NEOTERRAINの書籍・Tシャツ・トートバッグを公開中

なぜ静岡県は、ひとつの県なのに「四つの顔」を持つのか──伊豆・東部・中部・西部を分けた地形と都市圏

伊豆の海岸、山地、駿河湾、茶畑、都市を重ね、「ひとつの県に、四つの顔がある。」と描いた静岡県4地域のイメージ
ひとつの県に、四つの顔がある

東海道新幹線で東京から西へ向かう。

熱海を過ぎ、三島、新富士、静岡、掛川、浜松へ。地図の上では、同じ静岡県の中を移動している。しかし、車窓の風景も、町の規模も、産業も、次第に変わっていく。

伊豆では、山が海岸近くまで迫り、温泉街が谷や斜面に沿って形成されている。富士山麓へ進むと、豊富な水を利用した工場が現れる。静岡市周辺では、城下町と港、茶産地が重なり、浜松まで来ると、工場や物流施設が連なる製造業の町へ変わる。

同じ県にありながら、土地の表情はひとつではない。

それは、名産品や方言が違うというだけの話ではない。それぞれの地域が、異なる地形、異なる歴史、異なる都市圏とのつながりのなかで形成されてきたからである。

静岡県はなぜ、ひとつの県でありながら「四つの顔」を持っているのだろう。

その理由を、伊豆、東部、中部、西部という四つの地域から読み解いていく。

Contents

行政上の県境と、人が感じる境界は同じではない

都道府県の境界は、地図の上に線として描かれている。

だが、人々の生活圏や経済圏は、必ずしも県境の中だけで完結しているわけではない。

どこへ通勤するのか。
どの都市へ買い物に行くのか。
どの鉄道や道路を利用するのか。
どの地域の企業と取引しているのか。

こうした日常的な移動や関係によって、人々が実際に感じる地域の輪郭がつくられる。

静岡県の場合、東側は首都圏との結びつきが強く、西側は中京圏と接している。中央には県庁所在地である静岡市があるが、県内すべての人や産業が静岡市を中心に動いているわけではない。

県自身も静岡県を一つの均質な地域として捉えていない。現在の県政では、自然的・社会的条件を踏まえ、県内を伊豆、東部、中部、西部の四地域に区分している。静岡県の総合計画でも、四地域それぞれの特色と可能性を生かす方針が示されている。

行政区分としてはひとつの県であっても、その内側には複数の生活圏と経済圏が存在している。

静岡県の本当の境界は、県境の外側だけではない。

県の内側にも、目には見えない境界がある。

伊豆──県の東端であり、首都圏に開かれた半島

伊豆半島は、静岡県の一部でありながら、地理的にも文化的にも独立した輪郭を持っている。

半島の中央には山地があり、平地は限られている。町や集落は海岸、河川沿い、盆地などに分散し、半島内の移動であっても山や峠を越えなければならない場所が多い。

この地形は、一つの大きな都市を形成するよりも、温泉地、港町、農漁村が小さな生活圏をつくる構造を生んだ。

熱海、伊東、下田、修善寺、西伊豆。

それぞれが異なる海岸線と温泉、歴史を持ち、同じ伊豆半島の中でも町の表情は異なる。

一方で、伊豆は静岡市よりも首都圏を近く感じる地域でもある。

熱海は東海道新幹線によって東京と直接つながり、伊豆半島へ向かう鉄道や道路も、首都圏から観光客を迎える方向に発達してきた。静岡県の移住情報でも、伊豆は首都圏からのアクセスと温泉資源を特徴とする地域として位置づけられている。静岡県移住・定住情報サイト

つまり伊豆は、静岡県の東端であると同時に、首都圏の人々を受け入れる入口でもある。

ただし、観光地として人が訪れることと、地域で人が暮らし続けることは同じではない。

山地が多く、移動や物流に制約がある。観光サービス業への依存度が高い地域では、季節変動や景気の影響も受けやすい。高齢化や担い手不足が進むなか、観光客だけでなく、生活者や働く人をどう迎えるかが課題になっている。

伊豆には、外から来る人を受け入れてきた開放性がある。

その一方で、半島という地形が生む距離と孤立もある。

この二つの性格が重なって、伊豆独自の空気をつくっている。

東部──富士山の下に、複数の都市が並ぶ

伊豆半島の北側から富士山麓にかけて広がる東部地域には、沼津、三島、御殿場、富士、富士宮などの都市がある。

この地域の特徴は、静岡市や浜松市のように、一つの大都市だけですべてが完結する構造ではないことだ。

沼津には商業や交通の蓄積があり、三島には東海道新幹線の駅がある。御殿場は箱根や首都圏方面との結びつきが強く、富士・富士宮には製紙をはじめとする工業集積がある。

都市ごとに異なる役割を持ち、相互に補完しながら東部地域を形成している。

東部の人々にとって、東京は遠い別世界ではない。

三島や新富士から東海道新幹線を利用でき、道路では東名高速道路、新東名高速道路、国道1号、国道246号などが首都圏方面へ延びている。県の移住情報でも、東部地域は「都心につながる暮らし」ができる地域として紹介されている。

ここでは、県庁所在地の静岡市だけでなく、東京や神奈川も生活圏の延長に入ってくる。

同時に、富士山は東部地域の水と産業を支えてきた。

富士山に降った雨や雪は地下へ浸透し、長い時間をかけて湧水や地下水となる。その水を利用して、富士市周辺では製紙・パルプ産業が発展した。静岡県の工業用水道事業にも、良質な地下水を背景に岳南工業地域が形成された歴史が記されている。

富士山は観光資源であるだけでなく、地域産業を動かす巨大な水源でもあった。

東部地域は、富士山という象徴を共有しながら、複数の都市が異なる機能を担う分散型の地域なのである。

中部──静岡県という物語を編集する場所

中部地域の中心には、県庁所在地の静岡市がある。

行政、文化、商業、報道など、県全体に関わる機能が集まり、「静岡県」というまとまりを最も強く意識させる場所である。

しかし、中部地域も静岡市だけでできているわけではない。

清水には国際拠点港湾である清水港があり、焼津には遠洋漁業と水産加工の集積がある。藤枝、島田、牧之原へ進めば、東海道の宿場町、大井川の川越文化、茶業、空港など、異なる地域資源が現れる。

北側には南アルプスへ続く山間部があり、南側には駿河湾がある。

山、川、平野、港、街道が近い範囲に重なっていることが、中部地域の特徴である。

歴史的には、駿府は今川氏の城下町として発展し、徳川家康が晩年を過ごした場所でもある。江戸と京都・大坂を結ぶ東海道の中間に位置し、人、物資、情報が行き交った。

現在も静岡市は、東京と名古屋の中間に位置する県都として、行政や文化を集約している。

だが、静岡市の役割は、県内のすべてを支配することではない。

伊豆、東部、西部という異なる地域を、「静岡県」というひとつの物語へ編集することにある。

県庁、新聞、放送、文化施設、大学、企業などが、地域ごとに異なる情報を集め、県全体へ伝える。その意味で中部地域は、静岡県の中心というよりも、複数の静岡をつなぐ編集拠点と捉えることができる。

大井川──地理的な境界が文化の境界になった

中部と西部の間には、大井川が流れている。

現在は橋や鉄道、高速道路によって簡単に越えられるが、かつて大井川は東海道を行く旅人にとって大きな障害だった。

江戸時代、大井川では架橋と通船が禁じられ、旅人は川越人足を雇って渡らなければならなかった。川の水量が増えれば川越しは禁止され、島田宿や金谷宿で何日も待つことになった。

大井川は、単なる河川ではない。

かつての駿河国と遠江国を分ける境界であり、人の移動を止め、生活圏や文化圏を分ける装置でもあった。

川の東側と西側では、言葉、産業、祭り、食文化、人々が向く都市の方向も少しずつ変わる。

地図の上に県境はない。しかし、人間の感覚には境界が残る。

大井川を越えるという行為は、静岡県の中で別の土地へ入る感覚を、長い時間をかけてつくってきたのではないだろうか。

西部──静岡県の中にある独立した産業圏

大井川を越えて遠州へ入ると、静岡市よりも浜松市の存在感が強くなる。

浜松は県庁所在地ではない。しかし、人口、経済、産業、文化の面で、静岡市とは異なる中心性を持つ都市である。

特に製造業では、静岡県内にとどまらず、世界市場と直接つながっている。

浜松では、繊維産業から織機が生まれ、木工や機械加工の技術が楽器へ発展し、さらにオートバイ、自動車、光・電子産業へと展開していった。ホンダ、ヤマハ、スズキなど、世界的な企業がこの地域から誕生している。

この産業構造は、県都に依存して成長したものではない。

地域の職人、中小工場、起業家が技術を持ち寄り、試作と改良を繰り返すことで形成された内発的な産業圏である。

浜松市は、この地域の気質を「やらまいか精神」と表現している。浜松市の創造都市に関する基本方針にも、繊維から楽器、オートバイ、自動車、光・電子技術へと産業が発展した過程が示されている。

西部地域は地理的にも中京圏に近い。

道路や鉄道、企業間取引を通じて、愛知県や名古屋との関係が生まれやすい。県の地域紹介でも、西部は「中京圏につながる、ものづくりと田園の街」と位置づけられている。

県庁所在地は静岡市にある。

しかし、西部地域の産業が見ている先は、必ずしも静岡市ではない。名古屋であり、東京であり、海外市場である。

浜松を中心とする西部地域は、静岡県の中にありながら、独自の方向を向く産業圏なのである。

現在の静岡県は、最初からひとつだったわけではない

四つの地域の違いは、現在の交通や産業だけから生まれたものではない。

現在の静岡県にあたる地域は、かつて伊豆国、駿河国、遠江国に分かれていた。江戸時代には、幕府直轄地、旗本領、諸藩の領地が複雑に入り組み、一人の大名によって統一的に支配された地域ではなかった。

明治4年の廃藩置県の時点でも、現在の県域には韮山県、静岡県、堀江県があり、その後、遠州には浜松県が置かれた。

旧伊豆国が静岡県へ編入され、浜松県と静岡県が合併し、現在の県域が成立したのは1876年である。静岡県公式の県成立史からも、異なる地域を段階的に統合して現在の静岡県が生まれたことが分かる。

つまり、静岡県は歴史的に一つだった地域をそのまま県にしたのではない。

異なる地形、文化、産業を持つ地域を、近代国家の行政制度のなかで一つにまとめた県である。

静岡県が「ひとつになりきれない」のではない。

最初から、異なる土地が共存することによって成立した県なのである。

「中心がひとつではない」ことは、弱さなのか

中心が一つに定まらない県は、政策や情報発信の面で難しさを抱える。

伊豆の課題と浜松の課題は同じではない。

首都圏との関係が深い東部と、中京圏との産業連携が強い西部では、必要な交通政策や企業支援も異なる。県全体に同じ施策を当てはめても、地域によって効果は変わる。

若者が進学や就職で移動するときも、県内の中心都市だけでなく、東京、横浜、名古屋など県外の大都市へ流れやすい。

地域ごとの方向性が異なることは、県全体の一体感をつくるうえでは難しさになる。

しかし、別の見方をすれば、中心が複数あることは強みでもある。

観光に特化した伊豆。
首都圏とつながる東部。
行政・文化・港湾機能を持つ中部。
世界的な製造業が集積する西部。

一つの産業や一つの都市が停滞しても、県全体が同じように沈むとは限らない。異なる経済圏、産業、地域資源を持つことは、変化に対する柔軟性になる。

問題は、地域差を消すことではない。

それぞれが持つ違いを認めたうえで、どのようにつなぐかである。

これから必要なのは、県を均一にすることではない

交通やデジタル技術の発達によって、地域間の距離は以前より縮まった。

それでも、伊豆の課題を浜松の論理だけで解決することはできない。浜松の産業政策を、静岡市の行政機能だけで設計することも難しい。

地域の違いは、解消すべき遅れではない。

長い時間をかけて形成された土地の個性であり、産業と文化の土台である。

これからの静岡県に必要なのは、「静岡県らしさ」を一つに決めることではないのだろう。

伊豆、東部、中部、西部が、それぞれ異なる顔を持ったまま連携すること。

伊豆の観光や自然環境、東部の水と首都圏への近さ、中部の行政・文化・港湾機能、西部の製造技術。これらを地域ごとに閉じ込めず、互いの知識、人材、技術を循環させることが重要になる。

一つに統一するのではなく、異なるものをつなぐ。

その設計こそが、東西に長い静岡県の地政学にふさわしい。

静岡県には、四つの異なる匂いがある

伊豆には、潮と温泉、人を迎える町の匂いがある。

東部には、富士山の水と、紙をつくる工場の匂いがある。

中部には、茶葉、魚、港、城下町に積み重なった時間の匂いがある。

西部には、木材、金属、機械油、何かを試作する工場の匂いがある。

どれか一つだけが、静岡県の本当の姿なのではない。

異なる土地の匂いが、東海道という一本の軸に沿って並んでいる。その複数性こそが、静岡県の輪郭である。

静岡県は、富士山を中心にまとまった県ではない。

海と山、川と街道によって分けられながら、それぞれの場所で人々が仕事と文化をつくり、ゆるやかにつながってきた県である。

ひとつの県に、四つの顔がある。

それは静岡県がまとまりを欠いているからではない。

異なる土地を、異なるまま抱えてきたからである。

この記事が響いたら、シェアしていただけると嬉しいです。
  • URLをコピーしました!
Contents