日本の山は、遠くから見ると今も美しい。
緑に覆われた稜線。
季節ごとに色を変える森。
観光地で出会うシカの姿は、どこか穏やかで、自然の豊かさを象徴しているようにも見える。
けれど、その森の中へ一歩入ると、違う風景が広がっている場所がある。
地面を覆っていたはずの草がない。
若い木の芽が育たない。
木の皮が剥がされ、斜面の土がむき出しになる。
雨が降れば、表土は流れ、森は少しずつ保水力を失っていく。
いま日本各地で、シカによる森林被害が深刻な問題になっている。
これは単に「動物が増えすぎた」という話ではない。
人間が山を使わなくなり、里山の管理が弱まり、狩猟者が減り、気候や土地利用も変わってきた。
その積み重ねの中で、シカと森と人間の関係が大きく崩れはじめている。
シカが食べるのは、森の未来である
シカは草や若い木の芽、樹皮などを食べる。
一見すると、自然の中で当たり前に見える行動だ。
けれど、個体数が増えたり、一定の場所に多く集まったりすると、森の更新そのものに影響が出る。
森は、古い木が倒れ、光が入り、そこに若い木が育つことで世代交代していく。
しかし、芽生えたばかりの木や下草がシカに食べ続けられると、次の森をつくる植物が残らない。
大きな木は立っている。
だから遠くから見れば、森はまだ森に見える。
しかし足元には、次の世代が育っていない。
それは、静かに未来を失っている森とも言える。
下草が消えると、山は水を抱えられなくなる
森にとって、下草や低木は単なる「緑」ではない。
雨粒が直接地面を叩くのをやわらげ、土をつかみ、微生物や昆虫のすみかとなり、森全体の水循環を支えている。
この足元の植物が失われると、土壌はむき出しになる。
そこに強い雨が降れば、表土は流れやすくなる。
表土が流れれば、植物はさらに育ちにくくなる。
植物が育たなければ、森はますます土を守れなくなる。
つまり、シカの食害は「木が食べられる」だけの問題ではない。
森の保水力、水源、土砂流出、川や海への影響にもつながっていく。
山の問題は、山だけで終わらない。
森から流れ出た土砂や栄養の変化は、川を通じて海へ届く。
海岸侵食や河口環境、漁場の変化とも無関係ではない。
海を守るためには、山を見なければならない。
山を守るためには、人間の暮らし方を見直さなければならない。
なぜシカは増えたのか
シカが増えた背景には、いくつもの要因が重なっている。
ひとつは、狩猟者の減少と高齢化。
かつては地域の中に、山に入り、獣を獲り、個体数を一定に保つ役割を担う人たちがいた。
しかし、人口減少や高齢化、生活様式の変化によって、山に関わる人の数は減っている。
もうひとつは、里山の利用低下だ。
かつて人々は、薪や炭、落ち葉、山菜、木材などを求めて山に入っていた。
人が山を使うことで、森には適度な攪乱があり、人と野生動物の間にも一定の距離が保たれていた。
ところが、エネルギーや生活資材が変わり、山は日常生活から遠ざかった。
使われなくなった里山は、管理の手が入りにくくなり、野生動物にとっては生息しやすい環境にもなっていく。
さらに、暖冬や積雪量の変化によって、シカが冬を越しやすくなった地域もある。
農地や集落周辺に出てくるシカも増え、農業被害や交通事故、感染症リスクなど、問題は森林の中だけにとどまらない。
「かわいい鹿」と「壊れる森」のあいだ
観光地で見るシカは、かわいい。
奈良公園や宮島のように、シカが地域の風景や文化の一部になっている場所もある。
だからこそ、シカの問題を語るときには注意が必要だ。
シカが悪者なのではない。
問題は、シカと森と人間のバランスが崩れていることにある。
自然保護という言葉は、時に「何もしないこと」のように受け取られる。
けれど、すでに人間の生活圏と深く関わってきた日本の山では、放置することが必ずしも自然を守ることにはならない。
人が使わなくなった山。
管理されなくなった森。
担い手を失った狩猟。
その結果として、シカが増え、森の足元が消え、山の機能が弱まっていく。
これは、野生動物の問題であると同時に、人間社会の問題でもある。
森を守るとは、関係を取り戻すこと
では、どうすればいいのか。
捕獲を進めることは重要だ。
植生を守るための防鹿柵も必要になる。
被害状況を調査し、地域ごとに適切な管理計画を立てることも欠かせない。
けれど、それだけでは根本的な解決にはならない。
山に関わる人をどう増やすのか。
林業や狩猟、ジビエ、自然観光、環境教育をどうつなげるのか。
地域の人々が、山を「遠い自然」ではなく「暮らしの基盤」として捉え直せるか。
そこに、これからの可能性がある。
たとえば、捕獲されたシカを地域資源として活用するジビエ。
森の変化を学ぶエコツーリズム。
企業や学校が参加する森林保全活動。
山の現状を映像や記事で伝える地域メディアの役割。
森を守るとは、単に木を守ることではない。
山に関わる人の回路を、もう一度つくり直すことなのかもしれない。
森の足元を見る
日本の山は、まだ美しい。
けれど、その美しさは、遠景だけでは分からない。
大切なのは、森の足元を見ることだ。
草は残っているか。
若い木は育っているか。
土は流れていないか。
水は澄んでいるか。
鳥や虫の気配はあるか。
シカの食害は、目立つ災害のように一瞬で起きるものではない。
時間をかけて、静かに森の構造を変えていく。
だからこそ、気づいたときには深刻になっている。
山の問題は、やがて川の問題になり、海の問題になり、地域の暮らしの問題になる。
森が裸になるということは、日本の自然の土台が弱くなるということでもある。
私たちはいま、もう一度、山との距離を測り直す時期に来ている。
森の美しさを、遠くから眺めるだけで終わらせないために。
その足元で起きている変化に、目を向ける必要がある。
参考・引用元
- 林野庁「野生鳥獣による森林被害」
令和6年度の野生鳥獣による森林被害面積は全国で約4千ヘクタール。そのうち、シカによる被害が全体の約6割を占めるとされています。
URL:https://www.rinya.maff.go.jp/j/hogo/higai/tyouju.html - 林野庁「令和4年度 森林・林業白書」
シカによる枝葉の食害、剥皮被害、下層植生の消失、土壌流出など、森林の多面的機能への影響について説明されています。
URL:https://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/r4hakusyo_h/all/chap1_3_4.html - 環境省「ニホンジカ及びイノシシの個体数推定等の結果について」
令和5年度末のニホンジカ個体数は、中央値で全国約303万頭、本州以南で約230万頭と推定されています。
URL:https://www.env.go.jp/press/press_04062.html - 環境省「全国のニホンジカ及びイノシシの生息分布調査について」
1978年度から2018年度までの40年間で、ニホンジカの分布域が約2.7倍に拡大したことが示されています。
URL:https://www.env.go.jp/content/900517069.pdf
森の変化は、遠くから眺めるだけではなかなか気づけません。
けれど、下草が消え、若い木が育たず、土が流れ出すことで、山の未来は少しずつ変わっていきます。
海、山、空。日本の自然環境で起きている変化を、これからも現場の視点で見つめていきます。
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