模様は、指でも読める。——山梨・甲州印伝、鹿革に漆を置く職人の仕事
財布を開くとき、親指が表の模様に触れる。指の腹に沿ってしなる革の上を、漆の小さな盛り上がりがいくつも通り過ぎていく。窓辺で傾けると、その一つひとつに光が留まる。
山梨県甲府市を主な産地とする甲州印伝(こうしゅういんでん)は、鹿革に漆などで文様を施す革工芸だ。代表的な「漆付け」では、しなやかな革と艶のある漆が、一枚の上に異なる手触りをつくる。そのわずかな高低差は、職人が漆を練り、へらを引き、固まるまでの時間を見きわめた跡でもある。 pref.yamanashi.jp
へらを引く前に、漆の調子を見る
染めた鹿革に、文様を手彫りした型紙を重ねる。硬さを調整した漆をへらに取り、型紙の上から均一な厚みになるように刷り込む。型紙を外すと、彫り抜いた部分に漆が残り、革の表面に文様が浮かぶ。季節や天候に合わせて温度と湿度を調整した室(むろ)で漆を固め、柄付けを終えた革を製品の形に裁ち、縫い上げる。 pref.yamanashi.jp
山梨県の取材で、印傳屋上原勇七の漆付け職人・大森幹雄さんは、その日の漆の状態を見て仕事の段取りを決めると話している。冬は湿度が低く、漆が固まりにくい。漆置きの前に、染色を担当した職人に革の状態を聞くこともあるという。型紙を彫る人、革を染める人、漆を置く人。それぞれの仕事が、一枚の革を介してつながっている。 pref.yamanashi.jp
甲州印伝には、藁の煙で革を染める「燻べ(ふすべ)」や、色ごとに型紙を替え、多色の柄を重ねる「更紗(さらさ)」もある。革の地色をつくる煙と、型紙で重ねる色。同じ鹿革から、技法ごとに違う表情が生まれる。 pref.yamanashi.jp
巾着から、毎日手に取る財布へ
山梨県によると、1854年刊行の『甲府買物独案内』には印伝の記述があり、江戸末期にはすでに産地が形づくられていたとみられる。明治期には信玄袋や巾着が内国勧業博覧会で評価され、大正期にはハンドバッグも作られるようになった。1987年には国の伝統的工芸品に指定されている。 pref.yamanashi.jp
持ち歩くものが変わるにつれ、袋物のかたちも変わった。財布や名刺入れの小さな面にも、繰り返しの文様がよく映える。青海波(せいがいは)は、扇形の波が重なり、どこまでも続く海を思わせる。蜻蛉(とんぼ)は、武士の間で「勝虫(かつむし)」と呼ばれ、武具や装束にも使われた柄だ。新しい仕事に就く人へ蜻蛉柄の名刺入れを選ぶなら、文様に励ましを託すこともできる。 INDEN-YA
山梨の山から、工房に届く革
農作物や森林への被害を背景に、山梨県内で捕獲されたニホンジカの皮を、甲州印伝に生かす取り組みがある。そこから生まれた「URUSHINASHIKA(漆な鹿)」では、自治体や猟師、なめし業者、工芸士らが関わり、回収した皮を革に加工して製品へつなげている。印傳の山本の山本裕輔さんは、富士河口湖町で捕獲されたシカの革を使った製品を2019年に展開したと、山梨デザインセンターの講演で紹介している。 URUSHINASHIKA
職人がへらを引くまでには、皮を回収し、しなやかな革に仕上げる人たちの仕事がある。この取り組みをたどると、ひとつの財布が、工房の外にある土地の事情ともつながっていることが見えてくる。
EDITOR’S NOTE
財布を開くたびに、親指は自然と同じあたりに置かれる。たまたまそこに波の文様があれば、いつの間にか指がその起伏を覚える。
型紙を彫った人も、漆の調子を見た人も、財布がどんな手に渡るかは知らない。その人たちの仕事を、使い手は毎日の何気ない動作のなかで受け取っている。
※自治体・事業者の公開資料に基づいて構成しています。
文・構成:三宅雅之/NEOTERRAIN Journal

