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石川県の地政学─海へ突き出す能登、城下町・金沢、日本海を結ぶ「扇の要」

日本海へ突き出す能登半島と加賀平野、遠景の白山を描いた石川県の地政学イメージ
日本海へ突き出す能登半島と加賀平野、遠景の白山を描いた石川県の地政学イメージ

石川県の地図を見ると、南西から北東へ細長く延び、その先端に能登半島が大きく日本海へ突き出している。

南には白山を背負う加賀地方、中央には県都・金沢、北には三方を海に囲まれた能登地方。ひとつの県でありながら、それぞれ異なる地形と歴史、産業、文化を持っている。

石川県の地政学を読み解く鍵は、「半島」「平野」「城下町」「日本海」という四つの言葉にある。

そして2024年の能登半島地震は、海へ突き出した土地が持つ豊かさだけでなく、半島という地形が抱える脆弱性も浮かび上がらせた。

石川県は、どのようにして現在の姿をつくってきたのだろうか。

Contents

1.石川県は「加賀」と「能登」でできている

石川県は、大きく分けると南部の加賀地方と、北部の能登地方から成り立っている。

加賀地方には、白山から流れ出す河川がつくった平野が広がり、金沢市、白山市、小松市、加賀市などの都市や産業が集積する。一方、能登地方は丘陵地が多く、平地が限られ、海岸線に沿って集落が点在している。

つまり石川県は、

「陸上交通と都市が集まる南部」

「海との結びつきが強い北部」

という、性格の異なる二つの地域をひとつの県域に抱えている。

明治初期には金沢県、大聖寺県、七尾県などが置かれた後、1872年に金沢県が石川県へ改称され、翌年に県庁が金沢へ戻った。富山県や福井県の分離を経て、1883年に現在につながる県域が確定している。

現在の石川県は単なる行政上の区分ではない。加賀と能登という異なる地理圏を、金沢が政治・経済・文化の中心として束ねてきた地域なのである。

2.能登半島は「辺境」ではなく、日本海へ開かれた前線だった

現代の地図だけを見ると、能登半島は本州の交通網から離れた「行き止まり」のように見える。

しかし、海上交通が物流の中心だった時代、半島は決して行き止まりではなかった。

能登は日本海へ大きく突き出し、越前、越中、佐渡、東北、北海道、朝鮮半島方面へ向かう航路と接している。陸から見れば遠い場所でも、海から見れば各地域を結ぶ接点だった。

特に内浦と呼ばれる能登半島東側は、外海の影響を受けにくい。能登島に守られた七尾湾は波が比較的穏やかで、天然の良港として発展した。

七尾港は現在も能登地方の産業や生活を支える重要港湾であり、周辺には木材関連産業、火力発電所、LPG国家備蓄基地などが立地する。港は単に船が着く場所ではなく、能登のエネルギーと物流を支える基盤である。

一方、輪島や珠洲などが位置する外浦側は、直接日本海に面し、冬季の強い季節風や高波を受ける。豊かな水産資源や独特の海岸景観をもたらす一方で、自然条件の厳しさとも隣り合わせにある。

能登の内浦と外浦の違いは、漁業、港、集落の形成、文化にまで影響を与えてきた。

3.北前船がつくった「日本海経済圏」

江戸時代から明治時代にかけて、日本海では北前船が活躍した。

北前船は、大坂と北海道を瀬戸内海、日本海経由で結び、各地の港で商品を売買しながら航海する商船だった。単に荷物を運ぶだけでなく、寄港地ごとの価格差を利用して利益を生み出す「海上の商社」のような存在でもあった。

加賀・能登には、地域間交易によって大きな利益を上げた船主や廻船問屋が数多く存在した。橋立や安宅、金石、輪島などの港や集落には、海運によって蓄積された富と文化の痕跡が残っている。

北前船が運んだのは、米、昆布、ニシン、塩、木材などの商品だけではない。

食文化、祭礼、民謡、建築様式、信仰、工芸技術なども、人や物の移動とともに日本海沿岸へ広がっていった。

石川県の文化が、地方の一地域としては驚くほど多層的なのは、加賀藩の文化政策だけでなく、日本海を介した広域交流の蓄積があったからだ。

日本海は石川県を隔てる海ではなく、各地と結ぶ道だったのである。

4.金沢はなぜ北陸最大級の城下町になったのか

石川県の中心に位置する金沢は、加賀藩前田家の城下町として発展した。

加賀藩の歴史は、前田利家が能登一国を与えられたことに始まる。その後、加賀と越中へ領地を広げ、前田家は百万石を超える大大名となった。

ここで重要なのは、金沢が単に平野の中央に置かれた都市ではないという点である。

金沢は、西に日本海、東に山地、南に加賀平野、北に能登半島を持つ。北陸地方の沿岸交通と内陸交通が交差し、加賀・能登・越中を統治するうえで有利な位置にあった。

また、金沢城は犀川と浅野川に挟まれた台地に築かれている。二つの河川と段丘地形は、防御と都市形成の両面で役割を果たした。

前田家は、徳川幕府に警戒されるほどの大きな石高を持ちながら、幕府との関係を保ち、約260年にわたって領国を統治した。その過程で、武力だけではなく、茶道、能楽、工芸、学問などへの投資を進めた。

金箔、加賀友禅、九谷焼、輪島塗などに代表される石川県の工芸文化は、土地の素材や職人の技だけで成立したのではない。大きな城下町、武家や町人の需要、日本海交易による物流、藩の文化政策が重なって形成された。

金沢の文化は、地理と政治と経済が生み出した「都市戦略」の結果でもある。

5.白山が支えた加賀平野の水と産業

石川県南部の地政学を考えるうえで、白山の存在は欠かせない。

白山を源とする手取川は、山地から土砂と水を運び、扇状地と平野を形成してきた。豊かな水は稲作を支え、集落と都市を育て、繊維、食品、機械などの産業発展にもつながった。

加賀平野は、北陸の豪雪地帯を背後に持つ。冬に山へ積もった雪は、春から夏にかけて雪解け水となり、農業用水や地下水として利用される。

この水資源と、江戸時代以来の職人文化が結びつき、石川県では繊維機械や産業機械、工作機械などの製造業が成長した。

小松市周辺に機械産業が集積しているのも偶然ではない。加賀地方には、城下町と農村を結ぶ手工業の蓄積、豊かな水、北陸本線をはじめとする交通網、広い工業用地など、産業を支える複数の条件がそろっていた。

山が水を生み、水が農業と工業を育て、平野が都市と交通を受け止める。

加賀地方では、自然地理がそのまま産業地理につながっている。

6.金沢港は「三大都市圏と日本海を結ぶ扇の要」

石川県は日本海側のほぼ中央に位置し、首都圏、中京圏、関西圏から比較的近い距離にある。

国土交通省の資料では、金沢港と七尾港の地理的特徴について、三大都市圏と日本海対岸地域を結ぶ「扇の要」と表現している。

金沢港は、機械や建設機械など、石川県に集積する製造業の物流を支えてきた。また、韓国や中国などとの国際物流、クルーズ船による観光の玄関口としての役割も担う。

太平洋側に産業と人口が集中する日本において、日本海側の港湾には別の意味もある。

太平洋側の港湾や交通網が大規模災害などで機能を失った場合、日本海側の港が代替ルートとなる可能性があるからだ。金沢港は地域産業のための港であると同時に、国土全体の物流を複線化する拠点にもなり得る。

ただし、2024年の能登半島地震は、「日本海側は災害が少ない」という従来の認識を見直す契機にもなった。

今後は港を持つことだけでなく、道路、鉄道、空港、物流施設を含めて、どのように多重的な輸送ルートを確保するかが重要になる。

7.北陸新幹線が変えた石川県の向き

かつて石川県と関西との結びつきは非常に強かった。

在来線特急を通じて大阪や京都と結ばれ、経済、進学、文化の面でも関西圏から大きな影響を受けてきた。

しかし、2015年に北陸新幹線の長野―金沢間が開業すると、金沢と東京の時間距離は大幅に縮まった。2024年3月には金沢―敦賀間も延伸開業し、石川県は東西双方へ接続する位置を強めている。

新幹線は、人の移動方向だけでなく、都市の意識も変える。

金沢は「関西圏に近い北陸の都市」であると同時に、「首都圏と直接つながる観光・文化都市」になった。東京からの観光客や企業活動が増える一方、大阪方面へは敦賀での乗り換えが必要となり、従来の関西との心理的距離が変化する可能性もある。

つまり北陸新幹線は石川県を便利にしただけではない。

石川県が、東京、名古屋、大阪のどの経済圏と、どのような関係を築くのか。その重心を動かす地政学的なインフラなのである。

8.能登半島地震が示した「一本の道」に依存する危うさ

2024年1月1日に発生した能登半島地震では、道路、港湾、電力、水道、通信などが広い範囲で被災した。同年9月には奥能登豪雨が発生し、復旧途上の地域が再び大きな被害を受けた。

半島では、中心都市から先端部へ向かう交通ルートが限られる。

道路が寸断されれば、その先にある複数の集落が同時に孤立する。山が海岸近くまで迫る地形では、迂回路を確保することも難しい。港が損傷すれば、海からの支援も制約される。

これは能登だけの問題ではない。

紀伊半島、房総半島、三浦半島など、日本各地の半島地域に共通する課題である。能登半島地震は、半島防災を国土政策として考える必要性を突きつけた。

今後は幹線道路の復旧だけでなく、

  • 複数の道路ルート
  • 港湾と空港を使った支援体制
  • 小規模集落ごとの備蓄とエネルギー
  • 衛星通信などの代替通信手段
  • 医療、福祉、行政機能の分散
  • 地域内で助け合えるコミュニティ

を組み合わせる必要がある。

効率を優先して機能を一か所へ集めるだけでは、災害時の強さは生まれない。半島には、平時の効率とは異なる「分散と冗長性」の思想が必要なのである。

9.復興は「元へ戻すこと」だけではない

能登では、地震以前から人口減少、高齢化、担い手不足が進んでいた。

輪島塗、漁業、農業、酒造、製塩、祭礼、棚田、里山里海など、能登を特徴づける文化や産業の多くは、地域に人が暮らし続けることで維持されてきた。

建物や道路が復旧しても、働く人や次世代の担い手が戻らなければ、地域は元の姿を取り戻せない。

一方で、人口減少を理由にすべての機能を金沢周辺へ集約すれば、能登が持つ海洋文化、地域産業、国土保全の機能まで失われる可能性がある。

能登の復興は、「以前と同じ状態に戻すか」「都市へ集約するか」という二択ではない。

地域ごとの暮らしを守りながら、交通、医療、教育、仕事を新しい技術や広域連携で補う。小さな拠点をネットワーク化し、金沢や全国、海外とつなぐ。

石川県が進める創造的復興でも、単なる原形復旧にとどまらず、能登の特色ある生業、暮らし、コミュニティを再建する方向が示されている。

復興とは、過去を再現することではない。

土地の記憶を残しながら、次の時代にも暮らせる形へ地域を編集し直すことである。

10.石川県の地政学とは何か

石川県は、日本海に背を向けた地域ではない。

能登半島によって海へ大きく開き、北前船によって各地と結ばれ、加賀平野の水と城下町・金沢の文化によって、独自の産業と都市を育ててきた。

その一方で、県内では金沢周辺への人口と機能の集中が進み、能登との格差が広がっている。海へ突き出した半島は、交流の前線であると同時に、災害時には孤立しやすい場所でもある。

石川県の地政学をひと言で表すなら、

「海へ開く力と、半島を支える難しさが同居する土地」

と言えるだろう。

これからの石川県に必要なのは、金沢だけを強くすることではない。

金沢、加賀、能登をそれぞれ独立した地域として見るのでもない。

金沢の都市機能、加賀の産業集積、能登の海と里山里海、金沢港と七尾港、新幹線と道路、空港をひとつのネットワークとして再構築することである。

かつて北前船が、日本海沿岸の小さな港を結びながら大きな経済圏をつくったように、これからの石川県も、点在する地域を結ぶことで強さを取り戻せるのかもしれない。

海は、石川県の端ではない。

白山も、県の奥ではない。

山から生まれた水が平野と都市を育て、港から出た船が遠い土地と文化を結び、半島が日本海へ向かって地域の可能性を押し広げてきた。

その地形そのものが、石川県の歴史であり、現在であり、未来なのである。

参考資料・引用元

石川県「いしかわ統計指標ランド」
https://toukei.pref.ishikawa.lg.jp/

石川県立歴史博物館「近世加賀藩の政治と文化」
https://ishikawa-rekihaku.jp/exhibition/04.html

石川県立歴史博物館「北前船と日本海海運」
https://ishikawa-rekihaku.jp/com/img/about/tayori/reki121.pdf

国土交通省「金沢港・七尾港 日本海側拠点港の形成に向けた計画書」
https://www.mlit.go.jp/common/000164367.pdf

国土交通省北陸地方整備局「能越自動車道・のと里山海道 災害復旧」
https://www.hrr.mlit.go.jp/kanazawa/douro_kengendaikou/

鉄道建設・運輸施設整備支援機構「整備新幹線の開業効果」
https://www.jrtt.go.jp/construction/asset/202503_effect_pamphlet.pdf

石川県「石川県創造的復興プラン」
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/fukkyuufukkou/souzoutekifukkousuishin/fukkouplan.html

石川県「令和6年能登半島地震アーカイブ」
https://noto-archive.pref.ishikawa.lg.jp/


石川県の地形や歴史を知ると、金沢、加賀、能登の風景が、これまでとは少し違って見えてきます。

この先も、日本各地の土地と歴史を「地政学」という視点から読み解いていきます。よろしければ、NEOTERRAIN Journalをブックマークして、次の記事もお楽しみください。

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