三重・伊勢湾のアサリから考える、干潟と「豊かな海」の未来
47都道府県の自然環境問題|三重編
潮が引くと、海の底が少しずつ現れる。
浅い水たまりに空が映り、砂の上を細い流れが曲がっていく。遠くに鳥が立ち、足元には、小さな穴がいくつも開いている。
干潟は、海と陸のあいだにある。
水に覆われる時間と、空気に触れる時間。その両方を行き来する場所で、貝やカニ、小さな生きものたちが暮らしている。
三重県の伊勢湾沿岸では、こうした浅い海が、アサリをはじめとする貝類の漁場になってきた。しかし近年、そのアサリの漁獲量が大きく減少している。mie-u.ac.jp
かつて身近だった海の幸が、身近ではなくなっていく。
その変化をたどると、「海をきれいにする」という言葉だけでは捉え切れない、自然環境の課題が見えてくる。
アサリが育つには、砂浜だけでは足りない
アサリは、砂の中で静かに暮らしているように見える。
けれど、その生活は周囲の水と切り離せない。水を取り込み、えらで呼吸し、餌をこし取る。三重県の資源管理マニュアルでは、伊勢湾のアサリは、干潟から水深3〜5メートルほどの浅い場所に生息すると説明されている。pref.mie.lg.jp
潜れる底があること。
餌が届くこと。
呼吸できる酸素があること。
そして、次の世代が育つこと。
一枚の貝殻の内側にある命は、いくつもの条件が重なって、ようやく続いていく。
だから、海辺に砂が残っているだけでは、アサリが育つとは限らない。
その場所に、暮らしを支える水の動きがあるか。生き延び、成長し、子を残せる環境があるか。
海の豊かさを考えるには、見える地形から、見えない条件へと目を向ける必要がある。
海岸線が変わると、失われる場所がある
伊勢湾では、埋め立てなどによって干潟や浅場、藻場が減少してきた。三重県は、水質に改善傾向が見られる一方、生きものの生息環境は十分に改善されていないと整理している。pref.mie.lg.jp
港や工場、道路が整備された海岸は、地域の産業と暮らしを支えてきた。
その一方で、潮が満ち引きする余地や、生きものが育つ浅い場所が失われた。
ただし、アサリの減少を、すべて埋め立てで説明することはできない。三重県の2011年のマニュアルも、湾奥の大規模な埋め立ての時期と、主に松阪・伊勢地区で顕著になったアサリ減少の時期には隔たりがあり、短期的な因果関係は明確ではないと指摘している。pref.mie.lg.jp
生息場所の減少は重要な問題だ。
しかし、残された場所で何が起きているのかも、別に確かめなければならない。
海岸線を守ることと、そこで命が育つ条件を守ること。その両方が問われている。
深い海の酸素不足が、浅場へ届くこともある
伊勢湾では、例年6月から11月ごろにかけて、底層を中心に酸素が少ない「貧酸素」の状態が発生する。
夏から秋は、温められた表層の水や、川から入る淡水の影響で、上下の水が混ざりにくくなる。その間も底層では、微生物が有機物を分解する際に酸素を使うため、酸素不足が進む。pref.mie.lg.jp
問題は、深い場所だけにとどまらない。
風や潮流によって貧酸素の水が浅場に押し寄せると、魚介類が大量に死ぬ被害につながることがある。pref.mie.lg.jp
潮の引いた干潟と、沖の深い海。
人の目には離れて見える場所が、水の動きによってつながっている。
浅い場所を整えれば、それだけで貝が育つわけではない。沖合の水の状態まで含めて、その浜の環境を考える必要がある。
干潟は、海から独立した小さな庭ではない。
湾全体の変化を受け取る場所でもある。
「栄養が少ない」と「酸素が少ない」は、同じ海で起こる
伊勢湾の課題を難しくしているのは、海の栄養をめぐる問題だ。
窒素やりんなどの栄養塩類は、多すぎれば赤潮や貧酸素化につながる。一方で、植物プランクトンなどを通じて海の生態系を支える、欠かせないものでもある。三重県は、栄養塩類の適切な管理と、生息環境の保全・再生を両輪で進める必要があるとしている。pref.mie.lg.jp
アサリについても、餌の不足が資源減少に関係している可能性が研究されてきた。
2019年に発表された研究では、伊勢湾東部の小鈴谷の漁場を対象にした数値モデルで、2010年ごろ以降、アサリの栄養状態が低迷し、産卵数が減る傾向が予測された。ただし、これは特定の漁場を対象とするモデルの結果であり、そのまま三重県側の全漁場に当てはめることはできない。jstage.jst.go.jp
海域も、水深も、季節も違う。
ある場所で餌が不足しているからといって、湾全体に一律に栄養を増やせばよいとは言えない。底層の酸素不足も、同時に見なければならない。
海の豊かさは、一つの数値を上げたり下げたりするだけでは戻らない。
どこに、いつ、どれだけ必要なのか。その栄養が生きものに使われる環境があるのか。
伊勢湾は、自然を管理することの難しさを、私たちに突きつけている。
干潟は、漁場であり、鳥の食卓でもある
この海辺を利用しているのは、人だけではない。
環境省の「重要湿地」の情報では、雲出川河口や、愛宕川河口から櫛田川河口にかけての一帯が、渡りの時期に多くのシギ・チドリ類が訪れる場所として挙げられている。田中川干潟には、干潟や砂浜、塩性湿地、みお筋など、多様な環境がある。env.go.jp
鳥にとっては、旅の途中で食べる場所。
貝にとっては、水を取り込みながら育つ場所。
漁業者にとっては、日々の仕事をする場所。
子どもにとっては、砂の下に命がいると知る場所。
同じ浜に、異なる生きものの都合と、人の記憶が重なっている。
干潟を残すということは、その重なりを残すことでもある。
アサリの漁獲量は重要な指標だ。しかし、それだけで浜のすべてを評価することもできない。
どんな生きものが戻り、何がまだ戻っていないのか。漁業の回復と、生物多様性の回復を、合わせて見ていきたい。
再生とは、「育つ条件」をつくり直すこと
三重県は、下水処理場での栄養塩類管理運転と効果の検証、藻場・干潟・浅場の保全や再生を進めている。水質と生きものの豊かさを、合わせて考えようとする取り組みだ。pref.mie.lg.jp
ここで大切なのは、何か一つを実施すれば、かつての海がそのまま戻ると考えないことだ。
浜ごとに底質や流れが違う。
餌の届き方も、貧酸素の影響も違う。
資源を残すための漁獲管理も欠かせない。
再生の成果は、工事が終わった日には分からない。
小さな貝が定着したか。
次の季節まで生き残ったか。
成長し、次の世代につながったか。
その時間を追い続けて、初めて見えてくる。
海の再生とは、生きものが暮らしを続けられる条件を、一つずつ確かめ、つくり直していく仕事なのだと思う。
次の潮が満ちる、その前に
潮が満ちれば、干潟は再び水の下へ隠れる。
けれど、見えなくなったあとも、そこには命の時間が続いている。
海辺を歩くとき、拾った貝殻を一枚、手のひらに載せてみる。
その小さな形ができるまでに、どんな水が流れ、何が餌となり、どんな季節を越えたのだろう。
三重のアサリを未来へつなぐことは、食材を一つ守ること以上の意味を持つ。
潮の満ち引きとともに働く人。
海の幸を扱う店。
浜で過ごした日の記憶。
そして、同じ場所を使う鳥や小さな生きもの。
そのつながりを、次の潮へ渡せるか。
伊勢湾の干潟は、私たちが海に何を残せるのかを問いかけている。
EDITOR’S NOTE — NEOTERRAIN
アサリの味噌汁には、海の香りがある。
けれど、その一椀から、貝が育った砂の状態や、海底の酸素まで想像することは、普段あまりない。
食卓に届いた時点で、土地の複雑さは見えにくくなる。
伊勢湾を調べると、「海をきれいにすれば、生きものが戻る」という期待だけでは説明できない現実に出会う。
栄養は、多すぎても少なすぎても問題になる。
干潟があっても、そこで育ち切れるとは限らない。
貝が減った理由も、一つには絞れない。
複雑なものを、複雑なまま扱う。
それは、答えを曖昧にすることではない。場所や季節による違いを確かめ、分かっていることと、まだ分からないことを分けながら、関わり続けることだと思う。
次にアサリを口にするとき、その向こうに、潮の引いた浜を思い浮かべてみたい。
一枚の貝殻には、土地と海がつくった時間が入っている。
参考資料
- 三重県「伊勢湾の現状」
- 三重県水産研究所「三重県アサリ資源管理マニュアル〈改訂版〉」(2011年3月)
- 三重県水産研究所「伊勢湾貧酸素情報」
- 三重県「きれいで豊かな海の実現に向けた取組」
- 土木学会論文集B2(海岸工学)「数値シミュレーションを用いた伊勢湾におけるアサリの餌料不足に関する一考察」(2019年)
- 環境省「『重要湿地』No.303 伊勢湾」
※公開資料・研究論文に基づく記事です。冒頭などの情景表現は、現地取材の記録ではありません。

