雑貨店の棚に、青いマグカップが並んでいる。
少し気になって、一つを手に取る。
思っていたより軽い。取っ手に指をかけると、自然に収まる。表面には、釉薬のわずかな凹凸がある。
朝、このカップでコーヒーを飲んだら。
そんな場面が浮かんだあと、棚に戻そうとして少し迷う。
さっきまで、たくさん並んでいる商品の一つだった。けれど今は、自分の暮らしに置いた姿を知っている。
まだ買っていない。それなのに、少しだけ「私のもの」になっている。
商品に触れることは、重さや質感を確かめるだけなのだろうか。そこには、購入前の顧客体験を考えるうえで、興味深い心理がある。
1.所有する感覚は、購入前にも生まれる
商品は、お金を払い、受け取ってから自分のものになる。
けれど、「自分のものだと感じること」は、必ずしもその順序に従わない。
気に入った椅子に座り、自宅の窓辺に置く姿を想像する。試着したコートの袖を直し、鏡の前で普段のバッグと合わせてみる。
こうした場面では、店の商品と自分の暮らしの間に、具体的なつながりが生まれる。
このような「これは私のものだ」という主観的な感覚は、心理的所有感と呼ばれる。法的な所有とは区別され、実際に持っていない対象にも生じうるものだ。anderson.ucla.edu
先ほどのマグカップなら、棚に置かれた姿を見ていたときと、手のなかに収めたときでは、自分との距離が違って感じられるのかもしれない。
商品を理解することと、自分との関係を感じること。
触れる体験には、その両方を考える余地がある。
2.触れるだけでも、「自分のもの」という感覚は強まるのか
2009年、Joann PeckとSuzanne B. Shuは、商品への接触と所有感の関係を調べた研究を発表した。
研究では、対象に触れる機会があると、その対象への心理的所有感が強まることが示された。また、商品の価値評価には、その所有感に加え、触れた体験が快いものだったかどうかも関係していた。Oxford Academic
ここで、二つの話を分けておきたい。
触れることで、「自分のもの」という感覚が強まること。
そして、その商品を高く評価すること。
両者は関係しているが、触れば何でも欲しくなる、というわけではない。
生地が予想より硬い。持ってみると重すぎる。取っ手が指に当たる。
実際に触れるからこそ、自分に合わないとわかることもある。
接触は、魅力を感じる機会であると同時に、相性を確かめる機会でもある。
この点を押さえると、店舗の役割も変わって見える。
商品を買わせるために触らせる、という発想だけでは狭い。顧客が自分に合うかどうかを判断できる体験を用意することに、意味がある。
3.IKEA効果とは、どこが違うのか
以前取り上げたIKEA効果では、自分が組み立てるなど、制作に関わることと評価の関係を考えた。
今回の入口は、もっと手前にある。
完成した商品を手に取る。持ち替える。座ってみる。使う姿を想像する。
自分で何かをつくっていなくても、商品との関わりは始められる。
たとえば、椅子を選ぶ場面。
写真では美しく見えても、座ると背もたれの角度が合わないことがある。逆に、見た目では気づかなかった座面の収まりを、座った瞬間に気に入ることもあるだろう。
試すことで、商品の説明が自分の身体に引き寄せられる。
「座面の奥行きが何センチ」という情報に、「この椅子で本を読めそうだ」という具体的な感覚が加わる。
マーケティングで考えたいのは、この移り変わりだ。
商品そのものを見せるところから、顧客が使う場面を確かめられるところへ。
4.「手に取れる展示」を、戦略から考える
仮に、陶器店に「立ち止まって見てもらえるが、商品を手に取る人が少ない」という課題があるとする。
そこで、すぐに「ご自由にお手に取ってください」という札を置く前に、何が妨げになっているかを考えたい。
高価そうで、触ってよいかわからないのか。
商品が密に並び、取り出しにくいのか。
手荷物で両手がふさがっているのか。
それとも、見た目を楽しみに来た人が多いのか。
理由によって、必要な対応は変わる。
実際に確かめたうえで、たとえば次のような設計が考えられる。
| 顧客が迷うこと | 接点の設計例 |
|---|---|
| 触ってよいかわからない | 手に取れる商品であることを、短い言葉で示す |
| 壊しそうで不安 | 安定した台に置き、持ち上げやすい間隔をつくる |
| 重さや持ちやすさを知りたい | 大きさの違うカップを比較できるようにする |
| 暮らしで使う姿が浮かばない | 普段の食事に近い組み合わせを展示する |
| 選ぶ基準がわからない | 容量、手入れ、使い方などの情報を添える |
これらは、研究から発想を広げた実務上の提案だ。
目標は、接触回数を増やすことだけではない。自分に合う商品を選びやすくすることに置く。
その目的が決まれば、展示台の高さ、商品の間隔、説明文、接客の一言まで、同じ方向で考えられる。
5.触れられないECでは、何を伝えるか
では、オンラインショップではどうすればよいだろう。
画面越しには、実物の重さも、指に伝わる凹凸も確かめられない。
PeckとShuの研究では、接触できない条件でも、自分がその商品を所有する場面を想像させることが、心理的所有感を高める方法として検討されている。anderson.ucla.edu
ただし、使う場面の写真を一枚追加すれば、研究と同じ効果が得られるという意味ではない。
実務への応用として考えられるのは、顧客が自分の暮らしと照らし合わせるための情報を増やすことだ。
マグカップなら、白い背景の商品写真に加えて、次のような見せ方がある。
手に持ったときの大きさ。取っ手に指をかけた様子。飲み口の厚み。表面に光が当たったときの質感。飲み物を入れた状態。
文章にも、役割がある。
「温もりのある器です」だけでは、触れた感覚を判断しにくい。
実物に合っているなら、「表面には細かな凹凸があり、指でなぞるとざらりとした感触があります」と書く。
容量や重量、寸法といった情報も添える。
使う姿を想像できる写真と、期待を調整できる具体的な説明。その両方を用意したい。
6.クリエイティブでは、「誰の手で、どう使うか」を描く
この視点は、商品撮影の企画にもつながる。
たとえば、「軽さと持ちやすさを伝えたい」という戦略があるとする。
その場合、カップを美しく置いた写真だけでは、伝えたいことを十分に示せないかもしれない。
手に持つ場面を入れる。指と取っ手の位置関係を見せる。持ち上げて戻す短い動画を撮る。
何を理解してほしいかによって、必要な画が決まる。
ただし、人の手を入れればよいわけでもない。
大きな手で持った写真だけでは、商品が実際より小さく見えることがある。質感を強調する照明が、色や表面の印象を変えてしまうこともある。
だから、表現と仕様をつなぐ。
手に持った写真の近くに寸法を載せる。質感の写真と一緒に素材や仕上げを説明する。使用場面の写真にも、商品の姿がわかる画を組み合わせる。
コピーなら、たとえば、
「朝の一杯を、この手になじむ器で。」
という方向が考えられる。
その言葉が、自分に当てはまるかどうかを確かめられる情報までそろえて、クリエイティブとして成立させたい。
7.「欲しくなった」の先まで見る
施策を実施したら、手に取った人の割合や購入率は確認したい。
それと一緒に、顧客が何を確かめたかにも目を向ける。
「持ったときの軽さで選んだ」
「取っ手の形が合わなかった」
「写真で想像していた質感と違った」
こうした声は、展示や商品ページを直す材料になる。
店頭で触れて納得して買えたか。オンラインで受け取ったとき、想像との違いはなかったか。購入後も、使いやすいと感じてもらえているか。
購入前に生まれた「私のもの」という感覚が、購入後の満足につながっているかを見たい。
雑貨店の棚に、青いマグカップを戻す。
いったん別の棚を見てから、もう一度戻ってくる。
先ほど確かめた重さや、指の収まりを思い出す。その情報は、商品を眺めていたときには持っていなかったものだ。
触れる体験は、商品との距離を変えることがある。
その機会をどう用意し、何を伝え、どう選んでもらうか。
そこまで考えると、「手に取ってもらう」という小さな行動にも、戦略とクリエイティブの仕事が見えてくる。
EDITOR’S NOTE — NEOTERRAIN
器を手に取ると、見ていただけではわからなかったことに気づく。
重さ。縁の厚み。指先に残る感触。
その小さな情報が、自分の暮らしを思い浮かべるきっかけになる。
写真や言葉で商品を伝えるときにも、そんな瞬間を考えていたい。
どこを見せれば、使う人の判断を助けられるのか。何を書けば、手にしたときの驚きや戸惑いを減らせるのか。
棚の上の商品が、誰かの日常に迎えられるまで。その間にも、つくれる体験がある。
NEOTERRAIN JOURNALでは、マーケティングやクリエイティブ、社会の変化を、表面的な手法ではなく、その背景にある構造から読み解いています。
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