教えることは、もうひとつの“創造”である─専門学校で得た思考の再構築
専門学校でマーケティングやPR、ブランド論を教えるようになってから、時間の流れが少し変わった気がする。
教える準備をするたびに、知識を詰め込む“インプットの時間”が、自分の中で“再編集の時間”に変わっていく。
学生の意識の濃淡はさまざまだ。真剣な眼差しの者もいれば、どこか遠くを見ているような者もいる。 だが、その反応の揺らぎにこそ、社会の温度が映っている。 教えるという行為は、彼らの未来をつくると同時に、私自身の“現在”を再定義する営みでもあるのだ。
思考を「地図」にする─教えることで見えてくる構造
マーケティングやブランドの理論を、人に伝えるという行為は、思考の整理を強要する。 どんな順番で話すべきか。どこに核があるのか。 それを繰り返すうちに、頭の中の知識が地図のように結びついていく。 教えるとは、情報を渡すことではなく、思考の構造を可視化するクリエイティブなのだ。
感性を再調整する─Z世代が教えてくれること
講義のなかで、学生たちの表情や沈黙、笑いに触れるたび、時代のリズムが変わっていることを感じる。 彼らの反応は、私にとってのリアルなリサーチだ。 何が響かず、何が届くのか。 その差分を感じ取ることで、自分の感性のキャリブレーション(再調整)が行われていく。 結果的に、NEOTERRAINの映像づくりや言葉選びにも新しい感覚が生まれる。
教育という“創造の舞台”─伝えることで、また自分に還る
教壇は、もうひとつのステージだ。 カメラの前で語るときとは違い、目の前にいる学生の表情が、こちらの思考を映し返してくる。 そのやり取りの中で、自分が信じてきた理論や哲学─MDCA理論のような枠組みを、もう一度問い直す。 教えることは、他者のためでありながら、自分自身を再構築するための鏡でもあるのだ。
教育は「知を配る」ことではない。
教えることは、世界をどう見ているかを更新し続ける“創造的筋トレ”だ。
学生たちの意識が高くても、淡くてもいい。 重要なのは、その揺らぎを感じ取りながら、 自分の思想を毎回、ゼロから立ち上げていくこと。 そのプロセスこそが、クリエイティブの本質なのだと、今、教室で実感している。

Text by NEOTERRAIN 編集長(Column / 教育とクリエイティブ)

