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覗き見が消えたテレビ、覗き見を回収したネット

感情と構造の対比を象徴する抽象的なビジュアル。人の表情と設計図や幾何学的構造が

人はなぜ、他人の人生を見てしまうのか。
それも、整った成功談より、怒りや焦り、崩れかけた表情に惹きつけられるのはなぜなのか。

それは下世話な好奇心ではない。
もっと根源的な、人間の本能に近い欲求だ。

かつて、あるテレビプロデューサーはこう語った。

テレビ番組は、覗き見装置だ。

金を持つ人は、どんな生活をしているのか。
夜の世界で働く女性は、どんな恋愛をしているのか。
成功者の財布の中身には、何が入っているのか。

テレビは長い間、「安全な距離から他人の人生を覗く」装置として機能してきた。

Contents

感情が露出する瞬間に、人は引き寄せられる

近年、ネット発の映像コンテンツが強い理由は明確だ。

  • 忖度のない言葉
  • 編集で均されていない表情
  • 怒り、諦め、焦燥といった感情の露出

そこにあるのは、完成されたストーリーではない。
制御されていない瞬間だ。

人は情報よりも、「感情が制御を失う瞬間」に反応する。
それは共感というより、覗いてはいけないものを見てしまった感覚に近い。

コンプライアンスが奪ったもの

一方で、地上波テレビはどうなったか。

  • 過剰な配慮
  • 炎上回避
  • スポンサーへの忖度
  • 編集による感情の無害化

これらは社会的には正しい。
しかし結果として、テレビは「覗き見」を手放した。

正しく、丁寧で、説明的。
だが、感情の摩擦が起きない

人が思わず立ち止まってしまう、あの“ざらつき”は、静かに消えていった。

ネットが回収した「テレビの原初衝動」

ネット番組が回収したのは、新しさではない。
テレビがかつて持っていた、原初的な欲望だ。

  • 他人の人生の裏側
  • 成功者の不安定さ
  • 言葉にできない怒りや絶望

それらを、倫理ギリギリの距離で差し出す。

視聴者は答えを求めていない。
求めているのは、リアルに揺れている人間だ。

覗き見には、限界もある

感情を武器にするコンテンツは強い。
しかし同時に、消耗も早い。

  • より強い言葉
  • より過激な表情
  • より深い絶望

感情はインフレを起こす。
そして、視聴者は疲れていく。

覗き見は快楽だが、常用すれば麻痺する。

もう一つの覗き見 — 構造を見るという選択

覗き見には、別の形がある。

感情ではなく、意思決定の裏側を覗くこと。

  • なぜその選択が行われたのか
  • なぜこの国、この地域はそう動いたのか
  • なぜ今、この歪みが生まれているのか

そこにあるのは怒りではなく、理解。
絶望ではなく、文脈。

派手ではない。
だが、積み上がる。

覗き見の時代は終わらない。ただ、質が問われる

人はこれからも覗き見る。
それは変わらない。

問われるのは、

  • 感情を覗くのか
  • 構造を覗くのか

どちらを差し出すかだ。

前者は即効性がある。
後者は時間がかかる。

だが、メディアの寿命を決めるのは、後者だ。

覗き見は、メディアの本能。
だが、感情を消費するか、構造を共有するかで、
そのメディアが残す価値は決まる。

— 覗き見は、まだ終わっていない。
ただ、その“深さ”が問われている。

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