森が燃えている。
人工衛星の画像には、熱源を示す赤い点が広がり、その上空を灰色の煙が覆っている。炎が木々を包み、黒く焼けた土地が残される。
しかし、地上の炎が消えた後も、火災が終わっていないことがある。
火は地面の下へ入り込み、炭素を大量に含んだ土壌をゆっくりと燃やし続ける。炎は見えにくく、雨が少し降った程度では消えない。消火されたように見えた場所から、再び煙が立ち上がる。
燃えているのは、単なる土ではない。
数百年、数千年という時間をかけて積み重なった植物の遺体である。
湿地シリーズ第二弾では、世界有数の炭素貯蔵庫である「泥炭地」が、なぜ巨大な温室効果ガスの排出源へ変わるのかを考える。
泥炭地とは、時間が地中に積み重なった場所
植物が枯れると、通常は微生物によって分解され、その炭素の多くが大気へ戻っていく。
ところが、一年を通じて水分の多い湿地では、土壌中に酸素が届きにくい。微生物による分解が遅くなり、枯れた植物が完全には分解されず、少しずつ地中に積み重なる。
こうして形成される有機物を多く含んだ土壌が、泥炭である。
泥炭が厚く堆積した場所を泥炭地と呼ぶ。寒冷地の湿原だけでなく、東南アジアの熱帯林、アマゾンやコンゴ盆地、北米、北ヨーロッパ、ロシアなど、世界のさまざまな地域に分布している。
泥炭の堆積速度は非常に遅い。
気候や植生によって異なるが、長い年月をかけても、わずかな厚さしか形成されない。数メートルの泥炭層には、数千年にわたって蓄積された植物と炭素の履歴が刻まれていることがある。
地上に見える草原や森林は現在の風景だが、その下にある泥炭層は、過去の環境が積み重なった地層なのである。
地球の陸地の約3%に、森林全体の約2倍の炭素
泥炭地が注目される最大の理由は、その面積に対して極めて多くの炭素を蓄えていることにある。
国連環境計画によると、泥炭地が占めるのは世界の陸地面積の約3%にすぎない。それにもかかわらず、世界の森林に存在する炭素の約2倍を蓄えているとされる。
森林では、樹木の幹や枝、根などにも炭素が蓄積されている。一方、泥炭地の炭素の多くは、目に見えない地面の下にある。
これが、泥炭地の価値を分かりにくくしてきた。
大木が並ぶ森林を見れば、そこに豊かな自然があることは理解しやすい。しかし、一見すると湿った草地や利用しにくい低地に見える場所の地下に、巨大な炭素貯蔵庫があることは想像しにくい。
泥炭地は、植物が吸収した炭素を、水によって地中へ封じ込めてきた。
その貯蔵庫を維持しているのは、特別な機械でも巨大な構造物でもない。
「地面が濡れている」という状態なのである。
泥炭地を変える最初の行為は、火ではなく排水
湿った泥炭地は、そのままでは大規模な農業や道路建設に向いていない。
そこで土地を利用するため、排水路を掘り、地下水位を下げる。水が抜ければ地面に入りやすくなり、農作物や植林樹を育てることも可能になる。
しかし、泥炭地にとって排水は、単に水を移動させる行為ではない。
それまで水に覆われていた泥炭が空気に触れ、酸素が内部へ入る。すると微生物による有機物の分解が進み、蓄積されていた炭素が二酸化炭素として放出され始める。
つまり、火災が起きなくても、排水された時点で泥炭地は炭素の吸収・貯蔵場所から、温室効果ガスの排出源へ変わり得る。
UNEPは、劣化した泥炭地からの排出が、人為起源の温室効果ガス排出量の約4%を占めるとしている。この推計には火災による排出が含まれないため、深刻な火災が起きた年には影響がさらに拡大する。
土地を乾かすことは、地中に閉じ込められていた炭素の扉を開くことなのである。
乾燥した泥炭は「燃える土」になる
泥炭は、植物由来の有機物が高い割合で含まれた土壌である。
水を十分に含んでいる間は燃えにくい。だが排水され、長期間の少雨や高温によって乾燥すると、地面そのものが巨大な燃料になる。
落雷や自然発火だけでなく、農地造成のための火入れ、たき火、たばこ、機械の火花など、さまざまな原因が着火点になり得る。
地表の枯れ草や森林から始まった火が、乾いた泥炭層に到達すると、火災の性質が変わる。
一般的な森林火災では、炎を伴って樹木や下草が比較的速く燃える。一方、泥炭火災では、高温の部分が泥炭の内部をゆっくり移動する「くすぶり燃焼」が起きる。
大きな炎が見えないまま、火が地下数十センチ、場合によってはさらに深い場所へ入り込む。植物の根や泥炭の隙間を通じて、水平方向にも広がっていく。
地表から水をかけても、内部まで十分に届かなければ火は残る。
風によって炎が走る森林火災とは異なり、泥炭火災は地中で持続する。煙が弱まり、消えたように見えても、地下の火が別の場所から再び地表へ現れることがある。
なぜ消火が難しいのか
泥炭火災の消火が難しい理由は、火元が見えにくいことにある。
熱や煙は確認できても、地下で火がどの方向へ、どの深さまで進んでいるのかを地上から正確に把握するのは容易ではない。
人工衛星は広域の火災監視に欠かせないが、厚い煙や雲、森林の樹冠、地下の泥炭に遮られると、熱源を捉えにくい場合がある。NASAも、泥炭層の地下火災は衛星センサーでは検出が難しいと説明している。
また、泥炭地は軟弱で、人や重機が入りにくい。道路が限られ、水源から遠い場所では、大量の水を継続的に運ぶことも難しい。
表面へ散水するだけではなく、泥炭層の内部まで水を浸透させ、地下水位そのものを回復させなければならない場合がある。
火災の規模が拡大すれば、消防活動だけで抑えることは困難になる。
最終的にはまとまった雨季の到来によって、泥炭層全体が再び水を含むまで燃え続けることもある。
一ヘクタールから、森林火災の最大10倍の炭素
森林火災では、地上にある樹木や植物が燃える。
泥炭火災では、それに加えて、地中に蓄積された炭素まで燃える。
UNEPによると、泥炭地火災は一般的な森林火災と比較して、面積当たり最大10倍の炭素を放出する可能性がある。
これは、同じ面積の火災でも、燃えているものの厚みが異なるからだ。
森では主に地表より上の植生が燃える。泥炭地では、地表から下へ続く炭素の層が燃料になる。火災後に木を植え直したとしても、失われた泥炭層が短期間で元に戻ることはない。
数千年かけて蓄積された炭素が、数週間から数か月の火災で大気へ放出される。
泥炭火災は、現在の植物を燃やすだけではない。
過去の大気から植物が取り込み、土地が長い時間をかけて保管してきた炭素を、一気に現代へ戻す現象なのである。
煙は国境を越え、人の生活を止める
泥炭火災が生み出す問題は、温室効果ガスだけではない。
くすぶり燃焼によって大量の煙が発生し、微小粒子状物質、二酸化硫黄、一酸化炭素、メタン、有機化合物などが大気中へ放出される。
世界保健機関によると、山火事の煙にはPM2.5をはじめ、オゾンの生成に関わる物質、窒素酸化物、硫黄酸化物、多環芳香族炭化水素など、健康へ影響を与えるさまざまな物質が含まれる。
特にPM2.5は非常に小さいため、肺の奥深くまで入り込む。目や喉の刺激、せき、息苦しさだけでなく、ぜんそくや呼吸器疾患、循環器系への影響も懸念される。
煙は発生地域にとどまらない。
風に運ばれれば、数百キロ、数千キロ離れた都市まで広がる。東南アジアでは、インドネシアのスマトラ島やカリマンタン島などで発生した森林・泥炭地火災の煙が、シンガポールやマレーシアなどへ流れ込む越境煙害が繰り返されてきた。
視界が悪化し、航空便が欠航する。
学校が休校になる。
屋外労働や観光、商業活動が制限される。
医療機関には呼吸器症状を訴える人が増える。
一つの土地で行われた排水や火入れが、国境を越えた公衆衛生と経済の問題へ変わるのである。
2026年、再び煙に覆われるインドネシア
2026年9月、インドネシアのスマトラ島やカリマンタン島では、干ばつのもとで森林・泥炭地火災が拡大している。
NASAの衛星観測は、ボルネオ島から広がる厚い煙を捉えた。地表と地下で火がくすぶり、地下へ入った火は雨季まで燃え続ける可能性が指摘されている。
現地では大気環境の悪化によって呼吸器感染症や症状を訴える人が増え、学校教育や日常生活にも影響が出ている。煙は周辺国にも達しており、泥炭地の問題が一地域だけで完結しないことを改めて示している。
火災を激しくする直接的な条件は、高温と少雨である。
だが、それだけでは説明できない。
自然状態の泥炭地は水を多く含み、地下深くまで火が広がりにくい。あらかじめ排水され、乾燥しやすくなった土地へ強い干ばつが重なることで、火災リスクは急激に高まる。
気候変動が火災に適した気象条件を増やし、過去の土地開発が燃えやすい地面をつくる。
泥炭火災は、気候と土地利用が相互に影響し合う災害なのである。
パーム油だけを原因にしてよいのか
東南アジアの泥炭地問題では、しばしばパーム油農園の開発が取り上げられる。
アブラヤシを栽培するために森林を伐採し、排水路を設ける。土地造成や植生の除去に火が使われれば、乾燥した泥炭へ延焼する可能性がある。
しかし、問題を「現地の企業や農家が森林を燃やしている」という構図だけで捉えると、重要な部分を見落とす。
パーム油は、食品、洗剤、化粧品、加工品、バイオ燃料など、世界中のさまざまな製品に使われている。生産地で土地利用を変える力の背後には、安価で大量の原料を求める世界市場がある。
また、泥炭地はパルプ材の植林、農業、放牧、都市開発、燃料や園芸用土としての泥炭採掘などによっても改変されている。
私たちが店頭で手にする商品から、生産地の排水路や火災までの距離は遠い。
サプライチェーンが長くなるほど、消費地では土地の変化が見えなくなる。
煙は国境を越えて見えるが、その原因となる消費は、国境を越える前から私たちの生活につながっている。
泥炭地は、一度燃えると低くなる
泥炭が排水されると、有機物の分解が進み、地面が沈下する。さらに火災によって泥炭層が失われれば、土地の標高は一段と低くなる。
これは、火災後の問題を複雑にする。
地盤が低下した土地では、雨季に洪水や長期的な冠水が起こりやすくなる。沿岸地域では、海面上昇や塩水侵入の影響も受けやすくなる。
乾季には火災に苦しみ、雨季には水害に苦しむ。
本来、水を蓄えながら安定していた湿地が、排水によって乾燥と冠水の両方に弱い土地へ変わっていく。
しかも泥炭が燃えてしまえば、失われた高さを短期間で取り戻すことはできない。
地下に積み重なっていたものは、炭素の貯蔵庫であると同時に、土地そのものだったのである。
解決の出発点は「再び濡らすこと」
泥炭地火災への対策というと、消火設備、人工衛星による監視、消防隊の増強などが思い浮かぶ。
もちろん、早期発見と消火体制は必要である。
だが、泥炭地を燃えにくくする根本的な方法は、地面へ水を戻すことだ。
排水路をせき止め、地下水位を上げる。乾燥した泥炭を再び湿潤な状態に近づける。さらに、その水位で生育できる在来植物を回復させる。
泥炭地再生では、こうした「再湿潤化」が中心になる。
ただし、水を戻せばすべてが解決するわけではない。
すでに農地や集落として利用されている場所では、地下水位を上げることで作物や建物に影響が出る可能性がある。上流と下流、企業と地域住民、土地所有者の間で水管理の利害が異なる場合もある。
泥炭地は、水を通じて広い範囲がつながっている。
一つの区画だけを濡らしても、周囲で排水が続けば水位は維持できない。土地の所有境界ではなく、泥炭地全体の水文学的な単位で管理する必要がある。
濡れたまま利用するという選択
泥炭地を保全するために、人間の利用をすべて排除することは現実的ではない。
そこで注目されているのが、地下水位を大きく下げず、湿った状態のまま利用できる農林業である。「パルディカルチャー」と呼ばれ、湿地環境に適した植物を栽培しながら、生計と泥炭地保全の両立を目指す。
地域によって、繊維、建材、飼料、食品、薬用植物などに利用できる湿地性植物の可能性が検討されている。
重要なのは、泥炭地を乾いた土地へ変えてから利用するという発想を見直すことだ。
土地の水分条件に産業を合わせるのではなく、産業の都合に合わせて土地から水を抜いてきた。その結果、炭素排出、火災、煙害、地盤沈下というコストが発生した。
濡れた土地を、濡れたまま生かす。
それは生産を諦めることではなく、その土地の性質を前提に、利用方法を組み直すことである。
火災の映像だけでは、原因は見えない
泥炭地火災が報道されるとき、画面に映るのは赤い炎、煙に覆われた都市、消火活動を行う人々である。
だが、火災の本当の始まりは、その何年も前に掘られた排水路かもしれない。
農地開発の決定。
原材料の買い付け。
土地利用の許可。
国際市場での価格競争。
そして、消費地で商品を選ぶ私たちの判断。
火がついた瞬間だけを見ても、なぜ地面が燃える状態になっていたのかは分からない。
泥炭地火災は突発的な自然災害ではない。
水を抜き、土地を乾かし、地下の炭素を空気にさらしてきた結果として起きる、長い準備期間を持つ災害である。
燃えているのは、土地に保存された時間
泥炭地は、過去の植物が吸収した炭素を、地中に保管してきた。
その蓄積には、数百年、数千年という時間が必要だった。
しかし、排水によって乾燥すれば、その時間は急速に失われる。微生物による分解で少しずつ大気へ戻り、火災が起きれば大量の炭素が一気に放出される。
地上の森林は再び植えることができる。
だが、失われた泥炭層を、人間の時間感覚の中で元に戻すことは難しい。
だから泥炭地の保全は、単なる湿地保護ではない。
過去から預かっている炭素を、未来へ渡すための管理である。
火災を消すだけでは足りない。
地面を再び濡らし、燃えない状態をつくり、濡れた土地のまま地域の暮らしを成立させる必要がある。
泥炭地が乾くとき、失われるのは水だけではない。
土地に蓄積された時間そのものが、大気へ消えていくのである。
参考資料

