東京や大阪のような巨大市場があるわけではない。
人口規模も大きくなく、四国の東端に位置し、県土の多くを山地が占めている。
それにもかかわらず、徳島県からは、大塚グループと日亜化学工業という世界規模の企業が生まれた。
大塚グループは医薬品、食品、化学の分野で世界へ展開し、日亜化学工業は高輝度青色LEDの開発と量産化によって、照明、ディスプレー、自動車、スマートフォンなど、世界の産業構造を変えた。
なぜ、徳島だったのか。
二社の成功を、創業者や技術者の才能だけで説明することはできない。そこには、徳島という土地が長い時間をかけて培ってきた、独特の産業構造がある。
洪水を藍へ変える。
塩田の残渣を化学原料へ変える。
石灰石を蛍光体へ変え、光へ変える。
徳島の産業史を貫いているのは、恵まれた資源をそのまま売る発想ではない。
不利な条件、余ったもの、見過ごされていた素材を、技術によって別の価値へ変換する力である。
洪水という弱点を、阿波藍へ変えた
徳島の産業を考えるとき、原点にあるのは吉野川である。
吉野川は、四国山地から大量の水と土砂を運び、徳島平野を形成した。一方、近代的な治水が進む以前にはたびたび氾濫し、流域の暮らしを脅かしてきた。
稲は、収穫前に洪水に襲われれば大きな被害を受ける。
しかし藍は、台風が本格化する前に刈り取りを終えることができた。さらに洪水が運ぶ肥沃な土は、同じ土地で栽培を続けることが難しい藍の連作を助けた。
つまり徳島の人々は、洪水を完全に排除できない環境の中で、その土地に適した作物を選び、災害の条件そのものを産業へ読み替えたのである。徳島県「阿波藍」
阿波藍が全国市場を支配するようになった背景には、徳島藩による保護と品質向上、大阪周辺での綿花栽培の拡大、吉野川の舟運、そして大阪・江戸へ向かう海上交通があった。
徳島でつくられた藍は、徳島の中だけで消費されたのではない。
地域外の大きな市場へ運び出され、全国の商品経済の中で価値を持った。
ここに、後の徳島産業にも通じる構造が見える。
地域にある条件を見つけ、加工技術によって価値を高め、県外市場へ送り出す。
徳島は、地域内の需要だけで成長した土地ではなかった。外の市場を見ながら、地域の内部に技術と富を蓄積してきたのである。
阿波藍が残したのは「色」だけではない
阿波藍の繁栄は、染料という商品だけを残したのではない。
藍師、藍商、職人、船頭、倉庫業、金融、流通など、多くの仕事を生み出した。脇町のうだつの町並みに象徴されるように、藍によって蓄積された富は、建築、芸能、祭り、教育、商業文化へと広がっていった。
重要なのは、徳島が早い時期から「生産地」であると同時に「商業地」でもあったことだ。
良いものをつくるだけでは市場には届かない。
品質を統一し、信用を築き、価格を決め、遠隔地へ運び、継続して取引する必要がある。
阿波藍によって培われたのは、ものづくりの技術だけではなく、地域資源を全国市場へ接続する商業感覚だった。
もちろん、阿波藍と現代の大塚グループ、日亜化学工業の間に直接的な企業系譜があるわけではない。
しかし、「地域の素材に技術を加え、外の市場へ届ける」という産業の型には、共通性が見える。
塩田の残りものから始まった大塚グループ
鳴門周辺では、温暖で比較的雨の少ない気候と海岸地形を利用し、製塩業が発展した。
塩をつくる過程では、「にがり」と呼ばれる塩田残渣が生まれる。
現在でいえば、副産物である。
1921年、大塚武三郎は徳島県鳴門に大塚製薬工業部を設立した。創業時の社員は10人。事業は、塩田残渣から炭酸マグネシウムを製造することから始まった。大塚グループ「100年企業として」
ここにも徳島的な「変換」がある。
塩そのものではなく、製塩後に残ったにがりへ目を向ける。
不要と見なされるものから成分を取り出し、医薬品に使用できる規格の化学原料へ変える。
そのためには、経験や勘だけではなく、成分の管理、品質の安定、製造工程の標準化が必要になる。
大塚はその後、化学原料から注射液、輸液、医薬品、食品へと事業を広げていった。1971年には徳島工場内に自社創薬の研究室を設置し、地方の製造拠点から、独自の研究開発を行う企業へ進んでいく。
大塚グループの出発点は、最初から巨大な市場を持っていたことではない。
地域に存在していた小さな副産物を見つけ、それを高い品質が要求される領域へ持ち込んだことにある。
石灰石が、世界を照らす光へ変わった
日亜化学工業もまた、地域資源の読み替えから始まっている。
創業者の小川信雄が着目したのは、徳島で産出される石灰石だった。
石灰石を医薬原料となるカルシウム製品へ活用し、そこから蛍光体へと技術領域を広げていった。蛍光体とは、外部から受けたエネルギーを光に変える材料である。
この蛍光体技術の蓄積が、後のLED事業につながる。
1993年、日亜化学工業は高輝度青色LEDの開発に成功し、同時に量産販売を開始した。1996年には、青色LEDと創業以来の技術である蛍光体を組み合わせ、白色LEDを実現した。日亜化学工業「わたしたちのあゆみ」
青色LEDだけを単独で見ると、突然現れた最先端技術のように見える。
しかし、その背景には、石灰石からカルシウム製品へ、カルシウム製品から蛍光体へ、蛍光体からLEDへと、材料技術を一段ずつ深く掘り下げてきた歴史がある。
日亜化学工業自身も、徳島の石灰石から始まった技術が、蛍光体、LED、半導体レーザー、リチウムイオン電池用正極材料へ広がったと説明している。日亜化学工業「NICHIAについて」
地元の石を、そのまま建材として売るのではない。
成分を抽出し、材料へ変え、さらに世界市場で必要とされる高度な製品へ変える。
これもまた、阿波藍や大塚グループと共通する「変換の産業」である。
徳島の産業は、なぜ狭く深くなるのか
徳島県には、巨大な地域市場がない。
大量の商品を県内だけで販売し、規模を拡大していくことには限界がある。
だから徳島の企業は、最初から県外市場を意識せざるを得なかった。
全国で必要とされる医薬品。
世界で必要とされるLED。
他社が簡単には追随できない素材、部品、装置。
人口の少ない地域で企業が成長するには、地域内の消費量に依存しない商品を持つ必要がある。
その結果、徳島では幅広い分野を浅く扱うのではなく、狭い分野を深く掘り、県外や海外へ販売する企業が育った。
県のものづくり基本計画によると、徳島県の化学工業の製造品出荷額は約6,109億円で、県内製造業の約34%を占める主要産業となっている。徳島県「第2期徳島県基本計画・ものづくり分野」
徳島は一般的なイメージ以上に、農業県ではなく「素材と化学の県」なのである。
ここから、徳島型産業に共通する三つの特徴が見えてくる。
一つ目は、地域にある素材や副産物から出発すること。
二つ目は、加工と研究によって、原料とは異なる高付加価値製品へ変換すること。
三つ目は、最初から県外・海外市場を目指すことだ。
阿波藍、医薬品、LEDは時代も技術も異なる。
しかし、土地にあるものを見つけ、技術で深く掘り、外の市場へ届けるという構造は共通している。
「世界企業がある県」と「産業が強い県」は同じではない
ただし、大塚グループや日亜化学工業が存在するからといって、徳島県全体の産業基盤が自動的に強くなるわけではない。
地域経済が少数の大企業に強く依存すれば、その企業の業績、投資判断、技術転換が県内雇用や税収へ大きな影響を与える。
また、世界企業が生み出した技術や人材が、地域の中小企業、大学、スタートアップ、新産業へ十分に広がらなければ、企業の強さと地域の強さは切り離されたままになる。
もう一つの課題は人材である。
徳島経済研究所の分析では、2023年の20〜24歳の転出超過は男性539人、女性750人だった。進学や就職で県外へ移動した若者が、その後も戻らない傾向が強まっている。徳島経済研究所「若年層の流出と地方の未来」
世界レベルの企業がありながら、若者は県外へ流出する。
ここに徳島の矛盾がある。
問題は、魅力ある企業が一社もないことではない。
特定の企業以外にも、多様な職業、研究テーマ、起業機会、生活の選択肢が見える地域をつくれているかどうかである。
一社の技術を、地域の産業へ広げられるか
徳島県は、日亜化学工業を中心に形成された光技術の蓄積を、地域全体の産業へ広げようとしている。
徳島大学には、次世代光源の開発や応用研究を行う「ポストLEDフォトニクス研究所」が設置されている。県、大学、阿南工業高等専門学校、企業、金融機関などが連携し、深紫外光、赤外光、テラヘルツ光、医療と光技術の融合など、LEDの次を担う研究と人材育成を進めている。
県の計画では、光関連産業の生産額を2017年の4,500億円から2027年に6,290億円へ拡大し、雇用者数も1万1,200人から1万6,500人へ増やす目標が掲げられている。徳島県「次世代“光”創出・応用による産業振興」
さらに徳島県は、LEDや電子材料で培った技術を生かし、蓄電池関連産業を新たな柱とする「徳島バッテリーバレイ構想」を進めている。2026年4月にも推進会議が開かれ、企業誘致、人材育成、研究開発などが検討されている。徳島県「徳島バッテリーバレイ構想推進会議」
重要なのは、工場を一つ誘致することだけではない。
材料、製造装置、検査、設計、物流、データ解析、リサイクルまで含めた産業の連鎖を、地域内につくれるかどうかである。
日亜化学工業という一本の大樹の周囲に、大学、中小企業、研究者、起業家という森を育てる。
それができて初めて、企業の成功が地域の持続性へ変わる。
技術を地域課題と結び直す
徳島が持つ光や化学の技術は、世界市場だけでなく、徳島自身が抱える課題にも応用できる。
山間部の医療や見守り。
農産物の品質検査。
インフラの老朽化診断。
水質や森林環境の監視。
災害時の分散型電源。
高齢化が進む地域でのヘルスケア。
こうした課題は、人口減少地域にとって負担である。一方、世界の多くの地域が今後直面する課題でもある。
徳島を単なる新技術の生産地ではなく、「人口減少社会で技術をどう使うか」を検証する場所にできれば、地域課題そのものが新しい産業の入口になる。
阿波藍が洪水という弱点から生まれたように、人口減少、高齢化、山間地域、防災という現在の弱点も、別の価値へ変換できる可能性がある。
徳島が受け継いできた「変換する力」
徳島県の産業史は、豊富な資源に恵まれた土地の成功物語ではない。
むしろ、与えられた条件の中から、まだ価値が認識されていないものを見つけてきた歴史である。
洪水の起きる土地から、阿波藍を生み出した。
塩田に残ったにがりから、化学原料と医薬品を生み出した。
地域の石灰石から蛍光体をつくり、世界を照らすLEDへつなげた。
そこにあるものを、そのまま売らない。
観察し、分解し、加工し、技術と物語を加え、外の市場へ届ける。
それが徳島の産業地政学である。
次に求められるのは、大塚や日亜に続く「第三の大企業」を偶然待つことではない。
地域企業、大学、行政、金融、若い技術者がつながり、小さな研究や事業がいくつも生まれる環境をつくることだ。
徳島は、四国の端だから世界から遠いのではない。
地域市場が小さいからこそ、最初から世界を見る必要があった。
阿波藍から医薬品へ。
石灰石からLEDへ。
そして光から、次世代エネルギーへ。
徳島の未来をつくるのは、新しい資源を探すことだけではない。
すでにそこにあるものを、まだ誰も見たことのない価値へ変える力なのである。

