奈良・大台ヶ原の立ち枯れと、次の世代を育てる自然再生
47都道府県の自然環境問題|奈良編
霧の向こうに、白い幹が立っている。
足元にはササが広がり、風が通るたび、斜面の緑が揺れる。葉を失った木々は空へ枝を伸ばし、その静かな姿が、山の時間を感じさせる。
奈良県と三重県の県境に位置する、大台ヶ原。
東大台の正木峠周辺に見られる立ち枯れや倒木は、かつてその場所に森林が広がっていた名残だ。木道から見える防鹿柵は、次の世代の樹木を、シカの食害から守るために設置されている。環境省
美しいと感じる風景の中に、森が育ち直せなくなった歴史がある。
奈良の自然環境問題を、大台ヶ原から考えてみたい。
目を向けるのは、大きな木だけではない。その足元で、次の森になるはずの小さな芽にも。
雨に育まれた山で、森の足元が変わった
大台ヶ原は、国内有数の多雨地帯だ。
紀伊半島の高標高域に位置し、トウヒ林や、まとまった面積の太平洋型ブナ林など、貴重な森林生態系が残っている。東大台と西大台では、植生や森の表情も異なる。吉野熊野国立公園 大台ヶ原
しかし、雨の多い山だからといって、林床の環境が変わらないわけではない。
環境省によると、1959年の伊勢湾台風や1961年の第二室戸台風などによって、正木峠を中心とする地域で樹木が大量に倒れた。森が明るくなり、さらに倒木が搬出されたことで、地面を覆っていたコケ類が衰退し、ミヤコザサが広がった。吉野熊野国立公園 大台ヶ原
同じ場所に雨が降っても、それを受け止める森の構造が変われば、地面の光や湿り気も変わる。
頭上を覆う枝葉。
横たわる倒木。
地面に広がるコケ。
森林は、立っている木だけでできているのではない。その下に重なるものも、次の命が育つ条件をつくっている。
シカだけでは説明できない、森の衰退
大台ヶ原の自然再生では、ニホンジカの食害への対策が重要な柱になっている。
若い木が食べられる。成木の樹皮が剥がされる。そうした影響が、森林の衰退に関わってきた。
ただし、「シカが森を壊した」という一文では、経緯を捉え切れない。
環境省は、台風や周辺森林の伐採などによってササが増え、餌の条件が変わったことを、シカが増加した要因の一つとして説明している。吉野熊野国立公園 大台ヶ原
さらに、道路の開通や利用者の増加に伴う、植生への踏みつけも重なった。大台ヶ原の森林衰退には、自然の攪乱と、人の利用と、動物の採食が複合的に関わっている。吉野熊野国立公園 大台ヶ原
シカも、この土地に生きる動物だ。
その存在を否定することと、食害による影響を抑えることは、分けて考える必要がある。森が育ち直せる状態と、シカが暮らすことを、どう両立させるのか。
自然再生は、好きな生きものだけを残す仕事ではない。互いの関係が崩れた場所で、その関係を調整する仕事でもある。
緑が戻ることと、森が戻ることは違う
ササ原は、緑に覆われている。
その景色だけを見れば、植物が豊かに育っているようにも感じられる。
けれど、地面を覆うミヤコザサの中で、トウヒなどの若い木が十分に育たなければ、次の世代の森林にはつながらない。
環境省が紹介する正木峠の保全作業では、稚樹を守る柵の中でもササ刈りが行われている。ササに覆われたままでは、稚樹が光や水分を得にくく、成長が妨げられるためだ。環境省
ここには、保全の難しさがある。
シカを柵の外にすれば、すべて解決するわけではない。
ササを減らせば、どこでも森に戻るわけでもない。
その場所に、どんな木の芽があるのか。何が成長を妨げているのか。状態を確かめながら、対策を組み合わせる必要がある。
森の未来を見るには、いま何が茂っているかに加え、次に何が育とうとしているかを見る必要がある。
大きな木が残っていても、その下に若い世代が続かなければ、森林の更新は途切れてしまう。
傷は、柵を設けたあとにも残る
被害を防ぐ対策を始めれば、生きものの状態もすぐに戻る。そう期待したくなる。
しかし、木の身体には、それまでに受けた影響が残ることがある。
大台ヶ原の防鹿柵内でトウヒを調べた研究では、柵を設ける前についたシカの剥皮痕が残り、幹の水を通す部分の損傷によって、通水が妨げられていることが示唆された。これは、2018年に観測された18個体を対象とする研究の結果だ。jstage.jst.go.jp
新しい食害を防ぐことと、過去の傷が回復することには、時間差がある。
対策をした年だけで成否を判断しにくいのは、そのためでもある。
葉が出た。
背が伸びた。
翌年も生き残った。
そうした小さな変化を、長い時間をかけて確かめる。森の再生には、人が成果を急ぐ時間とは異なる速さがある。
山にある柵は、未来を囲っている
大台ヶ原では、防鹿柵の設置や管理、樹皮を守るネット巻き、若い木を保護する小規模な柵、必要に応じたササ刈りなどが組み合わされている。
環境省は、実生の定着や稚樹の成長を確かめながら、方法を調整する管理を進めている。吉野熊野国立公園 大台ヶ原
山の中で柵を見ると、自然の風景に人工物が入り込んでいると感じるかもしれない。
しかし、その内側では、放っておくと食べられてしまう小さな木が守られている。
柵が囲っているのは、現在の緑だけではない。
数十年後、さらにその先に、枝葉を広げるかもしれない時間だ。
2026年にも、林野庁と国立公園管理事務所は、大台ヶ原・大杉谷でのネット巻きや植生保護柵の設置を体験する催しを企画している。保全作業を一般の人に知ってもらう取り組みも続いている。rinya.maff.go.jp
自然を守る仕事は、目立つ成果ばかりではない。
ネットを巻く。
柵を直す。
ササを刈る。
小さな木の生育を記録する。
その繰り返しが、森の未来を支えている。
訪れる人数だけでは、山の価値は測れない
大台ヶ原は、歩いて出会う風景に恵まれている。
その魅力を次の世代へ残すためには、人が訪れることによる影響も考えなければならない。
西大台は「利用調整地区」に指定され、立入り人数などを調整する仕組みが設けられている。利用には事前の手続きと、定められたルールに従うことが必要だ。環境省
ここには、自然観光を考えるうえで大切な問いがある。
訪れる人が増えたか。
それとともに、訪れる価値のある自然が残っているか。
人数や消費額だけでは、後者は分からない。
木道を外れずに歩くこと。
保全のための柵の意味を知ること。
目立つ大木のほかに、足元の若い木にも目を向けること。
旅の体験が、山の状態を知る時間にもなれば、風景との関係は変わってくる。
大台ヶ原の自然再生は、森を守ることと、人が自然に親しむことを、どう続けていくかという試みでもある。
次の森は、まだ足元にある
霧が晴れると、遠くの山並みが見える。
その眺めを楽しんだあと、足元にも目を戻してみたい。
ササの間に、小さな針葉樹が立っているかもしれない。今は目立たないその木が、いつか森の一部になるかもしれない。
大台ヶ原の問題は、枯れた木をどうするかだけではない。
枯れたあとに、森が育ち直せるか。
若い世代が、次の風景をつくれるか。
立ち枯れの景色を美しいと感じることと、その背景にある森林衰退を知ることは、両立できる。
知ることで、美しさの中に、失われたものと、これから育つものの両方が見えてくる。
奈良の山を未来へ渡す仕事は、まだ背の低い、その一木のそばでも続いている。
EDITOR’S NOTE — NEOTERRAIN
森を見るとき、私たちは大きな木を見上げる。
太い幹。
高い梢。
長い年月を感じさせる姿。
けれど、森が続くかどうかを知るには、小さな木を見る必要もある。
いま立っているものを守ること。
その次に育つものの場所を残すこと。
大台ヶ原を調べていると、この二つは同じではないのだと気づく。
一本の木を守る柵は、風景の邪魔に見えるかもしれない。その内側で何が育っているかを知れば、未来の森の輪郭にも見えてくる。
自然を大切にする気持ちは、美しい景色との出会いから始まっていい。
そこからもう少しだけ、その景色が続いていく条件へ、関心を伸ばしてみたい。
次の森は、見上げた先よりも、足元にあるのかもしれない。
参考資料
- 環境省「大台ヶ原の自然」
- 環境省「大台ヶ原の概要」
- 環境省「大台ヶ原の自然に起きていること」
- 環境省「シカはなぜ増えたの?」
- 環境省「健全な森ってどういう森?いま、どんな取組をしているの?」
- 環境省「大台ヶ原のササ刈り業務」(2021年の作業記録)
- 「大台ヶ原の自然再生を目指すためのトウヒの水分生理状態の解明」
- 環境省「西大台利用調整地区」
- 林野庁「『大台ケ原・大杉谷の森林再生応援団』の開催について」(2026年7月発表)
※公開資料・研究成果に基づき、奈良県と三重県にまたがる大台ヶ原を取り上げています。奈良県全域の自然環境を網羅するものではありません。冒頭などの情景表現は、現地取材の記録ではありません。

