世界の環境地誌|第3回 アゼルバイジャン
バクーの街は、カスピ海に向かって開いている。
石造りの旧市街の向こうに現代的な建物が並び、さらにその先には、船が行き交う水面がある。海底の石油と天然ガスは都市の成長を支え、港は中央アジアと欧州を結ぶ物流の拠点となった。以前のアゼルバイジャンの地政学記事では、資源と輸送路から、この国が世界とつながる仕組みをたどった。neoterrainjournal.com
今回は、同じ地図を水際から見たい。
船を迎える港も、生き物が暮らす浅瀬も、人が歩く海岸も、そこに水があることを前提につくられている。だが今、カスピ海の水位は下がり続けている。
海岸線が退いたとき、海とともに築いてきた国の産業や暮らしは、どう変わるのか。
海の名を持つ、出口のない水域
カスピ海は「海」と呼ばれるが、外洋へ直接流れ出る出口を持たない、世界最大の内陸水域だ。アゼルバイジャン、ロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、イランの五カ国に囲まれている。unep.org
その水位は、流れ込む川、海面に降る雨、蒸発する水の釣り合いによって変わる。特に重要なのが、北から流れ込むヴォルガ川だ。アゼルバイジャンの海岸から遠く離れた流域の水の使い方も、カスピ海全体に関わってくる。Wiley Online Library
ここが、この環境問題の難しいところだ。
バクーの海岸で起きている変化を、バクーだけの政策で止めることはできない。アゼルバイジャンがどれほど沿岸を管理しても、気温の変化や、国境を越えた河川流域の取水まで一国で決められるわけではない。
水は、地図に引かれた国境に従って動かない。
「海が縮む」は、どこまで観測された事実か
カスピ海の水位は昔から変動してきた。上がった時代には沿岸の施設が浸水し、下がれば水際は遠ざかる。したがって、ある年の海岸線だけを見て、将来を断定することはできない。
一方、近年の低下は明確に観測されている。2026年に公表された衛星観測と河川流量の研究は、1996年から2024年にかけて水位が約2メートル低下し、水面面積が約2万3,858平方キロメートル減少したと推計した。これはカスピ海全体についての値であり、アゼルバイジャン沿岸のすべての地点で海岸線が同じ距離だけ退いたという意味ではない。浅い海岸と急に深くなる海岸では、水位低下の見え方が異なる。Wiley Online Library
将来についても複数の予測がある。リーズ大学の研究チームは、温暖化を2℃未満に抑えた場合でも、今世紀末までに水位がさらに5~10メートル下がる可能性を示した。ただし、これは観測済みの低下幅ではなく、気候条件などを置いた将来シナリオだ。予測の幅と不確実性を、そのまま受け止める必要がある。University of Leeds
では、なぜ水は減っているのか。
気温上昇による蒸発の増加は重要な要因だ。しかし、それだけで説明する研究ばかりではない。2026年の研究は、降水量に大きな減少傾向が見られない一方、ヴォルガ川を中心に河川からの流入が減ったと分析する。ダムの運用、農業や産業による取水など、人間の水利用も無視できないと指摘した。ただし、取水量などの公開データには限りがあり、各要因の寄与率にはなお検討の余地がある。Wiley Online Library
「温暖化で海が消える」という一文では、流域で何が起きているかを見落としてしまう。
港は、海岸線が動くことを前提につくられていない
バクーの港は、単なる沿岸施設ではない。
カスピ海の東岸から船で運ばれた貨物を受け取り、鉄道や道路へつなぐ。アゼルバイジャンを東西の物流拠点にする「ミドル・コリドー」にとって、港は重要な結節点だ。neoterrainjournal.com
海面が下がれば、船が通る航路や岸壁の水深を維持する必要が生じる。場合によっては海底を浚う工事が必要になり、船が積める貨物量や運航計画にも影響しうる。2025年のバクー港に関する調査資料では、港の関係者が水位低下を深刻に捉える一方、その時点では港の貿易を妨げていないと述べている。影響を「すでに港が機能しなくなった」と誇張してはいけない。問題は、これから必要になる対応と費用だ。idd.az
港を深くすれば、船の通行には対応できるかもしれない。だが、浚渫には費用がかかり、海底の環境への配慮も必要になる。どの港に、どれだけ投資するのか。水位が変わり続けるなかで、判断を一度で終えることは難しい。
地図上の物流ルートは一本の線だ。しかし現実の道は、水深、岸壁、船、鉄道、人の仕事によって保たれている。
石油の海で、環境の変化は重なり合う
アゼルバイジャンにとって、カスピ海は長く石油と天然ガスの海でもあった。海底資源を掘り、都市を発展させ、輸出につなげてきた歴史がある。neoterrainjournal.com
水位低下と石油産業の問題は、同じものではない。海が退くこと自体が、直ちに石油汚染を起こすわけではないからだ。
ただし、カスピ海の生態系は、水位の変化だけにさらされているわけでもない。国連プロジェクトサービス機関(UNOPS)は、産業活動や石油生産に伴う汚染が水質に影響し、カスピアザラシやチョウザメの減少も深刻だと指摘している。水位低下、汚染、生息地の損失、漁業などによる圧力を、重なり合う問題として見る必要がある。UNOPS
もし海岸線が退けば、かつて水中にあった土地が現れる。その場所を産業用地として利用するのか、生き物の生息地として保全するのか。過去の利用による汚染をどう調べるのか。
新しく現れた土地は、空白の土地とは限らない。水が引くことで、これまで見えなかった管理責任も表に出てくる。
生き物にとって、数メートルは小さくない
人間は海岸が遠くなれば、航路を掘り、港の設備を変えられるかもしれない。生き物にとっては、別の難しさがある。
水位が下がると、浅瀬や沿岸の湿地が縮み、川と海とのつながりも変わる。チョウザメが産卵のために川へ向かう経路、魚の育つ場所、渡り鳥が利用する水辺、カスピアザラシの生息環境が影響を受けうる。リーズ大学の研究は、水位低下のシナリオによって、こうした重要な生息地が大きく失われる可能性を示している。University of Leeds
ここでも、カスピ海を一枚の青い面として見るだけでは足りない。
浅い北部と、比較的深い南部では、水位低下による地形の変わり方が違う。生き物が必要とする場所も、季節や成長段階によって異なる。水面の総面積だけを守っても、産卵する場所や休む場所が失われれば、同じ生態系は保てない。
海を守るとは、ただ水を残すことではない。生き物が海と川の間を移動できる関係を守ることでもある。
一つの国だけでは、海を守れない
カスピ海には五つの沿岸国がある。川の上流で使う水、沿岸の開発、船舶の運航、石油汚染への備え。その影響は、国境を越えて広がる。
五カ国は2003年、カスピ海の環境保護に関する枠組みである「テヘラン条約」に署名した。2024年にはバクーで、水位低下への協力を強める宣言も採択されている。UNEP – UN Environment Programme
協定があることと、問題が解決することは違う。水位や河川流量を同じ基準で測り、データを共有する。港湾整備を計画するときには、隣国の環境にも目を向ける。汚染を監視し、生息地の変化に合わせて保護の方法を見直す。
そうした地道な作業を、五カ国で続けられるかが問われる。アゼルバイジャンを含む三カ国では、汚染監視と生物多様性の保全能力を高める国際事業も進められている。UNOPS
カスピ海は、五つの国の境界であると同時に、五つの国が共有する生活の基盤なのだ。
水際から、国の未来を読み直す
アゼルバイジャンの地政学を考えるとき、石油、天然ガス、パイプライン、港、鉄道といった言葉が並ぶ。それらは、この国を世界へつなぐ力を表している。
だが、その線の一つである港は、変わり続ける水際に立っている。
水位低下の原因を気候だけに決めつけず、川の流域での水利用まで見ること。物流を拡大するなら、その基盤となる水深と沿岸環境も考えること。資源を生み出した海で、生き物が暮らし続けられる場所を守ること。
海が退いたあと、問われるのは「以前の海岸線をどう取り戻すか」だけではない。
水際が動く時代に、この国は何をつなぎ、何を守るのか。
バクーの街からカスピ海を眺めるとき、そこには資源の国の過去も、物流の国の未来も映っている。その水面の高さを当たり前と思わないことから、次の地図が始まる。

