一錠の薬を、水とともに飲み込む。
薬は体の中で溶け、痛みを抑え、熱を下げ、細菌の増殖を防ぎ、私たちの健康を守る。
その役割を終えた後、薬はどこへ行くのだろうか。
すべてが体内で消えるわけではない。
一部は変化しないまま、あるいは代謝物へ姿を変え、尿や便とともに体の外へ出る。家庭や病院から下水道へ入り、下水処理場を通り、その一部が川や海へ流れていく。
薬は、病気を治すためにつくられた。
しかし、人の体を離れた後も、その成分が生物に作用する可能性は残る。
いま、日本の河川から、抗生物質、解熱鎮痛薬、抗てんかん薬、糖尿病治療薬、向精神薬など、さまざまな医薬品の成分が検出されている。
水は透明に見える。
けれど、その中には、私たちが暮らしの中で使った薬の痕跡が流れている。
医薬品は、なぜ川へ流れ出すのか
医薬品が環境へ出る経路は、一つではない。
最も身近なのは、服用後の排泄である。
薬の成分は体内で吸収、分解されるが、すべてが消失するわけではない。成分の一部は、そのままの形や代謝物として尿や便に含まれる。
それが下水処理場へ運ばれ、十分に除去されなかった成分が処理水とともに川へ放流される。
ほかにも、家庭で余った薬をトイレや流しへ捨てること、病院や介護施設からの排水、製薬工場からの排水、家畜や養殖魚に使われた動物用医薬品などが発生源になる。
国連環境計画は、医薬品製造、患者や動物からの排泄、養殖、未使用薬の廃棄などを、環境中へ医薬品が放出される主な経路として挙げている。UNEP「Pharmaceuticals in the Environment」
ただし、この問題を「薬を飲む人が川を汚している」という話にしてはいけない。
病気を治療し、痛みを和らげ、命を守るために、薬は必要である。
問題は、薬を使うことではない。
人の体を出た後の薬まで考えた仕組みが、まだ十分に整っていないことである。
下水処理場は、すべての薬を取り除く場所ではない
下水処理場処理場では、沈殿や微生物による分解、消毒などによって、生活排水に含まれる汚れを取り除いている。
しかし、一般的な下水処理は、あらゆる種類の微量化学物質を完全に除去するようにつくられているわけではない。
医薬品の除去されやすさは、物質によって大きく異なる。
微生物によって分解されやすい成分もあれば、水に溶けたまま処理工程を通過しやすい成分もある。汚泥に吸着するものもあれば、代謝物や分解物へ変化するものもある。
国土交通省の研究では、通常の生物処理と塩素消毒を行う下水処理場において、調査対象となった一部の抗インフルエンザ薬の除去率は平均3〜17%にとどまった。一方、オゾン処理を併用した施設では、成分によって60〜94%の除去率が確認された。国土交通省「パンデミック発生に伴う流域水質管理に関する研究」
高度処理を導入すれば、除去できる医薬品を増やせる可能性がある。
しかし、オゾン、活性炭、膜処理などには設備費やエネルギー、維持管理費が必要になる。分解によって別の物質が生じる可能性も検討しなければならない。
すべての下水処理場へ同じ設備を導入すればよい、という単純な話ではない。
横浜の鶴見川でも、複数の抗生物質が検出された
環境省は2026年7月、「マクロライド系抗生物質の複合曝露による生態リスクの検討」を公表した。
対象となったのは、エリスロマイシン、ロキシスロマイシン、アジスロマイシン、クラリスロマイシンと、その主要代謝物である14-(R)-ヒドロキシクラリスロマイシンの5物質である。
過去の化学物質環境実態調査では、横浜市の鶴見川・亀の子橋、名古屋市の堀川港新橋、荒川河口、大阪港、隅田川河口など、都市部を中心とする複数の地点で、これらの成分が同じ水域から検出された。
鶴見川の亀の子橋では、調査対象となった5物質すべてが確認されている。
ただし、ここで注意しなければならない。
2026年に公表された報告書であっても、使われた環境省の測定値は主に2014年度と2019年度のものである。現在の鶴見川の状態をリアルタイムで示した数字ではない。
それでも、この結果は重要である。
薬は、一種類だけで川を流れているのではない。
多くの人が使った異なる薬が下水処理場へ集まり、同じ川の中で混ざり合っている。環境省「マクロライド系抗生物質の複合曝露による生態リスクの検討」
体内で変化しても、作用がなくなるとは限らない
薬は、人の体内で代謝されれば安全な物質へ変わるようにも思える。
しかし、必ずしもそうではない。
クラリスロマイシンが体内で代謝されて生じる14-(R)-ヒドロキシクラリスロマイシンは、元の薬と同程度か、やや弱い抗菌活性を持つ。
環境省の2019年度調査では、クラリスロマイシンは30地点中19地点、その代謝物は30地点中26地点で検出下限値以上から確認された。
さらに、両方が定量的に確認された24地点では、元の薬と代謝物の濃度に、ほぼ一対一の関係がみられた。
つまり、体の中で姿が変わっても、その先で生物へ作用する可能性が消えるとは限らない。
環境問題として考えるときには、飲んだ薬そのものだけでなく、体内や下水処理場で生まれる代謝物や分解物まで追う必要がある。
一種類ずつでは見えなかった「混ざったときのリスク」
これまでの化学物質のリスク評価は、多くの場合、一つの物質ごとに行われてきた。
しかし、実際の川には、複数の医薬品、洗剤、化粧品、農薬、工業由来の化学物質などが同時に存在している。
一つひとつの濃度が基準を下回っていても、似た作用を持つ物質が重なれば、影響が無視できなくなる可能性がある。
環境省の2026年のケーススタディでは、それぞれの抗生物質の実測濃度を予測無影響濃度で割り、その値を合計する「ハザードインデックス」という方法で複合曝露を評価した。
同一地点の測定値を用いた評価では、鶴見川・亀の子橋、名古屋市の堀川港新橋、大阪港の3地点で、詳細な評価を検討すべき水準を超えた。
大阪港では、個別に見ると評価値を超えた物質はなかった。しかし、複数の抗生物質を合計すると、複合曝露による生態リスクが懸念される結果となった。
これは「その場所で生態系被害が確認された」という意味ではない。
環境省も、この報告書を正式なリスク管理判断ではなく、限られた情報を使ったスクリーニング段階のケーススタディと位置づけている。
それでも、一種類ずつ調べるだけでは見落とす可能性があることを示した意味は大きい。
川は、物質ごとに分かれて流れているわけではない。
抗生物質が影響するのは、病原菌だけではない
抗生物質は、細菌の増殖や生命活動を抑えるようにつくられている。
その性質は、川へ出た後も完全には失われない可能性がある。
環境省の評価では、今回対象となったマクロライド系抗生物質に対して、魚類や甲殻類よりも、藻類や藍藻類が強い感受性を示す傾向が確認された。
藻類は、水中で目立たない存在に見える。
しかし、光合成によって有機物や酸素を生み、動物プランクトンや小魚を支える、水域生態系の土台である。
その生長が長期間にわたって抑えられれば、影響は藻類だけで終わらない。
プランクトン、小魚、大型魚、鳥類へとつながる食物網や、水中の酸素、物質循環にも変化が及ぶ可能性がある。
薬は、人にとっては適切な量と期間で使われる。
しかし、水中の生物は、自分の意思で薬から離れることができない。
非常に低い濃度であっても、流れ続ける水の中で、長期間さらされることになる。
薬剤耐性菌という、もう一つの問題
抗生物質が環境中へ流出する問題は、水生生物への直接的な影響だけではない。
低濃度の抗生物質が存在する環境では、生き残った細菌が耐性を獲得し、薬の効きにくい菌が選ばれる可能性がある。
これが、薬剤耐性、AMRの問題である。
耐性菌や耐性遺伝子は、人、動物、排水、河川、土壌の間を移動する。
病院や家庭だけで抗生物質を適正使用しても、製薬工場、畜産、養殖、下水、廃棄物を含めた環境側の対策がなければ、耐性の広がりを十分に抑えることはできない。
国連環境計画も、製薬、農業、医療などから生じる汚染を、薬剤耐性を促進する主要な要因の一つとして位置づけている。
人の健康、動物の健康、環境の健全性を別々に扱わず、一つのつながった問題として考える「ワンヘルス」の視点が必要になる。
「水道水を飲むと薬の影響を受ける」のか
河川から医薬品が検出されたと聞けば、水道水は安全なのかという不安が生まれる。
ここは、生態系への影響と人への健康影響を分けて考える必要がある。
WHOは、飲料水から検出される医薬品の濃度は、一般に治療で使用される最低用量より何桁も低く、個々の医薬品による人への明確な健康影響が生じる可能性は低いとしている。そのため、現時点では医薬品ごとの飲料水ガイドライン値を設定していない。WHO「Guidelines for Drinking-water Quality」
したがって、「川から薬が検出されたから、水道水が直ちに危険だ」と結論づけることはできない。
一方で、非常に低い濃度へ長期間さらされる影響や、複数の物質が混ざった場合の影響、薬剤耐性を介した間接的な影響には、まだ分からない部分が残る。
現在、より直接的に検討が必要なのは、飲料水を介した人への薬理作用よりも、排水が流れ込む水域の生態系や微生物への継続的な影響である。
不安を煽るのではなく、分かっているリスクと、まだ分かっていない領域を分けて伝える必要がある。
薬を飲まないことが、解決ではない
環境負荷があるからといって、処方された薬を自己判断で減らしたり、服用を中止したりしてはいけない。
特に抗生物質は、医師や薬剤師の指示に従い、決められた量と期間で使用することが重要である。
途中で服用をやめれば、治療が不十分になるだけでなく、体内で薬剤耐性菌が生まれる原因にもなり得る。
一方、余った薬をトイレや流しへ捨てれば、下水へ直接流れ込む。
家庭で不要になった薬の処分方法は、薬の種類や自治体によって異なる。自己判断で水へ流さず、まず薬局や医療機関、自治体へ確認することが基本になる。
しかし、家庭での廃棄だけを改善しても、服用後の排泄までは止められない。
だからこそ、個人の心がけだけではなく、医薬品の設計、処方、回収、下水処理、環境モニタリングをつなげる必要がある。
薬の一生を、治療の後まで設計する
医薬品による環境負荷を減らすには、薬が川へ出てから除去するだけでは限界がある。
まず、必要な人へ必要な量を処方し、過剰な使用や不要な残薬を減らす。
環境中で分解されやすく、生態毒性の低い医薬品を開発する。新薬の開発段階から、使用後に環境へどの程度排出されるかを評価する。
日本でも厚生労働省は2016年に「新医薬品開発における環境影響評価に関するガイダンス」を公表している。厚生労働省「新医薬品開発における環境影響評価に関するガイダンス」
病院や製薬工場など、濃度が高くなりやすい場所では、排水を発生源に近い段階で処理する。
下水処理場では、地域の河川流量や処理水の占める割合、医薬品の検出状況を調べ、必要性の高い場所から高度処理を導入する。
そして、単一物質だけではなく、複数の医薬品や代謝物が混ざった状態を継続的に測定する。
必要なのは、すべての薬を敵視することではない。
薬がつくられ、処方され、飲まれ、体を出て、水へ戻るまでを、一つの循環として設計し直すことである。
人を治した薬が、川を傷つけないために
薬は、人間が手にした大切な技術である。
感染症を治し、痛みを減らし、持病とともに生きる時間を支えてきた。
その価値を否定する必要はない。
しかし、薬の物語を「飲んで治った」で終わらせることもできない。
人の体を出た成分は、下水処理場を通り、川へ流れ、藻類や微生物と出会う。
一人が飲んだ一錠は小さい。
けれど、都市に暮らす何万人、何百万人もの排水が集まれば、複数の薬が同じ水の中で重なっていく。
人を治した後、その薬はどこへ行くのか。
薬の効果だけでなく、その後の行方まで考えること。
それは治療を否定することではない。
人の健康を支える仕組みを、川や海、生態系の健康まで含めてつくり直すことである。

