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水を引くことは、誰と交渉することか|銅山川分水から読む愛媛・徳島の地政学

山々の間を川が流れ、遠方に工業地帯が見えるイメージ。「その水には、下流がある。」の文字入り
山々の間を川が流れ、遠方に工業地帯が見えるイメージ

ティッシュを一枚引き抜く。何気ない動作の向こうに、愛媛県四国中央市の紙工場がある。さらに工場で使う水をたどれば、法皇山脈を越えて銅山川に行き着く。

銅山川は吉野川の支流だ。自然の流れに任せれば、その水は下流の徳島県へ向かう。しかし分水によって、一部は山を越え、瀬戸内海側の宇摩平野へ送られてきた。水を必要とする愛媛側から見れば産業を支える事業であり、下流の徳島側から見れば、流れの変化を引き受ける事業だった。[1][2]

前回は、銅山川の水と三島川之江港が「紙のまち」をどう支えたかを追った。今回は、その水を使うまでに必要だった合意と、使い続けるために残る調整に目を向ける。

Contents

地図の境界と、水の境界は一致しない

四国中央市の海岸部は、大きな河川に恵まれず、古くから水不足に悩んできた。県によれば、山の向こうを流れる銅山川からトンネルで水を引く発想は、江戸時代にさかのぼる。[1]

しかし、トンネルを掘れることと、水を使う合意が得られることは別だ。銅山川から流域外へ分水すれば、下流へ向かう水の条件が変わる。国土交通省四国地方整備局の資料によれば、愛媛・徳島両県は1936年の第1次から1958年の第5次まで、23年間にわたって五度の分水協定を結んだ。[2]

ここでの地政学は、遠い国境の話ではない。地図に引かれた県境と、川の水が流れる境界が違う。そのずれが、農業用水、発電、工業用水、洪水への備えという複数の利害を同じ交渉の場へ運んだ。

合意は一度で完成しなかった

1953年に柳瀬ダムが完成しても、分水をめぐる調整は終わらなかった。愛媛県生涯学習センターが公開する県史資料には、1956年、協定を超える取水があるとして徳島県が抗議した経緯が記されている。[3]

両県はその後、会談を重ね、国の地方建設局のあっせんを受けた。1958年の第5次協定では、一定の貯水位を条件とした農業用水の繰り越し使用、異常渇水時の三者協議、施設管理の委託、補償金の支払いなどが取り決められた。同資料は、柳瀬ダムの貯留量を増やし、徳島側への調整放流も行える仕組みになったと説明している。[3]

この経緯から見えるのは、「水を渡すか、渡さないか」という二択ではない。どの水位を判断基準にするか。渇水時には誰が集まって決めるか。設備を誰が管理し、相手側が負う影響をどう扱うか。合意は、運用するための具体的な条件へ分解されていた。

企業間の共同事業でも、契約成立をゴールにしてしまうと、需給が変わったときに行き詰まる。銅山川の協定史は、平常時の配分と、例外時の判断手順を同時に設計することの重さを教える。

大王製紙の歴史を重ねると、水の意味が変わる

この地域の企業史を一つ重ねると、インフラと事業の関係がさらに具体的になる。大王製紙は1943年、四国紙業など14企業の合同によって設立された。会社の沿革によれば、1947年には創業者の井川伊勢吉が銅山川の流れを見たことをきっかけに、疎水事業への取り組みが始まったという。ただし、分水は一企業だけで実現した事業ではない。両県の合意、行政による建設、地域の長年の構想があってこそ実現した。[6][1][2]

同社は戦後、和紙から洋紙へ転換し、1950年に新聞用紙市場へ本格参入。柳瀬ダム完成後の1954年にはクラフトパルプ設備を新設し、1956年には川之江の工場設備を取得した。[6] 紙をつくる技術と水の供給能力が、企業の生産拡大と同じ時代に積み重なっていった。

その後は港の役割も大きくなる。1967年には北米から木材チップを運ぶ専用船が三島港に入り、1974年には三島新工場が完成した。1979年には「エリエール」でティシューペーパーとトイレットペーパーの市場へ進出する。[7] 原料を海から運び、水を山から引き、新聞用紙や板紙で培った製紙技術を家庭向けの商品へ広げた歴史だ。

ここから読み取れる経営上の示唆は、インフラが成長を自動的に生むわけではない、ということだ。水の確保を、生産設備、原料調達、販売する製品の転換へ結びつけて初めて、地域の条件は企業の競争力になる。一方で、企業の操業がその水に依存するほど、県境を越えた配分や渇水への対応も事業と切り離せなくなる。

産業の成長と、下流の川の状態

その後、吉野川総合開発計画と新宮ダムの整備によって、水利用の構造はさらに変わった。徳島県議会の2015年の審議記録では、県職員が、第5次協定で確保していた下流への放流について、計画上は早明浦ダムが肩代わりする方針となり、1975年の新宮ダム完成後、銅山川の徳島県側の一部区間は水が極めて少ない状態になったと説明している。[4]

同じ記録では、河川環境を改善するための放流や試験運用も説明されている。これは2015年時点の審議で示された徳島県側の説明であり、現在の全区間の流量を示すものではない。それでも、必要な水量を別の場所で補うことと、元の川に水が流れることは、同じではないという論点を浮かび上がらせる。[4]

愛媛側の工場には水が届く。下流側には河川環境への関心が残る。一つのインフラが生む利益と影響は、同じ場所には現れない。調達先の外で起きる変化まで見なければ、事業の全体像を捉えられない。

ダムがあっても、供給は保証されない

水を引く設備が完成すれば、いつでも計画どおり使えるわけではない。国土交通省四国地方整備局の2005年の資料は、1977年から2004年までの28年間に銅山川で37回の取水制限があり、そのうち23回は10%以上だったとまとめている。これは当時までの集計であって、現在の頻度を示す数字ではない。[2]

より近い例では、2023年秋から2024年春にかけての渇水時、銅山川では工業用水25%の取水制限が始まり、後に工業用水30%、上水10%へと強化された。水資源機構の記録による事実であり、この数字だけから個々の工場の減産規模までは判断できない。[5]

ただ、経営上の問いは明確だ。供給が25%減ったとき、工程ごとの水使用量を把握しているか。優先して守る製品は何か。再利用や貯留、操業調整はどこまで可能か。取引先へいつ、何を伝えるか。

インフラへの接続と、供給途絶への備えは別の仕事である。 水を得た産業集積は、その水に依存する産業集積でもある。

ビジネスに引き寄せる、三つの問い

銅山川分水を一般的な「交渉の成功例」として片づけることはできない。合意の内容は時代とともに変わり、河川環境や渇水をめぐる論点も続いてきた。だからこそ、事業を設計する立場には次の三つの問いが残る。

第一に、資源の調達先だけでなく、調達によって影響を受ける相手を把握しているか。 水なら下流域。電力なら供給網と立地地域。原材料なら生産地と物流の結節点。請求書に現れない相手も、事業の継続に関わっている。

第二に、合意を動かすための条件を決めているか。 数量や価格に加え、不足時の優先順位、判断基準、情報共有、第三者の役割が必要になる。1958年の協定で水位や異常渇水時の協議が明記されたことは、その具体例だ。[3]

第三に、平常時の効率が途絶時の弱さを隠していないか。 安定供給を前提に設備や生産を拡大するほど、取水制限は経営課題になる。依存度の見える化と代替策の検討は、拡大の後ではなく、拡大とともに進めたい。

これらは銅山川の史実から導く経営上の問いであり、特定企業の対策や成果を示すものではない。

一枚の紙は、川の下流までつながっている

四国中央市の紙産業を支えたのは、製紙技術、港、そして山の向こうから引いた水だった。さらに水の流れを追うと、両県の協定、国のあっせん、渇水時の調整、下流の河川環境が現れる。

工場の敷地に水が届けば、調達は完了したように見える。しかし、事業を長く続けるための地図は、敷地の外まで描かなければならない。

ティッシュを一枚引き抜く。その紙をつくる水の先には、山を隔てて暮らす人々と、下流へ続く川がある。


参考資料

[1] 愛媛県「愛媛の水事情――主な水資源開発の歴史」
[2] 国土交通省四国地方整備局「柳瀬ダムと銅山川分水」『四国技報』2005年
[3] 愛媛県生涯学習センター「銅山川分水問題」
[4] 徳島県議会「環境対策特別委員会」2015年10月7日議事録
[5] 水資源機構「令和5年10月から令和6年7月の渇水」
[6] 大王製紙「歴史・沿革(1920~1950年代)」
[7] 大王製紙「歴史・沿革(1960~1970年代)」

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