冬の朝、琵琶湖の湖畔を霧が包んでいる。
遠くの山並みは白くかすみ、波のない水面には、空と陸の境界だけが静かに残っている。
湖は、眠っているように見える。
しかし、水面の下では、湖の生命を支える大きな動きが始まっている。
冬の冷たい空気によって湖面の水が冷やされ、深い場所へ沈んでいく。代わりに湖底の水が上昇し、表層から深層までの水がゆっくりと入れ替わる。
この現象を「全層循環」という。
酸素を豊富に含んだ水を湖底まで届けることから、琵琶湖では「湖の深呼吸」とも表現されている。
だが、冬が暖かくなり、湖面の水が十分に冷えなくなれば、この深呼吸は弱くなる。
湖は変わらず静かに見える。
その水面下で、酸素が届かない場所が少しずつ広がっていく。
湖は、季節によって層に分かれる
春から夏にかけて、太陽に温められた琵琶湖の表面は水温が上昇する。
温かい水は軽く、冷たい水は重い。そのため、湖の上には温かい水が、深い場所には冷たい水がとどまり、その間に水温が急激に変化する「水温躍層」が形成される。
琵琶湖北湖では、真夏に表層水温が30℃前後まで上昇しても、水深20メートルより深い場所では10℃前後に保たれることがある。
このとき、湖は一つの水の塊ではない。
上層と深層が分かれ、互いに混ざりにくい状態になっている。
湖面では、風や波、植物プランクトンの光合成などを通じて酸素が供給される。一方、水温躍層より下では、表層からの酸素供給が滞る。
湖底には、プランクトンの死骸や有機物が沈んでいく。それらを微生物が分解し、魚や底生生物が呼吸することで、深層の酸素は夏から秋にかけて少しずつ消費されていく。
そして冬になると、湖の状態が変わる。
湖面の水が冷やされて密度が高くなり、湖底へ沈み始める。風の力も加わり、やがて上下の温度差が小さくなると、湖全体の水が混ざり合う。
こうして、酸素を含んだ水が約90メートルの深湖底まで運ばれるのである。琵琶湖環境科学研究センター
冬の寒さが、湖底の生命を支えている
私たちは、厳しい冬を暮らしにくい季節として捉えがちだ。
しかし、琵琶湖にとって冬の寒さは、湖底へ酸素を届けるために欠かせない力である。
表層の水が十分に冷えなければ、深層の水との密度差が残り、水が湖底まで沈み込みにくくなる。全層循環が遅れたり、深い場所まで届かなかったりすると、湖底の酸素は回復しないまま次の春を迎える。
さらに春から夏にかけて再び水温躍層が形成されれば、深層は長期間、表層から切り離される。
前年から残った酸素不足に、新たな酸素消費が重なることになる。
温暖化は、湖の水を単純に温めるだけではない。
季節によって水が動くタイミングや、水面と湖底を結ぶ循環の強さまで変えてしまうのである。
2019年、琵琶湖の深呼吸が止まった
琵琶湖北湖では、2019年と2020年に全層循環が確認されなかった。
観測史上初めて全層循環が完了しない状態が確認され、その翌年も未完了となった。
特に2020年には、深湖底で約3か月にわたって無酸素状態が続き、イサザやヨコエビ類など、湖底付近に生息する生物への影響が確認された。
琵琶湖は、およそ400万年の歴史を持つ古代湖である。
長い時間の中で独自の生態系が形成され、琵琶湖にしか生息しない固有種も数多く存在する。その生命の一部は、人の目が届きにくい暗い湖底で暮らしている。
全層循環の未完了は、湖全体がすぐに死んでしまうという話ではない。
しかし、毎年届いていた酸素が届かなくなることは、深湖底の生き物にとって、生息条件そのものが変わることを意味する。琵琶湖環境科学研究センター「琵琶湖の全層循環」
酸素が失われると、湖底から物質が動き出す
深層の酸素不足は、生物の呼吸だけに影響するわけではない。
湖底の堆積物と水の間では、さまざまな化学反応が起きている。酸素が十分にあるときと、ほとんどないときでは、その反応が変わる。
無酸素状態が長く続けば、湖底の泥にとどまっていたリンやマンガンなどが水中へ溶け出しやすくなる可能性がある。
リンは植物プランクトンの成長を支える栄養である。深層に蓄積した栄養塩が何らかの形で表層へ運ばれれば、湖の生産構造や水質にも影響を及ぼす。
つまり、全層循環の変化は、湖底だけで完結する問題ではない。
酸素、生物、栄養塩、水質が連鎖し、湖全体の物質循環へ広がっていく。
湖が混ざることは、単なる水の移動ではない。それは、湖の内部に酸素と栄養を配り、生命のバランスを調整する働きなのである。
深呼吸が戻っても、問題が消えたわけではない
全層循環は、毎年必ず止まっているわけではない。
2026年2月10日の調査では、琵琶湖北湖の第一湖盆で全層循環の完了が確認され、湖底付近の溶存酸素量は1リットル当たり10ミリグラム前後まで回復した。
1月から2月上旬にかけての冷え込みと強風によって、湖水が十分に混合されたと考えられている。
一方、その前年の9月以降には湖底付近の酸素が少ない状態が続き、その後の調査でイサザやスジエビなどの死亡個体も確認された。水中ロボットの調査では生きた個体も確認され、滋賀県は影響を限定的と評価している。滋賀県「琵琶湖北湖において全層循環の完了を確認」
ここで重要なのは、一年の結果だけで安全か危険かを判断しないことである。
寒い冬が来れば、全層循環は回復する。しかし、気温、水温、風、降水、湖へ流れ込む有機物など、複数の条件によって深層の酸素状態は変化する。
2026年に深呼吸が確認されたことは朗報である。
同時に、全層循環の未完了や底層の酸素低下が、もはや想像上の未来ではないことも、過去の観測が示している。
水をきれいにするだけでは守れない
湖の環境問題というと、工場排水、生活排水、農業から流れ込む栄養塩など、外部から入る汚染物質が注目される。
もちろん、流域からの負荷を減らすことは重要である。
しかし、流入する物質を管理するだけでは、これからの湖を守りきれない可能性がある。
たとえ同じ量の有機物が湖へ入ったとしても、水温が上昇し、成層する期間が長くなれば、深層で酸素が消費される期間も長くなる。冬の冷え込みが弱くなれば、失われた酸素を回復させる機会も減っていく。
湖の状態は、流域の土地利用だけでなく、遠く離れた場所から排出される温室効果ガスともつながっている。
気候変動は、湖畔だけでは解決できない。
だからこそ、温室効果ガスの削減と同時に、水温、全層循環、溶存酸素、生物、湖底からの物質溶出を継続的に観測し、変化へ適応していく必要がある。
滋賀県の2026年度から2030年度までの琵琶湖保全再生計画でも、全層循環の未完了や遅れ、それに伴う深水層の貧酸素化が課題として位置づけられている。滋賀県「琵琶湖保全再生施策に関する計画」
静かな湖は、変化を語らない
湖は、急流のように音を立てて変化しない。
岸辺から見えるのは、穏やかな水面と、霧に隠れた山々である。
全層循環が起きた年も、起きなかった年も、湖の外見が劇的に変わるわけではない。湖底の酸素が減っていても、水面は変わらず空を映している。
だから、私たちは湖の変化に気づきにくい。
しかし、静かであることと、安定していることは同じではない。
冬の冷気が水を沈め、風が湖を混ぜ、酸素が暗い湖底へ届く。その季節の連なりによって、見えない場所の生命が支えられている。
琵琶湖の深呼吸は、湖だけの現象ではない。
気候と水、生物と季節が、互いにつながっていることを示す地球の呼吸である。
霧の向こうに広がる静かな水面。
その美しさを守るために必要なのは、見えている景色だけを見ることではない。
水面の下で、湖がきちんと呼吸できているかを見続けることである。

