47都道府県の自然環境問題|第2回・青森県
白神山地と聞けば、ブナの原生的な森を思い浮かべる。人の手があまり入らなかった広い森。その価値が認められ、青森県と秋田県にまたがる一帯は、1993年に世界自然遺産に登録された。
では、世界遺産になった森は、そのまま守られ続けるのだろうか。
いま白神山地の周辺では、ニホンジカの確認が増えている。まだ「白神のブナ林がシカに食べ尽くされた」という話ではない。むしろ、目に見える大きな被害が広がる前に、森の外側で起きている変化をどう捉えるか。その問いが、青森県の自然環境問題を考える入口になる。
ブナの大木だけが、白神の森ではない
白神山地には、原生的なブナ林が広がる。林内にはブナの若木やササなどの下層植生があり、鳥や昆虫、哺乳類も生息している。森は大木の集合ではなく、次の世代の木が育ち、さまざまな生き物が関わりながら続いていく仕組みだ。
ブナは毎年同じ量の実をつけるわけではない。豊作と不作の周期があり、その実は動物の食べ物にもなる。木が倒れて光が差し込めば、幼い木や林床の植物が育つ機会が生まれる。見た目が変わらないように見える森の内部でも、更新は絶えず起きている。
だから、森の健全さを確かめるには、立派なブナが残っているかだけでは足りない。林床に何が生え、若い木が育ち、動物がどう動いているかを見なければならない。
深い雪がつくってきた、生き物の境界
白神山地は雪の多い土地だ。環境省の白神山地の概要では、多量の積雪がニホンジカやイノシシの生息を難しくしてきたことが、当地の動物相を説明する一つの条件として挙げられている。
雪は、森の景色をつくるだけではない。冬を越せる動物と、越しにくい動物を分ける。植物が芽吹く時期や、川へ流れる水の季節も左右する。白神のブナ林は、この雪を含む土地の条件の上に成り立ってきた。
ただし、周辺でシカが見つかったことだけをもって、積雪の減少が原因だと結論づけることはできない。個体の移動、周辺地域の生息状況、冬の条件などを合わせて調べる必要がある。気候変動と結びつけたくなる現象ほど、因果関係を急がないことが大切だ。
カメラが記録した「周辺」の変化
環境省の2024年度調査では、白神山地周辺の青森県鰺ヶ沢町・西目屋村・深浦町、秋田県能代市・八峰町・藤里町で、ニホンジカの目撃情報が269件、計293頭分記録された。この「293頭」は周辺に293頭の異なるシカが生息するという推計ではない。同じ個体が別の日時や場所で撮影された場合も、別の確認として数えられている。
調査資料に示された年間確認頭数は、2021年度の59から、2022年度に229、2023年度に241、2024年度に293へ増えた。ただし、カメラの設置台数や調査条件も変わりうるため、この数字をそのまま地域の個体数増加率と読むことはできない。言えるのは、周辺で確認が目立つようになり、継続的な監視が必要になっているということだ。
同年度の録音調査では、周辺17地点のうち15地点でオスの「howl」と呼ばれる鳴き声が確認された。資料では、確認された鳴き声の種類から侵入の初期段階を示す可能性が説明されている。一方、この年の録音には欠測や機材不良もあり、結果は参考値とされる。確認が増えたこと、定着の程度、植生への実際の影響は、分けて考えなければならない。
シカが増えると、森の何が変わるのか
シカが森に定着し密度が高くなると、下草や若木が食べられ、植物の種類や次世代の樹木の育ち方が変わる可能性がある。ブナの大木が立ち続けていても、足元から次の森をつくる植物が失われれば、数十年後の姿は変わりうる。
しかし、これは白神山地でそうした被害が既に広域に確定した、という意味ではない。環境省の現地担当者も2026年の発信で、シカが森の奥に定着すれば生態系に影響するおそれがあると説明しつつ、現在の調査は侵入初期段階にあるとの見方を示している。
被害がはっきり見えてから対策するのか。まだ判断に幅がある段階から、撮影地点、越冬場所、植生の変化を追い、必要な対応を考えるのか。白神で問われているのは、後者の難しさである。
世界遺産の境界線で、動物は止まらない
白神山地の世界遺産地域には保護のための境界がある。しかし、シカはその線を知らない。冬に過ごしやすい場所が遺産地域の外にあっても、季節が変われば森の内側へ移動する可能性がある。
そのため環境省、林野庁、青森県、秋田県は、世界遺産地域だけでなく周辺地域も視野に入れ、カメラや痕跡、鳴き声などを調べている。白神山地のモニタリング計画も、気象、ブナ林の構造、林床の植物、動物の分布、利用状況までを対象としている。
森を守る仕事は、森の中心部に柵を引いて終わるものではない。山のふもと、隣の自治体、県境の向こうと情報をつなぎ、変化の兆しを同じ地図の上で読むことが必要になる。
守るとは、変化を見続けること
白神山地が世界遺産に登録されたことは、森の価値を世界に示した。しかし、登録は森を時間から切り離すことではない。木は育ち、倒れ、世代をつなぐ。動物は移動し、雪や気温の条件も変わる。
だから「原生的な森を守る」は、過去の一枚の写真を保存することではない。森が自ら次の世代を育てられる状態を保ち、その状態に変化が起きていないかを確かめ続けることだ。
北海道編では、流氷という目に見える風景の下に、海を育てる仕組みがあった。青森編では、ブナの大木の足元に、森の未来を左右する変化の入口がある。
次に白神の森を見るとき、見上げた樹冠だけでなく、足元にも目を向けたい。小さな芽が育っているか。そこを歩く動物が変わっていないか。森の未来は、まだ静かな場所から始まる。

