁殖などに利用していることが分かっている。

海の生き物は、音に囲まれて暮らしている。

海中には、それぞれの地域に固有の「音の風景」があるのである。

人間は海へ、どのような音を出しているのか

人間が海へ出す音は、大きく二つに分けて考えることができる。

音の性質主な発生源特徴
継続的な音商船、タンカー、フェリー、漁船など海を移動しながら、長時間にわたって低い音を発する
衝撃的・断続的な音海底への杭打ち、資源探査、爆破、ソナーなど短時間でも強い音が繰り返し発生する

世界の海を日常的に移動している船舶は、継続的な水中騒音の大きな発生源のひとつである。

船内では、人間が感じる騒音や振動を抑える対策が行われている。しかし、船内が静かであることと、船外の水中へ音が出ていないことは同じではない。

エンジンや機械の振動は船体を通じて水中へ伝わる。

また、プロペラが高速で回転すると、周囲の圧力変化によって小さな気泡が生まれ、つぶれることがある。「キャビテーション」と呼ばれる現象で、推進効率を下げるだけでなく、水中音の発生源にもなる。

船の種類、速度、船体やプロペラの設計、整備状態によって、発生する音は異なる。

つまり、同じ大きさの船でも、海へ出す音が同じとは限らない。

音が、生き物の声を覆い隠す

水中騒音の影響は、強い音による聴覚への損傷だけではない。

重要なのが「マスキング」である。

マスキングとは、人間が出した音によって、生き物が聞こうとしている音が覆い隠される現象だ。

人混みの中で会話をすると、相手の声が聞き取りにくくなる。工事現場の近くでは、少し離れた人の声が聞こえない。

海中でも、同じようなことが起こり得る。

仲間を呼ぶ声が届かない。
繁殖相手の音を見つけられない。
獲物が発する音を捉えにくくなる。
捕食者が近づく音に気づけない。
移動や回遊に必要な手掛かりを失う。

音が聞こえにくくなれば、生き物は声を大きくしたり、発声する周波数や時間を変えたり、騒音の強い場所から離れたりする可能性がある。

しかし、すべての生き物が簡単に場所を変えられるわけではない。

そこが産卵場所であるかもしれない。
餌が豊富な海域かもしれない。
回遊の途中で通らなければならない場所かもしれない。

水中騒音は、必ずしも生き物を直接死なせるわけではない。

その代わりに、海で生きるために必要な情報を少しずつ奪う。

そこに、この問題の見えにくさがある。

影響は、音の大きさだけでは決まらない

水中騒音の影響を考えるとき、単純に「何デシベルなら危険」と決めることは難しい。

影響は、複数の条件によって変わる。

  • 音の大きさ
  • 周波数
  • 音が続く時間
  • 同じ音にさらされる回数
  • 音源までの距離
  • 水深や海底地形
  • 水温や塩分
  • 生き物の種類や成長段階
  • 繁殖期、産卵期、回遊期
  • その海域が持つ生態学的な重要性

一度だけ発生する強い音と、小さくても毎日続く音では、影響の現れ方が異なる。

また、人間に聞こえにくい周波数であっても、別の生物には重要な音である可能性がある。

人間の耳を基準にして、海が静かかどうかを判断することはできないのである。

船舶がつくる「海の背景音」

世界の物流は海によって支えられている。

食料、エネルギー資源、自動車、衣類、工業製品。私たちが日常的に使う多くの物が、船によって運ばれている。

日本は四方を海に囲まれ、輸出入の多くを海上輸送に依存している。船舶を止めるという選択肢は現実的ではない。

だからこそ問われるのは、物流を維持しながら、海へ出す音をどこまで減らせるかである。

国際海事機関(IMO)は2023年、商船から放射される水中騒音を減らすための改訂ガイドラインを承認した。さらに2024年には行動計画を採択し、船舶騒音の削減に向けた技術や運用方法の普及を進めている。

考えられる対策には、次のようなものがある。

  • 船体やプロペラを騒音の少ない形状に設計する
  • エンジンや船内機械の振動を抑える
  • プロペラや船底を定期的に清掃・整備する
  • 海域や生態系の状況に応じて航行速度を調整する
  • 鯨類の繁殖・採餌海域から航路を離す
  • 船ごとの水中騒音を測定し、管理計画をつくる

米国ピュージェット湾では、大型商船が自主的に減速する取り組みにより、絶滅危惧のシャチに届く水中騒音が約半分に低下した事例も報告されている。

船を新しく造り替えなくても、速度や航路、整備方法を見直すことで改善できる可能性がある。

水中騒音は、技術だけでなく、海の使い方によっても減らせる問題なのである。

洋上風力発電が抱えるもうひとつの課題

脱炭素化を進めるため、日本でも洋上風力発電の導入が検討されている。

海の風を利用して電気をつくり、化石燃料への依存を減らす。気候変動対策として重要な選択肢であることは間違いない。

しかし、再生可能エネルギーであれば、自然環境への影響がゼロになるわけではない。

特に着床式洋上風力発電では、海底へ基礎を設置する際の杭打ちによって、大きな衝撃音が発生することがある。稼働後にも、設備の振動や保守船の航行などによる音が生じる可能性がある。

ここには難しい構図がある。

気候変動を抑えるための設備が、建設される地域の海洋生態系へ別の負荷を与える可能性があるからだ。

重要なのは、洋上風力を一方的に否定することでも、再生可能エネルギーだから問題がないと決めつけることでもない。

建設前に海域の音を測る。
生き物の分布や季節変化を把握する。
工事中の音を監視する。
完成後も継続して変化を確かめる。

環境省が示した洋上風力発電の環境影響評価手法案でも、春夏秋冬の水中音調査や、工事前・工事中・工事後の比較、調査結果の継続的な公表が重視されている。

まず、その海がどのような音の環境だったのかを知らなければ、開発によって何が変わったのかを判断できない。

音を遮る「泡の壁」

海洋工事の音を減らす技術も開発されている。

そのひとつが「バブルカーテン」である。

海底に設置した管から圧縮空気を送り、小さな気泡による壁を杭の周囲につくる。水と空気では音の伝わり方が異なるため、気泡の層によって杭打ち音が外側へ広がるのを抑える仕組みだ。

ほかにも、杭を覆う構造物、吸音材、振動を抑える施工方法、衝撃の少ない基礎形式などが検討されている。

ただし、バブルカーテンも万能ではない。

水深、潮流、海底地形、音の周波数などによって効果は変わる。対策を導入したという事実だけでなく、実際にどれだけ音を抑えられたのかを測定する必要がある。

環境対策は、設備を設置して終わりではない。

測り、確かめ、必要なら方法を変える。

海の状態に合わせて計画を修正する「順応的な管理」が求められる。

海の騒音は、国境を越える

船は国境を越えて移動する。

船が発する音も、港の内側だけにはとどまらない。

ある国で造られた船が、別の国の海域を通り、さらに遠くの港へ入っていく。特定の港や企業だけが対策しても、海全体の音環境を改善することは難しい。

そのため、水中騒音には国際的な協力が必要になる。

船の設計基準。
騒音の測定方法。
港湾での評価。
静かな船を優遇する仕組み。
重要な生息海域を避ける航路。
国を越えて比較できる海洋データ。

水中騒音は、海洋ごみや温室効果ガスと同じように、発生源と影響を受ける場所が一致しない環境問題である。

それは、海を誰が使い、誰が守るのかという問いでもある。

静かな船は、効率のよい船になり得る

船舶の騒音対策は、環境保全だけの負担とは限らない。

プロペラ周辺で発生するキャビテーションは、音だけでなく、エネルギーの損失や部品の劣化にもつながる。船体やプロペラを適切に整備し、抵抗や振動を減らせば、燃料消費や温室効果ガス排出の削減と両立できる可能性がある。

速く走ることだけが、効率ではない。

少ないエネルギーで進み、必要以上の振動や音を出さず、海洋生態系への負荷を抑える。

これからの船舶には、輸送能力や燃費だけでなく、「どれだけ静かに海を通過できるか」という性能も求められるかもしれない。

海を利用する産業と海を守る取り組みは、必ずしも対立するものではない。

船の設計、運航、整備を見直すことによって、物流と生物多様性を同時に支える余地がある。

聞こえない問題に、耳を澄ます

海面を眺めても、水中騒音を見ることはできない。

船が通り過ぎても、その下でどのような音が広がっているのか、陸にいる私たちには分からない。

だからこそ、測定が必要になる。

水中マイクを設置し、その海域の音を記録する。船の位置や速度、生き物の分布と重ね合わせる。繁殖期や回遊期など、時間による変化も追いかける。

海の環境を、水質や水温だけでなく「音の風景」として記録していく。

それによって初めて、静かな海域がどこに残っているのか、どの場所で人間の音が増えているのか、どの対策が機能しているのかが見えてくる。

見えない環境問題は、見えないままでは守れない。

まず聞くこと。

海の生き物が暮らす音の世界を知ること。

そこから、水中騒音への対策は始まる。

おわりに

海は静かではない。

もともと海には、波や雨、生き物たちがつくる豊かな音の風景がある。

問題なのは、人間の音が加わることそのものではない。物流、漁業、港湾、エネルギー開発は、現代社会を支えるために必要な活動である。

問われているのは、その音が海の生き物にとって必要な音を覆い隠していないかということだ。

海洋ごみは拾うことができる。
排水は浄化することができる。
温室効果ガスは排出量として計算できる。

しかし、音は発生した瞬間に広がり、やがて消えていく。

残らないからこそ、気づきにくい。
見えないからこそ、後回しにされやすい。

海を守るとは、水をきれいにすることだけではない。

生き物が仲間の声を聞き、餌を探し、繁殖し、移動できる「音の環境」を残すことでもある。

私たちが海の静けさを考え始めたとき、初めて見えてくる生態系がある。


よくある質問

水中騒音はクジラやイルカだけの問題ですか?

クジラやイルカへの影響が比較的よく研究されていますが、魚類や一部の無脊椎動物も音を感知し、繁殖、採餌、捕食者の回避などに利用しています。海洋生態系全体の問題として考える必要があります。

船舶の音はどのように減らせますか?

船体やプロペラの設計改善、機械振動の抑制、定期的な清掃・整備、航行速度の調整、重要な生息海域を避ける航路設定などが考えられます。

洋上風力発電は海洋生物に悪いのでしょうか?

一律に判断することはできません。特に建設時の杭打ち音などが懸念されますが、立地、施工方法、季節、対策によって影響は異なります。建設前から稼働後まで継続的に調査し、結果に応じて対策を修正することが重要です。

水中騒音は人間にも関係がありますか?

水中騒音が魚類や海洋生態系へ影響すれば、漁業、食料供給、観光、地域文化にもつながります。海洋生物だけに閉じた問題ではありません。


引用・参考資料

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