氷河が後退した山では、白い氷に覆われていた岩壁が姿を現す。
それは、新しい大地が生まれたようにも見える。
しかし、氷河の消失によって露出した斜面は、必ずしも安定した地面ではない。長い間、氷によって支えられ、冷却されてきた岩盤が、急激な環境変化にさらされている。
さらに高山の岩壁や地中には、年間を通して凍った状態を保つ「永久凍土」が存在する。
岩の割れ目に入り込んだ氷は、巨大な山体をつなぎ留める接着剤のような役割を果たしてきた。
その氷が温まり、溶け始める。
すると岩盤の亀裂が広がり、水が入り込み、山の一部が動き出す可能性がある。
氷河危機とは、氷だけが失われる問題ではない。
氷が消えたあと、山そのものの安定性が変わる問題でもある。
永久凍土は、北極圏だけにあるのではない
永久凍土とは、地面の温度が少なくとも2年以上連続して0度以下に保たれている場所を指す。
シベリアやアラスカなど、北極圏の凍った大地がよく知られているが、永久凍土は標高の高い山岳地帯にも存在する。
アルプス、ヒマラヤ、チベット高原、アンデス、ロッキー山脈、アラスカなどでは、地表からは見えない岩盤や斜面の内部が凍結している。
ただし、高山の永久凍土は一面に連続しているとは限らない。
斜面の向き、標高、積雪、岩石の種類、日射、風、地下水などによって、凍った場所と凍っていない場所が複雑に入り混じる。
地表から数十センチから数メートルほどの範囲は、夏に溶けて冬に再凍結する。この部分は「活動層」と呼ばれる。
その下に、一年を通して凍った永久凍土がある。
気温上昇が続けば、夏に溶ける活動層は次第に厚くなり、熱はより深い岩盤へ伝わる。
永久凍土は地表から突然消えるのではない。
見えない地中で、時間をかけて温まり、岩盤の状態を変えていく。
氷は、山をつなぎ留めている
山の岩壁は、一枚の巨大な岩でできているわけではない。
無数の亀裂、断層、隙間を持つ岩石の集合体である。
その割れ目に雪解け水や雨水が入り、凍結すると、岩盤内部に氷が形成される。
氷は、割れ目の両側を結びつける。低温状態では、岩石同士を固定し、斜面の安定に寄与することがある。
だが、岩盤の温度が上昇すると、その氷が変化する。
完全に溶ける前でも、温度が0度へ近づくにつれて氷の強度は低下する。岩石同士をつなぐ力が弱まり、融解水が亀裂の奥へ入り込む。
水圧が高まれば、亀裂を押し広げる方向に力が働くこともある。
一方、気温が0度前後を行き来する場所では、水の凍結と融解が繰り返される。
水は凍ると膨張する。岩の隙間に入った水が凍結すれば、内側から岩を押す。再び溶けると、さらに奥へ水が入り込む。
この繰り返しによって、亀裂が少しずつ広がる。
山が崩れる瞬間だけを見れば、突然の災害に見える。
しかし、その準備は、何年、何十年という時間をかけて岩盤内部で進んでいる可能性がある。
氷河は、山の斜面を支えてきた
永久凍土だけでなく、氷河そのものも山の安定性に関係している。
谷を埋める厚い氷河は、周囲の岩壁に接しながら流れている。氷河が存在することで、斜面の下部が物理的に支えられている場合がある。
氷河が後退すると、その支えが失われる。
同時に、それまで氷に覆われていた岩壁が空気、日射、雨、雪解け水へ直接さらされる。
氷河から解放された斜面では、岩石にかかる圧力や温度、地下水の流れが変化する。すぐに崩れるとは限らないが、新しい環境へ適応する過程で、不安定化が進むことがある。
このような氷河後退後の地形変化は、「パラグレイシャル」と呼ばれる考え方で捉えられる。
氷河が消えたから、変化が終わるのではない。
氷河が消えたあとも、山は長い時間をかけて形を変え続ける。
永久凍土の融解、凍結と融解の反復、氷河による支えの喪失、豪雨、急激な雪解け、地震。
これらが重なることで、岩壁の一部が崩れ、落石、地滑り、岩石雪崩へ発展する可能性がある。
アルプスで進む、見えない地中の温暖化
ヨーロッパのアルプスは、高山永久凍土の観測が比較的進んでいる地域である。
研究者たちは山頂や岩壁に観測孔を設け、地中温度を長期間測定してきた。
2024年に発表された研究では、アルプス、スカンディナビア、アイスランド、スペインのシエラネバダ、スバールバル諸島にある64か所の観測孔が分析された。
2013年から2022年の間には、一部の地点で地下10メートルの温度上昇が10年間に1度を超えた。
地下10メートルは、日々の気温変化がそのまま届く場所ではない。
そこまで温暖化が伝わっていることは、高山の岩盤内部に長期的な変化が蓄積していることを示している。
スイス・アルプスの一地点を約100年間にわたって分析した2024年の研究も、永久凍土の劣化が落石の増加に関与した可能性を示している。
ただし、すべての落石を気候変動だけで説明することはできない。
岩盤の地質構造、地震、降雨、積雪、斜面の角度、もともと存在していた亀裂など、多くの条件が関係する。
高山では長期的な観測記録が少なく、人が多く訪れる場所ほど落石が記録されやすいという偏りもある。
「気温が上がったから、この岩が落ちた」と、一つの原因へ単純化することはできない。
しかし、永久凍土の温暖化と氷河後退が、斜面を不安定にする背景条件になっていることは、複数の研究やIPCCによって指摘されている。
ヒマラヤでは、観測そのものが足りない
ヒンドゥークシュ・ヒマラヤ地域にも、広大な山岳永久凍土が存在する。
ICIMODによると、北半球の永久凍土域約2,100万平方キロメートルのうち、およそ150万平方キロメートルがヒンドゥークシュ・ヒマラヤ地域にあると推定されている。
しかし、この地域の永久凍土観測は限られている。
チベット高原以外では、地中温度を長期間連続して測定する観測網が十分に整っていない。
人工衛星から地表面の変化を見ることはできても、岩盤内部の温度、氷の量、亀裂の状態まで正確に把握するのは難しい。
永久凍土域の多くは標高4,000メートル以上にあるが、その周辺には集落、道路、登山道、巡礼路、水力発電施設などが存在する。
谷が狭い山岳地帯では、落石や地滑りが道路を寸断すれば、地域全体が孤立する可能性がある。
発電所や送電線が損傷すれば、影響は下流の都市や産業にも及ぶ。
危険が存在しないのではない。
危険を判断するための観測が足りていないのである。
山の崩壊は、次の災害を引き起こす
高山で発生する岩盤崩壊は、その場所だけで終わるとは限らない。
大量の岩石が氷河の上へ落ちれば、氷や雪を巻き込み、岩石・氷雪崩となって谷を高速で流れ下ることがある。
岩石が氷河湖へ落下すれば、大きな波が発生する。
その波が湖をせき止めるモレーンを越えたり、天然の堤防を損傷したりすれば、氷河湖決壊洪水へ発展する可能性がある。
崩れた土砂が河川をせき止めれば、一時的な天然ダムが形成される。上流に水がたまり、その後、堤体が崩壊すれば、洪水と土石流が下流へ押し寄せる。
災害は、
永久凍土の融解
→ 岩盤の不安定化
→ 岩石・氷雪崩
→ 河川や氷河湖への流入
→ 洪水・土石流
→ 道路や発電施設、集落への被害
という連鎖を起こすことがある。
最初に動くのは、誰も住んでいない高山の岩壁かもしれない。
しかし、最終的な影響は何十キロも下流にある集落やインフラへ届く。
これが、高山で起きる「連鎖災害」の難しさである。
2025年、スイス・ブラッテンで起きたこと
2025年5月28日、スイス南部のブラッテン村を見下ろす山腹で大規模な岩盤崩壊が発生した。
大量の岩石がビルヒ氷河へ落下し、氷を巻き込んだ岩石・氷雪崩となって谷を流れ下った。村の大部分は土砂と氷に埋まり、谷を流れる川もせき止められた。
事前に斜面の動きが監視されていたため、住民の避難が行われていた。
2026年に発表された研究では、この現象によって約930万立方メートルの岩石と氷が移動したと推定されている。
ブラッテンの災害を、永久凍土融解だけで説明することはできない。
岩盤の構造、斜面の動き、氷河との関係、地下水、気象条件など、複数の要因が重なっていたと考えられる。
それでも、この出来事は重要な問いを投げかけた。
氷河が後退し、永久凍土が温まり、斜面が新しい状態へ移行する山岳地域で、過去の地形を前提にした安全基準は、これからも通用するのか。
高山の変化は、登山者だけの問題ではない。
その下に暮らす集落全体の存続に関わる問題になっている。
登山道、山小屋、道路が動き始める
永久凍土の融解による影響は、大規模な岩盤崩壊だけではない。
山小屋の基礎が傾く。ロープウェーの支柱が不安定になる。登山道が崩れる。道路の路面が変形する。送電線やパイプラインが損傷する。
これまで動かない地面として設計されていた場所が、ゆっくり変形し始めるのである。
アルプスでは、永久凍土上に建てられた山小屋や観光施設の補強、移転、閉鎖が課題になっている。
ヒマラヤやチベット高原では、道路、集落、発電施設などへの影響が懸念されている。
ICIMODの報告では、青海チベット高原における道路損傷の一部に、永久凍土の変化が関係しているとされる。
気候変動への適応というと、堤防や排水設備の整備が思い浮かぶ。
しかし高山では、施設が立っている地面そのものが変化する。
設計時には安定していた基礎が、数十年後には同じ状態ではなくなる可能性がある。
山の変化を、どう監視するのか
岩盤崩壊の正確な日時と規模を、長期的に予測することは難しい。
しかし、危険な斜面の変化を捉え、避難や通行規制につなげることは可能になりつつある。
主な観測方法には、次のようなものがある。
- 観測孔による地中温度の測定
- GPSによる斜面移動の監視
- 人工衛星レーダーによる地表変位の把握
- ドローンや航空写真による亀裂と地形の比較
- 地震計による微小な振動の検知
- 岩の割れる音を捉える音響センサー
- 地下水や融雪水の変化の測定
- カメラによる連続撮影
- 落石履歴と地質構造の調査
一つの観測だけで、山の内部をすべて理解することはできない。
地表の移動、地中の温度、降雨、積雪、地下水、岩盤の亀裂などを組み合わせ、斜面の状態を継続的に見る必要がある。
ブラッテンでは、斜面の異常な動きが事前に把握され、住民避難につながった。
崩壊そのものを止められなくても、人命を守るための時間をつくることはできる。
過去の災害地図だけでは足りない
これまでの防災は、過去にどこで崩れ、どこまで土砂が到達したかを基に危険区域を定めてきた。
しかし、氷河と永久凍土が変化すれば、山の条件そのものが変わる。
これまで安定していた岩壁が不安定になり、過去に崩壊記録のない場所から岩石が動く可能性がある。
さらに、氷河後退によって新しい湖が形成されれば、岩盤崩壊が洪水へつながる経路も生まれる。
危険地図は、一度作れば完成するものではない。
氷河の位置、永久凍土の温度、斜面の変位、湖の拡大、下流の土地利用に合わせて、更新し続けなければならない。
必要なのは「過去に何が起きたか」を示す地図だけではなく、「山がいま、どのように変わっているか」を示す地図である。
氷河が消えたあとも、危機は終わらない
氷河の後退は、白い氷が小さくなる現象として目に見える。
永久凍土の融解は、岩盤の内側で進むため見えにくい。
だからこそ、氷河が消えた景色を見て、変化が終わったと考えるのは危険である。
氷河による支えを失った斜面は、新しい力のバランスを探し始める。
凍っていた亀裂へ水が入り、岩盤の温度が上がり、何年も遅れて崩壊が起きることもある。
氷が消えれば、山は自由になる。
しかし、その自由は安定を意味しない。
長い間、氷に固定されてきた岩石が、重力に従って動き始める可能性を意味する。
氷河危機とは、氷を失うことだけではない。
山の形、川の流れ、道路や集落の安全が、過去とは異なる条件へ移っていくことである。
変わり始めた山を、これまでと同じ山として見てはならない。
白い氷の下に隠れていた次の危機は、すでに岩盤の内部で進んでいる。
参考資料
- IPCC, “Special Report on the Ocean and Cryosphere in a Changing Climate: Chapter 2, High Mountain Areas”
- World Meteorological Organization, “The Cryosphere – the Canary in the Coal Mine of the Climate System”
- Noetzli et al., “Enhanced warming of European mountain permafrost in the early twenty-first century,” Nature Communications, 2024
- Stoffel et al., “Rockfall from an increasingly unstable mountain slope driven by climate warming,” Nature Geoscience, 2024
- Draebing et al., “Alpine rockwall erosion patterns follow elevation-dependent climate trajectories,” Communications Earth & Environment, 2022
- International Centre for Integrated Mountain Development, “Developing a Strategy to Monitor Permafrost Changes in the Hindu Kush Himalaya,” 2023
- International Centre for Integrated Mountain Development, “Water, Ice, Society, and Ecosystems in the Hindu Kush Himalaya,” 2023
- “Frictional weakening in the highly mobile 2025 Blatten rock–ice avalanche,” Communications Earth & Environment, 2026

