渋谷の一室で、三味線の音に導かれるように声が立ち上がる。
一人が歌い、もう一人が返す。節は細く揺れながら重なり、やがてその場にいる人たちまで巻き込んでいく。
奄美のシマ唄を初めて聴く人は、まず声の高さや節回しの美しさに惹かれるかもしれない。しかし、その美しさだけを受け取って帰るなら、私たちはまだ入口に立っただけだ。
シマ唄の一節の奥には、誰かと別れなければならなかった人の感情がある。島を離れる人と、島に残る人の視線がある。琉球と薩摩、本土と沖縄、その複数の中心のあいだで、奄美が背負ってきた歴史がある。
そして、それらを記録の外側から運び続けてきた、女性たちの声がある。
前回のインタビューでは、奄美大島出身の唄者・成瀬茉倫さんと、唄者であり奄美料理店「sima sima」を営む田向美春さんに、シマ唄、研究、海外公演、そして文化をつなぐことについて話を聞いた。
今回は、その対話からもう一歩、歌の奥へ入ってみたい。
一つの歌を、土地の歴史とともに聴くとはどういうことなのか。薩摩藩の近代化の陰で、奄美は何を背負ったのか。そして、成瀬さんと田向さんの声は、いま何を媒介しているのだろう。

「歌詞だけを見ても、何も分からない」
成瀬さんはインタビューのなかで、自身の研究についてこう話した。
これまで歌詞分析とかは多かったけど、歌詞だけ見ても何も分からないので、時代背景が分かっていないと。
短いが、シマ唄を聴くうえで重要な言葉だ。
歌詞を現代語に置き換えれば、内容は理解できる。けれど、なぜその言葉が歌われたのか、誰が誰に向けて歌ったのか、どのような暮らしのなかで口から口へ渡ったのかまでは、翻訳だけでは見えてこない。
シマ唄は、固定された歌詞を一人で正確に再現する音楽とは少し違う。
奄美の「唄遊び」では、一人が歌を出し、相手が返す。場の空気や相手との関係に応じて歌詞を選び、時には即興で掛け合う。歌は作品であると同時に、会話であり、記憶であり、人と人との関係そのものだった。
だから、文字だけを読んでも、その全体はつかめない。
成瀬さんが研究で向き合っているのも、この難しさだ。生きた場で交わされる声を、文字にすることはできるのか。本人は「多分、不可能」と笑いながら、それでも「だからこそ書きたい」と続けた。
書ききれないものがある。それを知ったうえで、なお書く。
そこには、記録されなければ見えなくなってしまう土地の歴史への、静かな責任感がある。

別れを、一人ではなく二人で歌う
奄美を代表するシマ唄の一つに、「行きゅんにゃ加那節」がある。
現在は、島を離れる人を送る別れの歌として広く知られている。鹿児島県の資料でも、親しい人を見送る小さな別れの席などで歌われてきた唄として紹介されている。
その言葉を現代語の感覚に近づければ、そこには「私を忘れて行ってしまうのか」と問う側と、「行こうとしても心は行き苦しい」と返す側がいる。
ただ悲しい、と一方向に感情を説明する歌ではない。
残される者の恨めしさと、去る者のやるせなさ。引き留めたい気持ちと、それでも旅立たなければならない事情。相反する感情が、掛け合いのなかで同時に存在する。
ここで大切なのは、別れの痛みを一人の独白に閉じ込めていないことだ。
一人が問い、もう一人が返す。答えが痛みを解決するわけではない。それでも、声を返すことで「あなたの思いを受け取った」と伝えることはできる。
シマ唄のやるせなさは、孤独を美化するものではない。どうにもならない現実を、誰かと声にして耐えるための知恵だったのかもしれない。
なお、「行きゅんにゃ加那節」を含む一つ一つの歌を、薩摩への直接的な抵抗歌として読むのは慎重であるべきだ。シマ唄には恋、労働、祝い、別れ、遊びといった多様な生活が歌われている。
しかし、その生活がどのような歴史条件のもとにあったのかを知ることは、歌の感情を狭めるのではなく、むしろ立体的にする。

奄美は、複数の中心のあいだにあった
奄美はかつて琉球王国と深い関係を持ち、1609年の薩摩藩による琉球侵攻以後、薩摩の直轄支配下に置かれた。
地理的には沖縄に近く、文化的にも共通する部分が多い。一方で、行政的には鹿児島県に属し、薩摩の支配を強く受けてきた。
この位置は、奄美に豊かな重層性をもたらしたと同時に、その存在を見えにくくもした。
海外で奄美について話すとき、成瀬さんは「日本の南の島」と説明するところから始めるという。日本の少数民族や周縁文化を語る場で、アイヌや沖縄の名は挙がっても、奄美はなかなか出てこない。
それぐらい、やっぱり周縁化されているんですよね。
沖縄という強いイメージの陰に隠れ、本土からも見えにくい。
奄美は、中心から遠いだけではない。複数の中心のあいだに置かれ、そのどこにも完全には回収されない場所だった。
だからこそ、土地の側から歴史を書く必要がある。
成瀬さんの「土地のことは、土地の人が書くべきだと思います」という言葉は、郷土愛だけを意味しない。それは、これまで誰の視点で歴史が記され、誰の経験がその外側に置かれてきたのかを問い直す言葉でもある。

薩摩藩の財政を立て直した、奄美の黒糖
薩摩と奄美の関係を考えるとき、避けて通れないのが黒糖である。
サトウキビ栽培と製糖が奄美に広がると、薩摩藩は砂糖を重要な財源として扱うようになった。島民は年貢を砂糖で納めることを求められ、やがて生産から流通までを藩が管理する専売体制が強化された。
農林水産省の解説によれば、島では食料をつくる田畑までサトウキビ畑へ変えられ、暮らしを圧迫するほど生産が優先された。後に「黒糖地獄」と呼ばれる苛烈な状況である。
1828年、約500万両もの借金を抱えていた薩摩藩の財政再建を命じられたのが、調所広郷だった。
鹿児島県は、その改革について、奄美の砂糖専売などを一層強化し、島の人々に大きな負担を強いた一方、改革の成功が後の集成館事業や明治維新の基礎になったと説明している。
ここに、薩摩の近代化を考えるうえで見落とせない二つの側面がある。
新しい技術を取り入れ、日本の未来を切り開こうとした薩摩。
その財政的な足元で、自由に売ることのできない砂糖をつくらされ、食料さえ不足する暮らしを強いられた奄美。
近代化の光と、収奪の影。それは別々の物語ではなく、同じ歴史の表と裏だった。

薩摩スチューデントの「志」と、その足元
本誌の「Soraのフィールドノート #15―鹿児島県篇」では、幕末に海を渡った薩摩スチューデントを取り上げた。
彼らは命がけで英国へ渡り、当時最先端の知識と思想を学んだ。単なる留学ではない。学んだものを持ち帰り、地域を、そして国を変えようとする「志」の旅だった。
その精神は確かにまぶしい。
だが、歴史を深く見るとは、そのまぶしさを否定することではなく、光がどのような足元の上に立っていたのかを見ることでもある。
薩摩が進めた近代化の財政基盤には、奄美の黒糖を組み込んだ藩政改革があった。英国へ渡った若者たちの知の物語と、島で砂糖をつくり続けた名も残らない人々の労働は、同じ薩摩の歴史のなかにある。
ここで問いたいのは、「薩摩は偉かったのか、ひどかったのか」という二択ではない。
誰かの飛躍を可能にした社会の足元に、誰の労働があり、誰の痛みが見えなくなっていたのか。
薩摩スチューデントの物語に奄美の視点を重ねると、「学びは未来を変える力になるのか」という問いは、さらに深くなる。
学びによって未来を変えるなら、その未来は誰のためのものなのか。過去に支払われた代償まで見つめたうえで、私たちは何を受け継ぐのか。
歴史を複眼で見るとは、英雄を引きずり下ろすことではない。名を残した人と残さなかった人を、同じ地面の上に戻すことなのだと思う。

女性の声は、文字にならない歴史を運ぶ
成瀬さんがオックスフォード大学で研究しているのは、「シマ唄における女性の歴史」だ。
政治や制度の歴史は、藩主、役人、留学生、企業家といった公的記録に残りやすい。一方で、家族を送り出した人、畑で働いた人、祈り、祝い、悲しみを生活のなかで引き受けた人の経験は、しばしば記録の外側に置かれる。
とりわけ女性たちの歴史は、文字よりも身体や声のなかに残されてきた。
奄美の信仰には、かつて集落の祭祀を司り、豊作や集落の安寧を祈った女性祭司「ノロ」がいた。ノロは琉球王国の制度とも結びついた具体的な宗教的役割であり、現代の唄者をそのままノロや巫女と呼ぶことはできない。
それでも、成瀬さんと田向さんが歌う姿に、どこか「媒介する人」の面影を見ることはできる。
過去と現在をつなぐ。島と都市をつなぐ。土地の内側にある記憶を、外の世界へ手渡す。
二人は神事を司る巫女ではない。しかし、土地に蓄積した感情を声に通し、その場にいる人の身体へ渡していく。その姿は、現代における記憶の媒介者と呼ぶほうが近いのかもしれない。
しかも、その媒介は一方通行ではない。
歌い手が何かを「教える」のではなく、聴く人が声を返すことで場が成立する。ここにも、唄遊びの構造が生きている。

世界で起きた、小さな唄遊び
成瀬さんたちは、オックスフォード、ニューヨーク、ジャカルタ、ロンドン、パリなどでシマ唄を届けてきた。
海外のワークショップでは、参加者にシマ唄の返しを覚えてもらう。言葉の意味が完全には分からなくても、一人が歌い、相手が返す。その瞬間、言語を越えて場がつながる感覚があるという。
一緒に掛け合いができたら、言葉が分からなくてもつながった気がします。
これは、伝統をそのまま保存ケースへ収めることとは違う。
田向さんは、文化をつなぐことについてこう語っていた。
伝統文化を守ることも大事ですが、どんな形でも伝えることも大事だと思います。形や楽しみ方が変わっても、それをつないでいける新しい文化ができたら面白い。
渋谷の「sima sima」で開かれる唄遊びも、その試みの一つだ。
奄美の集落で育まれた場を、東京でまったく同じように再現することはできない。けれど、歌う人と返す人がいて、食事があり、知らない者同士が声を重ねるなら、そこには新しい唄遊びが生まれうる。
文化は、変わらないから続くのではない。
何を変え、何を手放さず、誰にどう渡すかを、その時代の人が選び続けるから残る。

シマ唄を聴くことは、土地の歴史に耳を澄ますこと
シマ唄のすべてを、薩摩支配や苦難の歴史だけで説明することはできない。
そこには恋があり、笑いがあり、祝いがあり、日々の労働があり、人と人との遊びがある。奄美の文化を「かわいそうな歴史」に閉じ込めることもまた、土地の豊かさを奪うだろう。
けれど、美しい声の背景にある歴史を知らないまま、「癒やされる音楽」として消費するだけでも、その歌が運んできたものを取りこぼす。
「行きゅんにゃ加那節」の別れを、去る人と残る人の二つの声として聴く。
薩摩の近代化を、海を渡った若者の志と、奄美で黒糖をつくった人々の労働の両方から見る。
女性たちの声を、文字にならなかった歴史の媒体として受け取る。
そうすると、シマ唄は遠い島の古い民謡ではなくなる。
それは、誰の歴史が記録され、誰の記憶が聞かれないままになっているのかを、いまの私たちに問い返す歌になる。
成瀬さんは、歌も研究も「楽しくてやっている」と話した。田向さんは、「どこにいても、どこからでも、自分にやれることがある」と語った。
二人は大きな使命を背負っていると名乗らない。
ただ、好きだから歌う。もっと知りたいから研究する。人に届けたいから場をつくる。
その自然な営みのなかで、島の記憶は過去に閉じず、渋谷へ、英国へ、世界へと運ばれていく。
土地の歴史は、博物館のなかだけにあるのではない。
誰かが歌い、誰かが返す。その声と声のあいだに、いまも生きている。


