「矢を十万本、用意してほしい」
そう命じられたら、多くの人は、職人を増やす、材料を集める、作業を急がせる、と考えるだろう。だが『三国志演義』の諸葛孔明は、別の答えを出した。矢を作る代わりに、敵に射たせたのである。
この「草船借箭(そうせんしゃくせん)」の話は、マーケティングで混同されがちな二組の言葉を考えるのにちょうどいい。戦略と戦術。そして、ニーズとインサイト。
「十万本の矢を作れ」という難題
小説『三国志演義』第四十六回。曹操軍との戦いを前に、呉の周瑜は孔明に十万本の矢を用意するよう求める。しかも孔明は、三日で届けると約束する。
通常の発想なら「どうすれば三日で十万本を製造できるか」を考える。しかし孔明が考えたのは、「どこから十万本を手に入れるか」だった。
孔明は魯粛に船を用意してもらい、船の両側に草を束ねる。濃霧の夜、曹操軍の陣へ近づくと、敵は姿の見えない船に矢を射かける。草には矢が次々と刺さり、孔明は船を戻して矢を持ち帰る。
「千本の矢」のような印象で語られることもあるが、原作で求められる数は十万本だ。また、孔明が実際にこの計を行った史実として紹介する話ではない。ここでは『三国志演義』の物語を思考の題材として扱う。
戦術は「草を束ねた船」。戦略は「製造競争から降りる」
孔明の行動を、目的から順に分解してみよう。
| 層 | 草船借箭の物語 | 問い |
|---|---|---|
| 目的 | 三日以内に十万本の矢を確保する | 何を達成したいか |
| 戦略 | 自軍での製造に頼らず、敵の矢を自軍の資源に変える | どの条件で目的を達成するか |
| 戦術 | 霧の日を選び、草を束ねた船で敵陣へ近づき、矢を受け止める | 具体的に何を実行するか |
ここで面白いのは、孔明が「矢を作る」という指定されたやり方を、目的そのものだとは捉えなかったことだ。必要なのは製造の実績ではなく、使える矢である。だから、材料と職人の不足を補う競争から降り、相手の行動を利用する道を選べた。
戦略とは、どこで、どんな条件なら目的を達成できるかを選ぶこと。戦術とは、その選択を現場で形にする具体的な方法である。「船を出す」だけでは戦略にならない。なぜその船で、なぜその夜に、なぜ曹操軍へ向かうのか。それを説明する選択が戦略だ。
もちろん戦略と戦術の境界は、見る範囲によって変わる。草船借箭は赤壁をめぐる大きな戦いから見れば一つの計略でも、矢の調達という課題に絞れば、「自軍で作らず敵から得る」という戦略と、その実行方法に分けて考えられる。
ニーズは「矢が欲しい」。インサイトは、なぜ別の道が開けたか
では、ニーズとインサイトはどう違うのか。
この物語でのニーズは明白だ。「戦いに使う矢が十万本必要」。ただ、それを知っているだけなら、製造を急ぐ発想から抜けにくい。
孔明が利用したのは、「霧で敵の姿が見えないとき、曹操軍は不用意に船へ近づかず、遠くから矢を射かけるだろう」という相手の行動についての読みだ。だから、矢は敵の側にあっても、条件を整えればこちらに届く。この行動を説明し、解決方法を変える発見が、マーケティングでいうインサイトに近い。
ただし軍事的な駆け引きと顧客理解は同じではない。ここで借りるのは「表面の要望だけでなく、行動を生む条件を見る」という思考の形だ。
顧客のニーズは、求める状態や解決したい課題。インサイトは、言葉や行動の食い違いを読み解き、なぜ選ぶのか、なぜ選べないのかを説明して、打ち手を変える発見である。必ずしも本人が自覚していない「隠れた本音」に限らない。観察から立てた仮説なら、確かめる必要もある。
オイシックスは「時短」の先に何を届けているか
この違いを、実在の商品で考えてみよう。オイシックスの「Kit Oisix」は、必要な量の食材とレシピをセットにし、主菜と副菜の二品を約20分で作れるミールキットとして紹介されている。ここで見えるニーズは、忙しい日の買い物、献立決め、調理の負担を減らしたいということだ。商品が実際に備える機能は、食材の適量、レシピ、短い調理時間である。
だが、単に「もっと速く食べたい」だけなら、調理済みの弁当を買う道もある。それでも、食材とレシピを受け取り、自分で仕上げる商品を選ぶ人がいるのはなぜだろう。
ここから先はNEOTERRAINによる商品設計の読み解きだ。「家事の負担は減らしたい。でも、家族と食べる料理を自分で作りたい」「献立には悩みたくない。でも、食卓を選ぶ楽しさは残したい」。こうした両立しにくい気持ちが、一つのインサイトの仮説になる。オイシックスが公式に発表した顧客心理や、全利用者に共通する動機だと断定するものではない。
この仮説で商品を見ると、食材をすべて完成品にして届けない理由にも意味が生まれる。面倒な調達や献立づくりは引き受けながら、最後の調理は生活者に残す。省きたい手間と、残したい手間を分けていると読めるのだ。
| 問い | Kit Oisixを題材にした整理 |
|---|---|
| ニーズ | 忙しい日も夕食を無理なく用意したい |
| インサイトの仮説 | 負担は減らしたいが、自分で食卓を仕上げる感覚は残したい |
| 戦略の読み解き | 完成品の便利さだけを競わず、手軽に調理して食べる体験を届ける |
| 実際に見える戦術 | 必要量の食材とレシピをセットにし、短時間で主菜と副菜を作れるようにする |
オイシックスは別の「手仕事Kit Oisix」でも、梅シロップなどの材料や道具、作り方をまとめ、買いそろえる負担を減らしながら、親子で作る工程を楽しめるようにしている。時短だけでは説明しきれない「手を動かす価値」が、商品設計の中に見える。
顧客のニーズを「時間がない」で止めれば、答えは工程を削ることだけになりやすい。何に時間を使いたくなくて、何には時間を使いたいのか。その違いが見えたとき、届ける価値が変わる。
「SNSを強化する」の前に、何を問うか
会議で「SNSを強化しよう」と言ったとき、それは孔明の物語なら「船を増やそう」と言っている段階かもしれない。船が必要かどうかは、矢をどう得るかを決めて初めて判断できる。
実務では、次の順番で問い直せる。
- 顧客は何を実現したいのか。——ニーズ
- 顧客の言葉と行動の間に、どんな理由があるのか。——インサイトの仮説
- その理解を基に、どこで、どんな価値によって選ばれるのか。——戦略
- その価値を届けるため、何を作り、どこで伝えるのか。——戦術
もちろん、発信した後の反応が仮説と違えば、理解も戦略も見直す。四つの箱に言葉を収めることより、判断がつながっているかが大切だ。
NEOTERRAINが現場の声や土地の文脈を見ようとする理由も、ここにある。表面の要望は同じでも、そこに至る事情は一つではない。言葉と行動の小さな食い違いを見逃さないことで、初めて別の届け方が見えてくる。
孔明の面白さは、草を積んだ船という奇抜な道具だけにない。「矢を作る」という問いを、「矢を得る」に変えたことにある。
戦術を磨く前に、問いの立て方を変えられるか。そこに、マーケティングをクリエイティブにする余地がある。
参考資料
- 『三國演義 第四十六回』草船借箭の原文
- Harvard Business Review, The Strategy Choice Cascade
- American Marketing Association, Marketing Insights Explained
- オイシックス・ラ・大地、「手仕事Kit Oisix」シリーズの発表(Kit Oisixの商品概要と手仕事シリーズの設計)
NEOTERRAIN JOURNALでは、マーケティングやクリエイティブ、社会の変化を、表面的な手法ではなく、その背景にある構造から読み解いています。
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