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凍る湖は、眠っていない——バイカル湖の氷が支える生命

霧に包まれたバイカル湖の氷と、その下を泳ぐアザラシに「氷の下で、湖は生きている。」の文字を重ねたイメージ
霧に包まれたバイカル湖の氷と、その下を泳ぐアザラシ

冬のシベリア。

バイカル湖の岸辺は、深い霧と雪に包まれている。

音のない白い大地の向こうに、凍りついた湖面がどこまでも続く。透明な氷には青い亀裂が走り、その下には、暗く冷たい水が広がっている。

湖は、長い眠りに入ったように見える。

しかし、氷の下で生命が止まっているわけではない。

わずかな光を受けて植物プランクトンが成長し、それを小さな動物が食べ、魚が追い、さらにバイカルアザラシへとつながっていく。

氷は、湖を閉ざす蓋ではない。

光、水温、風、雪、生命の時間を調整する、冬だけの環境である。

その氷が、いま静かに変わり始めている。

Contents

世界最深の湖に残された、長い生命の記憶

ロシア南東部に位置するバイカル湖は、およそ2500万年の歴史を持つ世界最古の湖であり、最深部は1600メートルを超える。

世界の凍っていない淡水の約20%を蓄える、地球上でも特別な水域である。

長い時間と地理的な隔離によって、バイカル湖では独自の進化が続いてきた。

透明な水の中には、バイカル湖だけで見られる藻類、甲殻類、魚類、淡水海綿、そして世界で唯一、湖だけで生涯を送るバイカルアザラシが暮らしている。

その生物多様性の価値から、バイカル湖は1996年にユネスコの世界自然遺産へ登録された。UNESCO World Heritage Centre

バイカル湖の生命は、冷たい水に耐えているだけではない。

寒さ、結氷、融解という季節の繰り返しそのものに適応してきた。

冬は、生き物がただ耐え忍ぶ空白の季節ではない。

一年の生態系を組み立てる、重要な時間なのである。

氷の下にも、春が来る

湖面が氷で覆われると、水中へ届く光は弱くなる。

厚い氷と雪の下では、完全な暗闇が続いているように思える。

しかし、透明度の高い氷を通過した光は水中へ届き、氷の下面やその近くで植物プランクトンの成長を支える。

代表的な存在が、バイカル湖の固有種である大型珪藻、アウラコセイラ・バイカレンシスだ。

この珪藻は、氷に覆われた冬の終わりから春にかけて増殖する。珪藻がつくり出した有機物は動物プランクトンへ渡り、魚、さらに上位の捕食者へと受け渡されていく。

つまり、氷の下で始まる小さな光合成が、湖全体の食物網を動かしている。

氷に覆われていても、湖は眠っていない。

むしろ、見えない場所で次の季節の準備を進めている。

氷と雪は、光の量を決めている

氷があれば、植物プランクトンが必ず増えるわけではない。

重要なのは、氷の厚さや透明度、その上に積もる雪の量である。

雪は光を強く遮る。

バイカル湖で行われた研究では、雪がほとんどない氷の下ではアウラコセイラが成長した一方、約10センチの雪によって利用可能な光の99%が遮られ、成長が抑えられた場所が確認されている。Hydrobiologia掲載研究

しかし、光は多ければよいわけでもない。

バイカル湖の珪藻は、強すぎる光にも弱すぎる光にも影響を受ける。氷の透明度、雪の深さ、気泡や亀裂、水中の混合が組み合わさることで、成長に適した光環境が生まれる。

氷と雪は、単なる凍った水ではない。

湖へ差し込む光を調節する、巨大なフィルターなのである。

その厚さや期間が変われば、氷下の植物プランクトンが光を受け取る時期も変わる。

そして、その変化は食物連鎖の先にいる生物へ伝わっていく。

氷は、湖に「冬の時間」をつくる

バイカル湖では、一般に湖面が4〜5か月ほど氷に覆われる。

巨大な湖は夏に蓄えた熱を長く保持するため、シベリアの厳しい寒さの中でも、秋の早い時期から凍るわけではない。通常は冬が深まってから広い湖面が結氷する。NASA Earth Observatory

結氷すると、風による表面の攪乱が弱まり、湖の中に冬特有の安定した環境が生まれる。

その一方で、氷の下でも水は完全に静止しているわけではない。

水温差による対流や湖内の流れが、栄養塩や植物プランクトンを移動させる。氷に付着したり、光の届く深さへ運ばれたりしながら、生物は氷下環境を利用している。

氷が張る時期。

氷に雪が積もる時期。

日が長くなり、光が強くなる時期。

氷が割れ、水面が再び現れる時期。

バイカル湖の生命は、この順序に合わせて活動してきた。

氷を失うということは、白い景色を失うことだけではない。

湖が長い時間をかけて築いてきた「季節の時計」が変わることなのである。

短くなってきた結氷期間

バイカル湖では、19世紀から結氷と解氷の記録が残されている。

南部で行われた長期観測の分析では、1869年から2000年までに氷のない期間が約18日長くなり、1949年から2000年までに氷の厚さが約12センチ減少したと報告されている。

また、1946年以降の約60年間に、表層水温の平均値が約1.2℃上昇し、プランクトン群集にも長期的な変化が確認された。BioScience掲載論文Global Change Biology掲載研究

ただし、湖の氷は毎年同じように減るわけではない。

大気循環、風、降雪、地域ごとの水温などによって、結氷と解氷の時期は年ごと、場所ごとに変動する。

一部の時期や地域では、単純な長期傾向とは異なる動きも観測されている。

大切なのは、一年の暖冬だけを見て湖の未来を決めつけることではない。

長期的に、氷が張る時期、解ける時期、厚さ、雪の量、氷の透明度を見続けることである。

氷が減れば、光が増えるだけなのか

氷が薄くなり、早く解ければ、水中へ届く光は増えるかもしれない。

それなら植物プランクトンが増え、生態系にとってよいのではないか。

しかし、湖の反応はそれほど単純ではない。

氷下で繁栄する大型の固有珪藻は、低温と氷のある季節に適応している。一方、水温が高くなり、氷のない期間が長くなると、温かい水を好む小型の植物プランクトンや動物プランクトンが優位になる可能性がある。

実際、長期観測や湖底堆積物の分析からは、バイカル湖のプランクトン群集が水温や氷の変化に応答していることが示されている。PLOS ONE掲載研究

問題は、生物の量が一律に減るかどうかだけではない。

どの生物が増え、どの生物が減るのか。

その変化によって、栄養やエネルギーが食物連鎖の上位へ届く経路が変わることである。

緑が増えたとしても、それが従来の生態系を支えていた緑とは限らない。

湖が生産的になったとしても、バイカル湖固有の生命が守られているとは限らないのである。

バイカルアザラシが必要とする氷

バイカル湖の冬を象徴する生き物が、バイカルアザラシである。

海から離れた巨大な淡水湖で暮らし、魚を追いながら一年の多くを水中で過ごす。

冬になると、アザラシは氷に呼吸穴を維持する。雌は氷と雪の中に巣穴をつくり、そこで子どもを産み育てる。

雪に覆われた巣穴は、厳しい寒さや風、外敵から子どもを守る場所になる。

氷は移動の足場というだけでなく、繁殖と育児の空間なのである。バイカルアザラシの生態・遺伝研究

結氷期間が短くなり、融解が早まれば、巣穴を利用できる時間も変わる。

雪が少なければ巣穴をつくりにくくなり、雨や急な暖気によって構造が崩れる可能性もある。

ただし、氷の変化が個体数へどの程度影響するかには、餌資源、病気、汚染、人間活動なども関係する。

すぐにアザラシが姿を消すと断定することはできない。

それでも、繁殖という最も重要な時期を氷に依存する以上、氷と雪の変化は無視できない生息環境の変化である。

固有種は、変化から逃げにくい

バイカル湖には、冷たい水に適応してきた固有の甲殻類や淡水海綿が数多く存在する。

長い進化の過程で、限られた水温や酸素環境に適応した生物は、安定した環境では強い。

しかし、条件が急速に変わったときには、その専門性が弱点になることがある。

広い温度域で暮らせる生物は、生息場所を変えたり、活動する季節をずらしたりできる。

一方、冷たい環境に強く依存する固有種は、温暖化から逃れられる場所が限られる。

バイカル湖は巨大で深いため、その全体が一様に温まるわけではない。深層水は比較的安定し、湖の深部へ酸素を運ぶ仕組みも、表面水温の上昇だけで直ちに止まるとは限らない。

それでも、沿岸部や表層、氷下という季節変化の影響を強く受ける場所では、生態系の組み替えが先に進む可能性がある。

変化は、湖全体の崩壊として一度に現れるのではない。

特定の場所、特定の季節、特定の生物から始まる。

氷の変化に、人間の負荷が重なる

バイカル湖が直面しているのは、気候変動だけではない。

観光地や集落周辺の一部の沿岸域では、生活排水、栄養塩、廃棄物、プラスチック汚染などの問題も報告されている。

温暖化によって水温や生物の季節が変化するところへ、地域から流れ込む汚染負荷が重なれば、生態系への影響は大きくなる。

湖の内部で起きる変化と、湖岸で起きる変化は別々ではない。

氷の期間が変われば、植物プランクトンの活動時期が変わる。

水温が上がれば、汚濁物質に対する生物の反応も変わる。

観光客が増えれば、水処理や廃棄物管理の不足が沿岸環境へ現れる。

バイカル湖の環境問題は、一つの原因だけを取り除けば解決するものではない。WIREs Waterによる総合レビュー

温室効果ガスの削減とともに、排水処理、廃棄物管理、観光利用、森林と流域の保全、生物と水質の長期観測を同時に進める必要がある。

凍った湖を見るということ

私たちは、凍った湖を静止した風景として眺める。

透明な氷。

雪に覆われた岸辺。

霧の向こうに消えていく山並み。

そこには、時間まで止まってしまったような美しさがある。

しかし、氷の下では光が揺れ、珪藻が成長し、小さな甲殻類が動き、魚が泳いでいる。

アザラシは呼吸穴を守り、雪の中で新しい生命を育てている。

湖は静止しているのではない。

目に見えない速度で、冬を生きている。

気候変動によって失われるものは、氷の面積や厚さだけではない。

氷の下に存在していた光の強さ。

生物が活動を始める時期。

捕食者と餌が出会うタイミング。

子どもを産み育てるための場所。

何百万年もの間に組み立てられてきた、季節の順序である。

凍る湖は、眠っていない。

氷は、生命を閉じ込める壁ではなく、生命の時間を支える環境である。

バイカル湖の静かな冬を守ることは、白い景色を残すことではない。

その水面下で、生命がこれまでと同じ季節を迎えられるかを見続けることである。

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