一日中働いた。
身体は重い。
目も疲れている。
「今日はすぐ眠れるだろう」
そう思ってベッドに入ったのに、なぜか眠れない。
明日の仕事。
今日言われた一言。
返信していないメール。
これからの予定。
昼間にはそれほど気にならなかったことまで、暗い部屋の中で次々と頭に浮かんでくる。
身体は疲れている。
それなのに、脳は眠ろうとしてくれない。
これは、単純に「疲れが足りない」からなのでしょうか。
実は、人間の睡眠を考えるとき、
「疲れていること」と「眠れること」は、必ずしも同じではありません。
そこには、人間が長い時間をかけて獲得してきた「覚醒」という仕組みが関係しています。
疲労と覚醒は、同時に存在できる
私たちは感覚的に、
疲れる
↓
眠くなる
↓
眠る
という一本の流れで身体を考えがちです。
しかし実際の睡眠は、それほど単純ではありません。
睡眠研究では、不眠を理解する重要な概念のひとつとして「過覚醒(hyperarousal)」が研究されています。
これは、身体的には疲れていても、脳や心理的なシステムが比較的高い覚醒状態を保っている状態です。
近年のレビューでも、不眠には生理的な覚醒だけでなく、脳皮質の活動や「心配・考え続ける」といった認知・感情面での覚醒が関係していることが指摘されています。
つまり、
「疲れている身体」と「起きていようとする脳」は、同時に存在し得る。
ここが、人間の睡眠のおもしろいところです。
そもそも「覚醒」は悪者ではない
では、なぜ人間にはこんな仕組みがあるのでしょう。
少し想像してみます。
現代のような安全な住宅も、鍵も、照明もなかった時代。
夜の暗闇には、さまざまな危険が存在しました。
身体が疲れているからといって、危険を察知している最中に眠り込んでしまえば、生存には不利です。
そのため人間の身体には、睡眠だけではなく、周囲の状況に応じて覚醒を維持する複数の仕組みがあります。
現代の不眠研究でも、ストレスと覚醒、睡眠の関係は重要な研究領域になっています。ストレスによって睡眠が乱れやすい「睡眠反応性(sleep reactivity)」には個人差があり、心配や反すうなどの認知・感情反応とも関係すると考えられています。
覚醒そのものは、人間にとって必要な能力なのです。
問題は、
現代社会では「危険」の姿が変わったことです。
現代人を起こしているのは、猛獣ではない
夜、私たちの家の外に猛獣がいることは、ほとんどありません。
しかし脳が処理しなければならない情報は大量にあります。
仕事。
人間関係。
お金。
SNS。
ニュース。
通知。
将来への不安。
そしてスマートフォンを閉じた瞬間にも、
「明日の会議、大丈夫かな」
「さっきの返事、まずかったかな」
と考え始める。
現代の脳にとってのストレスは、必ずしも目の前に存在する物理的な危険ではありません。
頭の中だけでも、覚醒は続くことがあります。
不眠研究では、こうした「心配する」「考え続ける」といった認知・感情面の過覚醒についても、多くの研究があります。
身体はベッドにいる。
部屋も安全。
それでも脳の一部では、
「まだ休む時間ではない」
という状態が続いている可能性があるわけです。
「眠らなければ」が、さらに眠りを遠ざけることもある
ここでもう一つ、不思議なことが起こります。
時計を見る。
午前1時。
「あと6時間しかない」
さらに時計を見る。
午前2時。
「まずい。明日の仕事に響く」
すると、
眠ることそのものが課題になります。
睡眠をめぐる心配や反すうが覚醒と関連することは、不眠研究でも指摘されています。
「眠りたい」という気持ちが強くなり、
「眠れなかったらどうしよう」
という別の心配が生まれる。
眠るためにベッドへ入ったはずなのに、いつの間にかベッドが「眠れるかどうかを確認する場所」になってしまう。
人間の身体には、そんな少し皮肉な一面があります。
同じストレスでも、眠れる人と眠れない人がいる
ここも重要です。
大きな仕事の前日でもぐっすり眠れる人がいれば、ちょっとした予定があるだけで眠れなくなる人もいます。
研究では、ストレスによってどれだけ睡眠が乱れるかという「睡眠反応性」には個人差があることが示されています。
遺伝的要因、家族歴、環境ストレスなど複数の要因が関係している可能性が研究されており、単純に「精神的に強い・弱い」という話ではありません。
人間の身体は、全員が同じ設定で作られているわけではないのです。
身体は、現代社会よりずっと古い
ここから見えてくるのは、一つの興味深い構図です。
私たちを取り巻く環境は、猛烈な速度で変化しました。
電気がある。
24時間働ける。
世界中から情報が届く。
夜でも買い物ができる。
ベッドの中から仕事もできる。
しかし、人間の身体そのものが、それと同じ速度で変わったわけではありません。
私たちは極めて現代的な社会の中で、
長い進化の歴史を背負った身体を使って生活しています。
だから、
「身体は疲れているのに眠れない」
という現象を、単なる身体の失敗として見る必要はないのかもしれません。
身体には身体なりの理由がある。
健康を「正解」ではなく「仕組み」から見る
健康情報には、
「○○を食べるといい」
「○時間眠るべき」
「これをすると健康になる」
といった答えがあふれています。
もちろん、役に立つ情報もあります。
しかしNEOTERRAINでは、その一歩手前にある問いを考えてみたいと思います。
なぜ、人間の身体はそうなっているのか。
睡眠。
食欲。
運動。
ストレス。
老化。
記憶。
体温。
痛み。
私たちが毎日当たり前のように使っている身体には、まだ知らない仕組みがたくさんあります。
健康とは、身体に「正しいこと」をさせるだけではなく、
自分たちがどんな生き物なのかを知ることから始まるのかもしれません。
次に眠れない夜が来たら、少しだけ身体の見え方が変わるかもしれません。
身体は疲れている。
でも脳のどこかでは、
まだ世界を警戒している。
人間の身体は、私たちが思っている以上に、長い歴史を背負っているのです。
参考資料
- Dressle R, Riemann D. “Hyperarousal in insomnia disorder: Current evidence and potential mechanisms.” Journal of Sleep Research, 2023.
- Kalmbach DA, et al. “Hyperarousal and sleep reactivity in insomnia: current insights.” Nature and Science of Sleep, 2018.
- Riemann D, et al. “The hyperarousal model of insomnia: a review of the concept and its evidence.” Sleep Medicine Reviews, 2010.
※本記事は健康・睡眠に関する一般的な科学情報を紹介するもので、個別の診断や治療を目的としたものではありません。睡眠の問題が長期間続く場合や日常生活に支障がある場合は、医療機関など専門家への相談をご検討ください。

