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燃やしてきた大地を、どう取り戻すのか——アイルランドの泥炭地と「水を戻す」選択

水が戻りつつあるアイルランドの泥炭地。黒い土と浅い水面が広がり、「燃やしてきた大地に、水を戻す。」の文字が重なる

世界の環境地誌|第2回 アイルランド

アイルランドの大地には、見渡す限り平らに広がる、黒く湿った場所がある。

泥炭地。英語では peatland、その湿地を bog と呼ぶ。華やかな森でも、雄大な氷河でもない。足元には水があり、コケや植物が育ち、その一部が分解されきらないまま、長い年月をかけて積み重なっていく。

この黒い土は、かつて人々の家を暖め、国の電力を支えた。だが今、アイルランドは採掘した土地に、再び水を戻そうとしている。

燃料を得るために乾かしてきた大地を、なぜもう一度、湿らせるのか。

そこには環境保全だけでは語れない、仕事と暮らしの転換がある。

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土の下に蓄積された、途方もない時間

泥炭は、湿った土地で育った植物が、十分に分解されずに堆積したものだ。水に満たされた土の中では分解が進みにくく、植物が取り込んだ炭素が長い時間をかけて蓄えられる。

アイルランド国立公園・野生生物局は、健全な泥炭地を、炭素を長期に蓄える場であると同時に、水を吸収し、保持し、ゆっくり放出する場所として説明している。そこには独自の生物も暮らす。泥炭地は、何もない土地ではない。目に見えにくい働きが、足元で続いている。National Parks & Wildlife Service

けれど、人がその価値を最初に見いだしたのは、別の使い道だった。

切り出した泥炭を乾燥させ、燃料として使う。アイルランドでは、家庭で使うための泥炭採取が土地の慣習や権利と結びついてきた。さらに近代には、広い面積の泥炭地で産業的な採掘が行われ、発電や園芸にも利用されるようになった。npws.ie

湿った土地は、そのままでは大量に採掘しにくい。そこで排水路を掘り、水位を下げる。

この操作が、泥炭地の役割を変えた。

水を抜くと、何が起きるのか

水に守られていた泥炭が乾き、空気に触れる。すると、長い時間をかけて蓄積された有機物の分解が進み、炭素が二酸化炭素として大気へ出ていく。

泥炭を燃やすときだけ排出が起きるのではない。燃料を取り出すために土地を乾かした後も、残された泥炭地から排出が続きうる。

アイルランド環境保護庁(EPA)は、国内の土地利用に伴う温室効果ガス排出について、泥炭を含む土壌の草地の排水や、泥炭採掘のための湿地の排水を主要な排出源として挙げている。Environmental Protection Agency

ここに、泥炭地の難しさがある。

泥炭は、蓄えられるまでに長い時間がかかる。一方で、水を抜いて空気にさらせば、その蓄えを失う方向へ土地の働きが変わる。採掘を止めても、乾いたまま放置すれば、それで問題が終わるわけではない。

だからアイルランドの泥炭地再生は、「掘らない」という判断から、さらに一歩進む。土地の水位をどう戻すかが中心になる。

燃料を支えた会社が、湿地を再生する

この転換を象徴するのが、アイルランドの企業Bord na Mónaだ。

同社は長年、泥炭の採掘と利用を担ってきた。2020年に採掘を停止し、2021年には、自社の土地での泥炭採掘を恒久的に終了すると正式に発表した。現在は、採掘後の土地の再生や再生可能エネルギーなどへ事業を移している。これは同社の土地での決定であり、アイルランド全土で家庭用を含む泥炭採取が一律に終わったという意味ではない。BnM

国が支援する泥炭地再生事業では、かつて産業用に採掘された約3万3,000ヘクタールが対象とされている。目指すのは、排水された土地を再び湿らせ、その場所に適した生息環境の回復を促すことだ。gov.ie

記事や映像で「自然を取り戻す」と表現すると、一本の排水路を塞いだ途端、元の湿地が帰ってくるように見えるかもしれない。

実際には、そう単純ではない。採掘前と同じ泥炭地を短期間で再現することはできない。場所ごとに地形や残された泥炭の状態を調べ、水位を調整し、植生や温室効果ガスの変化を長く見守る必要がある。EPAの研究も、再湿潤化した土地の水位を継続的に測り、排出量を評価する重要性を指摘している。Environmental Protection Agency

再生とは、時間を巻き戻すことではない。傷んだ土地が、これ以上炭素を失わず、生き物を支えられる状態へ向かうよう、条件を整え続けることだ。

「正しい転換」は、誰にとっても簡単なのか

泥炭から離れる政策は、数字の上では方向を示せる。しかし、その土地で働いてきた人にとっては、仕事の中身が変わるという現実がある。

採掘に従事した人が土地の再生に携わる。新しい事業で働くために技術を学ぶ。地域には、それまで泥炭産業が支えていた雇用や経済活動に代わるものが必要になる。

アイルランド政府は、この変化を「公正な移行(Just Transition)」として位置づけている。中部地域を対象とするEUの基金も、泥炭採掘の終了による影響を踏まえ、劣化した泥炭地の再生や産業遺産の活用を支援対象に含めている。gov.ie

泥炭を守ることと、そこで暮らす人の生活を守ること。その両方を考えなければ、転換は地域に根づかない。

家庭で泥炭を切り出してきた人々の権利にも、同じ複雑さがある。保護対象となった一部の高層湿原では採取が制限され、国は影響を受ける土地所有者や採取権者に補償制度を設けている。自然保護は、暮らしの慣習や土地の権利と向き合いながら進められている。National Parks & Wildlife Service

「環境に良いから止める」で話を終えることはできない。何を失う人がいて、次にどんな役割を担えるのか。そこまで設計して、初めて土地の未来を語れる。

水を戻すことは、価値の見方を変えること

泥炭地は、乾かせば燃料や農地などに利用できる。その価値は、取り出した量や生産した量で測りやすい。

一方、水を含んだままの泥炭地が果たす働きは、日々の売上としては見えにくい。炭素を蓄える。生き物の生息場所になる。水を保持し、流れ方に関わる。国立公園・野生生物局は、これらを泥炭地がもたらす重要な働きとしている。National Parks & Wildlife Service

だから、この転換は土地の使い方だけでなく、価値の数え方も変える。

以前は、水を抜くことが仕事を生んだ。今度は、水を戻し、土地の状態を観測し、守り続けることが仕事になる。Bord na Mónaは、泥炭を採掘していた元従業員も湿地の再生に携わっていると報告している。BnM

ただし、再湿潤化さえすれば、その土地が直ちに理想的な炭素吸収源になると考えるべきではない。水位や植生によって温室効果ガスの出入りは変わり、成果には長期の観測が要る。EPAも、泥炭地を守る政策には、継続的な資金、監視、地域の参加が必要だと整理している。Environmental Protection Agency

自然を「使う」ことと「守る」ことは、地図上で別々の色に塗り分けられるほど簡単ではない。その土地で生きる人の仕事があり、過去の投資があり、これから担ってほしい役割がある。

黒い大地の、次の仕事

前回のアイスランドでは、氷河が退くことで、湖や川、電力、観光の前提が変わっていく姿を見た。

アイルランドでは、その反対のような動きが見える。人が水を抜いて利用してきた土地に、もう一度、水を戻そうとしている。

だが、二つの国に共通する問いは同じだ。

自然が変わったとき、私たちは、その土地の価値をどう捉え直すのか。

泥炭地の黒い表面だけを見れば、何も生産していない土地に見えるかもしれない。しかし、その下には長い時間が蓄えられている。水と炭素、生き物の居場所、そして人々が働き、暮らしてきた記憶もある。

アイルランドが取り戻そうとしているのは、過去の湿地をそのまま再現した風景ではない。

燃やすために掘ってきた大地に、これから何を託すのか。その答えを、土地と地域の人々が時間をかけてつくっている。

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