新春企画として、この一本ほど相応しい題材はないかもしれない。
ブラッド・ピット主演の映画『F1』は、単なるモータースポーツ映画ではなく、 時間を忘れさせる没入体験そのものだった。
轟音、振動、視界の揺れ。
サーキットという極限の空間に観客を放り込みながら、 物語はレースの表舞台だけでなく、舞台裏へと静かに踏み込んでいく。 メカニックの指先、無線越しの沈黙、判断が一瞬遅れれば全てが瓦解するピットの緊張感。 それらが丁寧に積み重なり、約3時間という長さが、 いつの間にか「短かった」と感じられる構成になっている。

あの頃、F1は“時代”だった
1990年代、アイルトン・セナが世界を席巻していた時代。
フジテレビがF1中継を行い、日曜の夜には多くの人が サーキットの熱狂を共有していた。
私自身も、その空気をよく覚えている。
だがセナ亡き後、関心は少しずつ日常から遠ざかり、 F1という言葉を耳にする機会も減っていった。 若者の車離れ、モータースポーツと生活の距離、 そしてメディアの重心の変化。 F1はいつしか、「知っている人だけの世界」になっていたのかもしれない。

F1を“産業”として見る視点
しかし、F1は決して一競技では終わらない。
フォーミュラ1は、巨大な経済圏であり、 同時に政治的な舞台でもある。
開催地には国家の戦略が反映され、 スポンサーにはグローバル資本の思惑が交錯する。 技術革新は軍事・エネルギー・環境分野と連動し、 勝敗の裏には常に「交渉」と「ルール」が存在する。 映画は、その複雑な構造を声高に説明しない。 ただ、映像とリズムの中で “そうであること”を体感させる。

330億円が生んだリアリティ
制作費330億円規模とされる本作が到達したのは、 派手さではなくリアリティの質だった。 CGではなく、実在のサーキット、実在のスピード、 実在の緊張。 そこに人間の物語を重ねることで、 F1という抽象的になりがちな世界を、 再び「触れられる距離」へと引き戻している。
これはノスタルジーの映画ではない。
かつてF1を見ていた世代にとっては記憶を静かに呼び覚まし、 知らない世代にとっては、 「なぜ人はここまで速さに魅了されるのか」という 根源的な問いを差し出す。

新春に、この映画を語る意味
新しい年の始まりに、この映画を語ることには意味がある。
スピードと合理性の時代に、人は何を信じ、 何に情熱を注ぐのか。 F1は、その問いを極端な形で可視化した舞台だ。
そしてこの映画は、
F1というモータースポーツを、 再び「思考の対象」として私たちの前に差し出した。
忘れていた熱狂を、ただ懐かしむのではなく、 経済、政治、技術、そして人間の選択として見つめ直す。 それこそが、この作品が持つ最大の価値なのだと思う。
新春にふさわしいのは、派手な祝祭ではなく、
静かに、深く、世界を考え直すきっかけ。
『F1』は、確かにその一本だった。
NEOTERRAIN Journal 編集長 三宅雅之


